第8話
アルトゥステア歴七百十四年、十二月二日。火傷を負って一年と半年。
エクトルが王立学院に入学し、そしてリュシヴィエールが生まれ育ったクロワ侯爵領キャメリアを後にした春から、再び季節が一巡しようとする。
リュシヴィエールが今いるのは、コーンウェール伯爵領シュロトカにひっそりとたたずむ小さな屋敷だった。位置関係としてはキャメリアの隣の隣、ここから馬車で一日すれば王都につける。王立学院は王都にあるわけだから、エクトルとの距離はむしろ近くなったと言っていい。
シュロトカは【暁の森】と呼ばれる不気味な広葉樹林を所有する土地で、屋敷はその森のかたわらにあった。誰もわざわざ近づいてこようとはしない、人目につかない立地だから、問題ある貴婦人たちを幽閉するために使われてきたらしい。父がここを買い取りリュシヴィエールを住まわせたのだった。
――あの一件は不審火からの不幸な事故だったということになっている。
明らかな魔法の火を見たことについて、リュシヴィエールは口をつぐんだ。調査にやってきた王の調査官にさえ話さなかった。
魔法使いが没落しかけた侯爵家を燃やしてなんの利益がある? あれは明らかに誰かを狙って放たれた火だった。リュシヴィエールを? いいえ。それこそ没落貴族の令嬢を燃やしても意味がない。
エクトルは原作通りなら暗殺者として侯爵の犬になり、数々の恨みを買っていた。命を狙われることも多かったと聞く。原作の強制力で、あるいはもっと別の理由で彼を狙って火が放たれた可能性はあった。
(エクトル、無事でいて……)
今はそれを祈る他なかった。
王立学院は強力な守りの魔法が張られ、それこそそこらの貴族の屋敷など目ではないほどだという。エクトルが身を隠すには十分な環境なのだとリュシヴィエールは思う。
……一年前。
入学前の最後の日の夜、エクトルはリュシヴィエールの寝室に現れた。リュシヴィエールはそのとき、肌けた胸と腕に軟膏を塗っている最中だった。
「エル、出てお行き」
「手伝うよ、姉上。これからしばらく会えないでしょ。最後くらいいいでしょ」
と肩をすくめる少年に、何も言い返せなかったのはリュシヴィエールの落ち度である。
治療魔法のおかげで肌のかさつきとデコボコはずいぶん治って、けれどまだ白さは戻らない。火傷の赤さはところどころを醜く腫れあがらせたまま、とくに黒く色素が沈着してしまった肘関節付近の見た目はなかなか目を逸らしたくなるものがある。
リュシヴィエールはしぶしぶ、薬草と魔法を練り合わせた軟膏をエクトルに手渡した。彼は慣れた手つきで木匙を持ち、容器の中をくるくる回して柔らかくしてから、リュシヴィエールの手の届かない背中や首の後ろに塗り広げた。
「このあたり、まだ皮膚が薄いですね」
「ぅ、んん。ええ、そうね……」
剣の練習の成果で硬い肉刺のある、すでに大人ほどに大きなエクトルの手が背中を滑る。すべすべした軟膏ごしに感じる手の温度、その手つきが患部を触る慎重さというよりは……どこか、大事なものを壊さないような意図を持っていると感じることから、必死に目を逸らした。
「学院の手引書は読んだの? どう? うまくやっていけそうかしら」
と話題を挙げて、リュシヴィエールはわざと能天気な声を出した。窓の外でざあざあと風が鳴っていた。
「全部読んだよ。俺がしくじると思う? きちんとやってくるよ。友達だって仲間だって作ってくる」
でもなあ、とエクトルは張り合うようなやけに明るい声を出す。
「貴族の友達なんて、これまでいなかったから。緊張するなあ」
王立学院に入学すると生徒は皆、寮生活になる。親元から離れ自立心を得るため、どんな高貴な生まれであろうがそうする決まりだ。
首の付け根の丸い骨をかさついた親指がぐっと押す。リュシヴィエールはびくりと背骨を跳ねさせた。それにまるで気づかないふりをして、エクトルはぐっぐと指の力だけでリュシヴィエールの凝り固まった背中をほぐしていく。
「ティレルや他の年配の連中に聞いたんだ。友達を作るにはどうすればいいかって。そしたらみんな口を揃えて言う。相手の言葉をよく聞いて、気持ちを汲んでさしあげることですよって。あとは球技なり好きなことを協力してやるようにして、そしたら気づけば親友ですってさ――ハハ、ねえ姉上?」
「あ、な、なに?」
「それってまるで姉上が俺にしてくれたことみたいだよね」
ぐうう、っと名前の知らない感情でリュシヴィエールの胸はいっぱいになる。嬉しさのようなもどかしさのような、くすぐったい温かいもの。
「それなら俺はやり方を知っているもの。きっと大丈夫だよね」
「あ……のね、エル。エクトル」
「うん。なあに?」
――これからなかなか会えなくなるのだ、と思う。それならなおのこときちんと話すべきだとする自分と、逆に時間と距離を置くことで状況が変わるのを期待する自分がいる。
「エクトル、あなたは――わたくしと平民の子たちくらいとしか打ち解けてこなかったから。だから少し、他のご子息ご息女とは離れた部分があるかも、しれなくてよ」
「はい、姉上」
エクトルの両手がリュシヴィエールの肩を掴み、親指が肩甲骨の間をぐっと押す。軟膏は塗り終えて、薄い治りかけの皮膚に配慮した按摩にほうっと息が漏れた。
エクトルのすることなら説明なんてなくてもリュシヴィエールは恐れることはないし、その逆もその通り。あんなに、近しかったのだもの。お互いにすること、されることに疑問や痛みを覚えることはない。
リュシヴィエールはとっくに自分がエクトルから離れては生きていけないのだということを自覚している。子離れができない呆れた母親のように、エクトルに執着している。
このままではいけなかった。まずは身体を治し、神への信仰でも刺繍でもなんでもいい、心の拠り所を探すのだ。どこへも行けなくなる前に。
火事以来少しばかり開いた距離を、むしろ正常になるための第一歩だととらえるべきだった。
「あなたの……わたくしへの想いは、気の迷いだから」
エクトルの手にわずかに力が籠った。長い間寝付いていたので固まった筋肉は後遺症のひとつだ。そこを揉み解してもらえるのは嬉しいしありがたい、けれど――いつかエクトルは離れていくものだと、リュシヴィエールは思わなければならない。
「普通の女の子を見て、自分の中を見つめ直して。お願いよ。わたくしはそれだけを望んでる」
沈黙が落ちた。
エクトルがふっと笑う気配がして、やがてがさがさになった首筋の皮膚に吐息が触れる。
「エル!」
押しとどめようとした手をエクトルは掴んだ。
「俺が母上の子じゃなかったら、同じこと言ってた?」
間近に見る青い目のふちに、銀の輪がきらきらと浮かび上がっていた。リュシヴィエールは目を逸らした。息を整えようとして、耳に吹きかけられた息、軽く触れた唇の渇いた感触にひっくり返りそうになる。
わなわな震える手で、それでもなんとか、エクトルの小さく形より丸い頭を押しのけることができた。
「可能性はあるだろ、姉上? あの母上だ。どうしようもない人だ。自分が産んだんじゃない赤ん坊を押し付けられて連れ帰ってきたり、するかもしれない人だろ。――頭が悪くって!」
「母の悪口など言うものじゃないわ、エクトル。お母様がそんなことをする理由がどこにもないじゃない。あの人がご自身の名誉すべてと引き換えに赤ん坊を助けるだなんて」
「学院に慣れたらね、王宮の内情を知ってる生徒を探すつもりでいるんだ。何かわかるかもしれない」
リュシヴィエールは黙ってエクトルから身を離す。
「もう行きなさい。やっぱり部屋に入れるのではなかったわ」
元はメイド用の、粗末な小屋である。壁の穴にリネンを詰めて隙間風を塞ぎ、小さな暖炉にめいっぱい薪を突っ込んでお嬢様が寒くないようにしてあるだけの。
「姉上。もしそれで、俺たちがなんでもなかったら……俺とあなたは」
「仮にそうだったとしてもわたくしはおまえなんか相手にしないわ」
リュシヴィエールはきっぱりと首を横に振った。
「ただの弟ですからね、おまえは」
エクトルはぐっと唇を噛み締める。拳を握った彼に恐怖を覚えたのははじめてだった。殴られる――ことはないと、知っていたけれど。
そっと小屋を出ていく少年の背中を見送り、まともに話したのはそれが最後だった。
翌朝、まだ朝もやの出ている屋敷前の大通りにリュシヴィエールはエクトルを見送った。
何かを言い合うような時間はなく、ギリギリまで荷物を詰め込んだトランクを引きずるエクトルは不釣り合いに幼く見える。彼はしばらく不貞腐れたように下を向いていたが、やがて顔を上げて、
「それじゃあ……行ってきます」
とだけ言った。
迎えの馬車が門の向こうに止まっていたが、すし詰めだった。近隣の学生たちのうち金のない者が、つまり平民の特待生や支援者を得て入学した商家の息子などが詰め込まれているのだ。エクトルが息を詰まらせないかリュシヴィエールは心配した。
「いってらっしゃい。元気で。新年祭には帰ってきてね」
「わかってる。俺――」
何か言いかけたのは御者の大声に遮られた。早くしてくれんかね。みんな待ってるんだよ。
「じゃあ、姉上。身体を冷やさないで。俺のこと、待っててくれる?」
「ええ。いつまででもここで待ってるわ」
そうして手を振り、エクトルは駆けていく。
これでよかったのだ、と思った。いつまでも不健康に家の中で怪我人の姉のことばかり見ていないで。もっと広い、明るいところが彼にふさわしい。
「青春を楽しんで。友達や恋人と…」
と一人呟く声には羨望が混じっていた。リュシヴィエールにはどこかからりとした達観があった。
……これで原作のゲームのストーリーが始まる。そしてリュシヴィエールはエクトルを殺さない。決して、それだけはしない。
王立学院での青春と、その先にある未来がエクトルを待っている。仮に原作の強制力じみた何かが運命の名の下にリュシヴィエールを凶行に駆り立てるのだとして――だったら自殺してでも自分の腕を止めてやる。その覚悟がリュシヴィエールにはある。
今までは違った。仮にも若い美しい女だった頃には、自らを惜しむ一人前の気持ちがあった。
けれど今ここに残るのは、若くもない火傷を負った片足を引きずる女である。一生を人の善意に縋って生きなければならない、もはや貴族の血筋さえ重荷になるほどの身。
誰になんの見栄を張る必要もなく、自分自身にさえ嘘をつかなくていい。
リュシヴィエールはやっと解放された気持ちだった。
この先エクトルの人生にリュシヴィエールが必要なくなり、手紙のやりとりさえ間遠になるのだとしても――死にたいほど悲しくなっても死ぬことはないだろう。
リュシヴィエールはいつまでも馬車の後ろ姿を、わだちの跡を見送った。やがてさんさんと春の太陽が頭上に輝くようになるまで。
そして荷物をまとめ、取り壊されるクロワ邸をあとにしてシュロトカの【暁の森】の近くに引っ越してきたのだった。
クロワ邸は再建され、父とその『妻子』が住むのだという。彼が再び仕事にやる気を見せたのなら、それは何より領民にとっていいことだ。やはりリュシヴィエールでは書類仕事ひとつとっても限界がある、小娘を舐めた管財人に掠め取られたぶんの財源を、父は正しく取り返すに違いない。
言葉はもらえなかったが、父の署名と封印のあるぶっきらぼうな手紙が一枚、きていた。貴族令嬢が着飾るには少ないが女一人が生きていくには足りるほどの年金の支給の報せだった。将来を悲観する他ない身の上だったが、たとえ父が死んだら途絶えるかもしれない送金でもしばらくの安泰を保証されるのは助かった。父を愛していなかったが、感謝の念はふつふつと湧いてきた。
あとの人生はリュシヴィエールの心得次第である。
そのようにして人が近寄らぬ魔が住むという【暁の森】のかたわらで、リュシヴィエールの新しい生活が始まったのだった。
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