第4話

 リアル(現実)とリアリティ(創作)。人は時々、こいつの違いが分からなくなっちまうときがある。例えばそれは、映画や舞台演劇を鑑賞しているとき。目の前で起こっている出来事が作り物であるにも関わらず、現実を忘れて没入し、感動のあまり涙を流してしまう。だから人は、エンドロールが流れたときにふと現実に返されて、良い話だったなあ、と僅かな寂しさと余韻に浸る。俺は役者。舞台も映画も経験している。そんな俺の趣味は、人を騙すことだ。

 俺が作り出した感情で客に現実を忘れさせることがたまらなく好きだ。そして、そういった才能をもつ俺自身のことも俺は好きだ。だからそれを仕事にした。

 けどまあ、俺のような人間は、この広い世界に山ほどいる。こいつ。

「何も泣くこたねえじゃねえかよ。おい、聞いてんのか」

 都会の喧騒から離れた夜の公園、そのベンチで涙を流す石ノ森聖菜も、そのうちの一人だ。俺は、こいつがあんまりに泣き止まないことに難儀して、先ほどからベンチの上で腕を組みっぱなしだ。全く、九月下旬の夜に全裸で公園にいるなんて我ながらいかれてるぜ。

「これが現実なんだよ。芸能界の末端じゃこういうこと起きてんの」

 言いながら、あまりにありきたりなセリフを吐く自分に寒気を覚える。寒さは、感じないのにな。すると突然、「うおっ!」聖菜が俺の頬に平手打ちをしようとして、しかしその手が体を通り抜けていった。

「あんたのせいなんでしょ! 勝手にあたしの体に乗り移って!」

 ふうむ。真っ赤な目で睨みつけられてもな、俺だってわざとじゃない。何とかしてやりたいって思ってたら、気が付くと聖菜に憑依してしまっていたのだ。

「許せ。俺だって憑依できるなんて知らなかったんだよ」

「勝手断ったのは、あんたじゃん!」

「あれはお前を守るためだろうが。良いように使われて捨てられるのがオチだった」

 そこまで言ってようやく聖菜が矛を納めたように口を閉ざす。明らかに不貞腐れてんな、こいつ。「んで、これからどうすんだ?」と言いつつも、次も何も別の事務所を探す以外にないんだろうけど。しかしすぐに返事が来ることはなく、暫く夜の草藪から虫たちの鳴き声だけが空しく響いていた。「あたし……さ」

 口を開いたと思えば、そこで言葉を詰まらせる聖菜。クソ。そんなに背中丸めて負のオーラまき散らしてたら、続きの言葉が大漏れじゃないか。わざわざ止めるなよ。俺は、痺れを切らして言う。

「まさかと思うが、あたしには女優になる才能がないとか言い出すんじゃないだろうな?」

「…………」

 やっぱり図星だったらしい。先が思いやられるぜ、溜め息が出そうになる。

「いいか、聖菜。お前が何年この夢を追いかけてきたか分かんねえけど――」

「――五年よ。高校演劇で三年、大学に来てから二年も女優目指してるのに」

「たった五年だろ。この業界じゃ、長くもねえし短くもねえ。四十代でようやっとブレイクする人もいるんだぜ。そっから売れ続けるとなると数えるほどしかいない」

 そういう世界に俺たちはいる。まあでも、聖菜の気持ちも分からないわけじゃない。

上手くいかないことが当たり前だからって、上手くいかない自分を許せるわけじゃない。誰だってそうだ。そういう自分を慰めることは、誰にもできない。

 掛けられる最善の言葉を掛けるだけ。

「だからまあ、諦めるのは……おい、聖菜」

 しかし聖菜は、言葉を遮るように立ち上がって公園の外へと歩き出す。若いな。俺も昔は、そうだった。そうやって駄目な自分ばかりが気に留まって、大切なことと向き合うのが後回しになっていた。「聞いてくれ、聖菜」俺は、一言、声音を柔らかくして彼女を呼び止める。ぴたりと止まった後ろ姿に俺は言う。

「本当に心折れたなら、どうしてあのとき泣いたんだ?」

確かに俺は、あのクソマネージャーの前で一芝居売ってやったが、涙を流したのは俺の意思じゃない。聖菜自身が流した感情だった。

「悔しくて泣いたんじゃないのか」

「…………」

 返事がないのは、またしても図星らしい。規則正しく揃った両足、呼吸のリズムに合わせてゆっくりと動く肩、けれど血が上っているのか首が赤い。それから握られていた拳がゆっくりと解かれ、わずかに震えている、ように見えた。聖菜は、素直過ぎる……いや、自分を見せるのが上手いんだ。まるで映画のワンシーン。現実でそれをやるのは、あまりに痛過ぎる頭をしているが、驚くことにそのリアリティに引き込まれそうになる。要するに――

――その後ろ姿を見ているだけで心の動きが伝わってくる。はは、才能あんじゃねえか。

「聖菜。もう答えは、出ているはずだ」

 諦める、なんてことできるはずがない。お前の裸の心にそう書いてある。

 だから。

「俺と組め、トップにしてやる」

「……あたし、お芝居がしたい。もっとたくさん演じたい」

「ああ。演じさせてやる」

「もっと演技を見せつけたい」

「ああ。見せつけろ」

「もっと、もっと……あたしは、やれるって思い知らせたい……!」

「ああ。世界に分からせてやろうぜ」

 自信満々に俺は、言う。いくら俺だと言っても、彼女をトップにしてやる確証はない。

 けれど、どうしてだかできる気がしていた。

 この新人には光るものを感じる、なんて親みたいな気持ちになっていた。

 この予感が本物か、あるいは親心か。それを確かめる術は、一つしかない。

 聖菜が振り返って、こちらを見る。俺は、恥ずかしげもなくナニを見せつけたまま、それを受け止める。決然とした表情を浮かべていた。全裸に慣れるの速すぎだろ。だがまあ、適応力があると思えば、良いところか。

「あたし、絶対プロになる」

 俺は、そんな彼女を見て、いつの日かの自分を思い出す。

 売れない俺を支えていてくれた恋人、彼女もこんな沈みかけの、そのくせ目的地は黄金郷エルドラドな船を見守っていたのだろうか。それを確かめる術は、もうないけれど気になった。

「よし、取引成立だ。それじゃ、景気付けに握手でもしようじゃねえか」

 俺たちは、互いに差し出した手をすり抜ける、そんな力強く斬新な握手を交わした。



 中学三年生の秋。あたしの人生において最低な時期であり、最も幸運な時期でもあったあの頃を今でも忘れてはいない。あたしは、年相応に自分の将来に絶望して病んでいたのだ。とは言え、我ながら自分の悩みは他人からしてみると贅沢過ぎるものだったに違いない。成績はそこそこ優秀で、生徒会長としても活躍して、部活のテニスも県大会出場まで頑張って、悩む必要なんてどこにもないように見えていただろうから。だけどそんなの、他人だからそう思えるだけ。あたしの悩みは、自分の中で確かな質量をもって存在していた。

 そんなあたしの苦悩は、何をやっていても無駄に感じてしまうということだった。成績が良くたって学者になれるほどじゃない。生徒会長になれたって政治家になれるわけじゃない。運動ができたってプロになれるわけじゃない。だから、今あたしが経験していることは、いずれ全て無駄になるんだと、そう思えて仕方がなかったんだ。

 だけどそんなある日、あたしは担任教師の先生から運命の助言を与えてもらった。

「役者になってみたら? 全ての経験が生きる、私はそういう仕事だと思ってるよ」

 そんな運命の日から、はやいこと五年が経ちました。

 先生。あたしは、まだ夢の途中にいます……。

 十一月上旬。あたしは、自宅マンションの窓を開けて、隣マンションのせいで隠れた青空に向かって叫ぶ。どうか、雀の鳴き声をかき消して、コンクリート壁を貫いて、どこかで生きている先生に届け。

「先生のばっきゃろー! おかげで今月も生活カツカツじゃーい!」

「うるせえぞ! 朝、何時だと思ってんだ!」

「十一時半だわ! 早く起きろ、この無職!」

 隣マンションの二つ上窓から苦情を訴える成人男性に怒鳴り返して窓を閉める。バタン。最高に最低な金曜日の始まりだ。よしっ、と気合を入れて部屋を見渡し、今日も今日とて私は、フローリングから半身だけ突き出した全裸男の前に腰を下ろす。どっこいしょ。

「ねー裸男」

「裸男言うな、売れ残り女。朝から元気過ぎんだろ。ふわぁあ」

「売れ残り女言うな。てか幽霊に眠いとかあるの?」

「あ、そういやねえな。日光浴びると癖であくびが出るんだよ。それでなんだ?」

 ふっふっふ。眠たげな顔をした霧島(通称、裸男)にあたしは、満面の笑みを向けて携帯電話、その着信履歴を見せる。「うおっ、オーディション運営からじゃねえか」

「昨日、あたしのバイト中に電話がありました。なお気が付いたのが二十三時だったので掛け直してません!」

 だから結果は、知らない。しかし、屈辱を知ったあの日から約二か月、三万人のオーディションを勝ち進み三次審査まで奇跡的に通過してきた今回は、いける気がする。

夢の大手事務所デビューは、目前なのだった。

「メールとかで審査結果届いてなかったのか?」

「届いてたけど、怖くて開けてないぜっ!」

「そうかい。ふぁぁあ……はやめに確認しとけよ」

 思いのほか盛り上がらない反応で、ついにはこちらに尻を向けて横になりだした裸男。元ハリウッドスターとは思えない姿だが、さすがに二か月も一緒にいると幻滅もしなくなる。これが芸能人の裏側だ。自分が変に理想を抱いたり、在り方を押し付けたりするタイプじゃなくて良かったと心底思った。でも、

「え、なになに。何ですか? 気にならないワケ?」

「そんなことはねえよ。でも、こういうのって駄目で元々だしな。今回の規模でかいし」

 そんなことはない。を後半で全て打ち消してくる裸男に若干気を悪くしつつ、しかし期待し過ぎるのも良くないなと納得。それこそ前回と同じことの繰り返しになりそうだ。

 ここは、落ち着いて家族からのLINEを確認するくらいの気持ちで行こう。そう思って、淡々とメールを開封してみる。

「あ、最終選考にお進みくださいだって。しかも来週だ」

「ふーん……え!? マジでかっ!?」

 間の抜けた声を出した裸男は、わざわざあたしの背後に回り込み、こちらの胸から顔を貫かせて画面を覗き込んでくる。普通に嫌過ぎるんだけど。というかやっぱり落ちると思ってたんじゃん。二重で嫌だわ……だけど。

「へへ……えへへへ……このままデビューしちゃったりして」

「馬鹿野郎、フラグ立てんじゃねえよ。しかしまあ、この規模の、インフルエンサーも参加しているだろうオーディションで最終に残るなんて何かもってるのかもしれないな」

「ちょっとそれ死亡フラグじゃないの!?」「全力で死んで来い……というか普通に」

「おめでとう」

 そう言って裸男が優し気な笑みをこちらに向ける。あまり見ない表情で、それは何だか、

「あざっす!」

 普通に嬉しかった。

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