第2話
あたし。石ノ森聖菜。二十歳、女。職業は、いや。夢は、女優。
――Bプロダクション養成所に通う女優の卵だ。
「お疲れ様でした!」
撮影スタッフさんに元気な声でそう言ってスタジオを出たのが五分前のこと。オーディション内容は、グリーンカーテンの前でカメラに向かって軽く自己紹介と台本通りの演技をすることだった。幸い変に緊張することなく自分の演技をすることができたと思う。
昼下がりの澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んであたしは、鼻歌なんか歌いながら目黒駅へ戻る。しかし目黒セントラルスクウェア前の横断歩道。そこへ差し掛かった瞬間、自分でも驚くほど不自然に鼻歌を止めてしまう。ふうむ。あたしは、警戒のレベルを上げて白線に足を置く前に辺りを見渡す。
「やはりアレは、幻覚だったか……」
アレとは、全裸の霧島海斗である。正直なところオーディションの直前まであたしの頭の
中は、彼の全裸を直視してしまったこと、そしてそのナニが小さく萎んでいたこと……いやそれはどうでもいいけど。そのことに脳内を支配されてしまっていた。本当に。悔しいことに気が付いたらオーディションだった。もしもこれで受かってしまったら彼のナニのお陰と言うことになってしまうのか……嫌だ。それだけは絶対に。
けれどまあ、幻覚ならそれでもいいかーなんてあっさりと割り切る。それにしては、やけにリアルな幻覚だったけど、覚せい剤なんかを使ったらあんな感じなのだろうか。もしもそうなら薬中患者役の演技に活かせそうだ。そう思ってメモを取り、午前と比べてガラガラの地下鉄車内の席で揺られていたけれど、「おい、お前。バカみたいなメモ取ってるお前だよ」ふと声を掛けられ顔を上げる。向かいの席からだろうか、声のした方へ顔を向けたつもりがしかし、正面には誰もいない。幻聴か……疲れてるのかな。なんて思ったとき。
「下だよ、下」「下……?」
声に従って視線を下に向けると、そこには霧島海斗の上半身(裸体)が電車の床から生えているように飛び出していた。かなりの筋肉量でありながら、締まるところは締まっていてセクシーだ……いや、そんなことはやはりどうでもいい。ギロリと、彼の三白眼があたしを睨みつける。
「うん、電車変えよう」
「ちょっと待て、コラ」
呼び止められたような気がしたけれど、構わずあたしは席を立ち隣の列車へ歩き始める。幻覚だ。幻覚に違いない。しかしどうしてだろう。先週お得だと思って買った豚肉バラファミリーパックを期限内に消費しきれず、腐らせてしまった祟りだろうか。額に汗が浮かぶ。この車内、暖房効き過ぎてないかな。あたしのお腹の中にある朝食まで腐ってしまう。なんて敢えてどうでもいいことに思考を割いていたけれど。
「Bプロ所属、石ノ森聖菜。趣味は映画鑑賞。オーディションの演技、見させてもらった」
「……」
幻ではない。はっきりと確信させるような言葉があたしの足を止める。けれどおかしい。ガラガラとは言え、車内にちらほらといる乗客が彼に一切の反応を示さない。
電車が止まって新たな乗客が車内へ乗り込んでくる。それなのに、この異常を極めた光景に視線さえも寄越そうとしない。どうしてだ、確かめたい。けれど立ち止まったのはいいが、振り返る勇気が湧いてこない。
「オフィスレディ向けの化粧品のCMだったから、今日の服装は、オフィスカジュアルな服装をきっちり選んできたのか」
その間にも段々と声が近づいてくる。
「クライアントのターゲット、消費者が広告に感情移入できるよう化粧も美し過ぎず、あくまで一般人であることを演出している。新人にしちゃ良くできてるじゃないか」
「まあ演技は、まだまだだな。お前、舞台役者だろ。瞬間的に感情を切り替えるのが苦手と見た……だけど多分、感覚を掴んだらすぐに化けると思うぜ」
「最後のカット――感情が乗ってきたのか、あれは、本当の忙しい朝を過ごす女性だった」
「――ようやく見つけたぜ。というか俺は、あまりにも運が良い」
声が、すぐ後ろから聞こえてようやくあたしは、振り返る。
そこには、軽く見上げる程に背が高い霧島海斗があたしを見下ろしていた。威圧的な三白眼とは別に口元を楽しそうに歪ませて。「たったひと月で見つかったんだ」
「八十億人に一人いるかいないか、お前のように俺が見える役者を探していた」
「俺は、霧島海斗。知ってると思うが俳優だ。訳あって今は、全裸だが気にするな」
「ところでお前……いや、石ノ森……や、聖菜にしよう。なあ聖菜」
霧島海斗は、あたしへ真っ直ぐな目を向けたまま、顔を近づけてくる。
目と鼻の先、触れていたかもしれない。分からない、感触も体温も感じなかったから。
そして彼は言った。
――俺と組め。お前をトップにしてやる。
※
「しっかし聖菜、お前、狭い部屋に住んでるんだな」
あたしの暮らす六畳のLDKマンションを見て、霧島がどこか退屈そうに呟いた。さっきから何なんだこいつは。見たこと感じたこと、何の遠慮もなくペラペラと喋りやがって。デビュー当時は、大人セクシーな演技で売り出していた癖にめちゃくちゃ子供っぽいじゃないか。しかも全裸だし、前くらい隠せよ。
「しかも布団とテレビと冷蔵庫しかねえし」
「……」
俳優、霧島海斗に抱いていた理想像が音を立てて崩れていく気がした。というかあたしは、玄関口で膝から崩れ落ちた。一体全体、何が起きているんだろう。全裸の俳優を路上で見つけるなんて。「うおっ……!」そんな霧島の驚いたような声がして顔を上げる。すると彼は、クローゼットの扉を開けることなく顔を直に突っ込み、中を覗き込んでいた。分かった。分かりました。あたしはもう何も感じません。
「ちゃんと服は、ジャンルに偏りなく揃えてんな。悪くねえ、女優のクローゼットって感じだぜ。映画にドラマ、ちゃんと円盤まで買い揃えて、趣味が映画鑑賞ってのは嘘じゃないらしいな」
「も、もういいでしょ……き、霧島さん」
「おお。初めて口聞いてくれた」
こいつにさん付けなのは、何だかムカつく感じだがそれはさておき。取引……そうだ、あたしが彼を自宅へ招いた(勝手に付いてきた)のは、取引の話をするためだ。とは言え、あたしもどうかしている。
彼の摩訶不思議な話を信じるなんて。
――霧島海斗。現在失踪中の彼は、真実のところ殺されて幽霊になってしまったらしい。おまけに目が覚めたら全裸だったそうで、神様も気が利かないとか何とかほざいていた。しかしまあ確かに可哀想だな、こんな男に恨まれる神様が。というかどうして私だけが彼を目視することができるんだろう。神社で合格祈願したからかなあ。誰かに見つけて欲しいとはお願いしたけども、こういうことじゃないよ。神様も気が利かないなあ。まあさておき。
そんな彼の死に関して一つ、聞いておきたい事があった。
「あ、あの、霧島さん……あなたが死んじゃったって言うのは信じます。で、でも」
――誰に殺されたんです?
「俺を殺したのは篠崎果南だ」
篠崎果南……篠崎果南だって? 聞いて考えて、もう一度自分の中でその名前を反芻する。そうしてあたしは、言葉を失う。篠崎果南は、二十二歳にして誰もが羨む美貌を持ち、それでいて天才的な演技センスで世間を魅せるトップ女優だ。
いや、そこじゃない。驚くべきは、彼女と霧島の関係だろう。
「あ、え、えと、ふ、二人は、付き合ってたんじゃ」
「ああ……あの熱愛報道は、虚偽だ。篠崎に嵌められたんだよ」
「嵌めたって……どうしてそんなことを」
「知らん。あいつが俺のことを好きで、どうしてでも付き合いたかったんだろ。けどまあ、俺には付き合ってる女がいたからな……裏でこっぴどく振ってやった」
「その恨みで殺されたってこと? なんで警察は、ひと月も彼女を捕まえないのよ」
「さあな。篠崎は売れっ子だし、色んな事情で捕まえたくないんだろうよ。芸能界っつうのは、政治家もメディアもヤクザも黒い奴らが大勢いる世界だ。隠蔽なんか珍しくねえよ」
そう言うと彼は、珍しく真面目な顔でへたり込んでいたあたしの前に腰を下ろす。
「だがな、俺がここにいる限り隠蔽なんか許さねえ。聖菜、そのためにはお前の力が必要だ」
「あ、あたしの力……?」
「ああ。聖菜がトップ女優になって、インフルエンサーとして真実を告発するんだ。そのために俺がプロデュースしてやる。ウィンウィンだぜ。つーかお前も運が良かったな――」
「――お前は、自分の力じゃ絶対に有名にはなれっこなかっただろうし」
自分の力じゃ絶対に。その言葉が残酷にも頭の中で響く。
それは事実なのかもしれない。現実なのかもしれない。それでもあたしは、目の前の霧島が浮かべる不敵な笑みを快く受け止められなかった。「どうして、どうしてそう思うんです」
「あたしが売れないって」
「何だよ、怒ってんのかよ。んまあ、理由は色々あるがそうだなあ。女優は、演技力だけが全てじゃない。お前、SNSもやってないだろ。電車の中で携帯触ってなかったし」
「……」
「無名過ぎんだよ。今どき知名度のないキャストを誰が採用すんだよ。アナログでやり合おうなんて頭おかしいぜ」
「……るさい」
「たくさん本読んで演技の勉強してるみたいだけどよ、もっと他にあんだろうよ。例えば」
「うるさい!」
柄にもなくあたしは、叫んでいた。耳障りな現実を跳ねのけたくて。しかし沈黙が訪れる事はなく、霧島の眼はあたしを逃がすことなく捕らえるように真っ直ぐだった。
「だったらお前、世界で一番自分の演技が優れてるって言えんのか」
「それは……」
「世界一じゃなきゃ誰の目にも止まんねえんだよ」
そうして、黙らされるのはあたしだった。女優を目指して二年、高校演劇を含めれば五年、大学生になってようやく事務所入りできたかと思えば、プロ入りではなく養成所に高い金を払ってレッスンを受け続ける日々だ。それでも未だに誰かがあたしを見つけてくれる気配はない。誰の目にも止まらない。いつか、いつかと思い続けているあたしにとってその言葉は、鉛の塊のように重く腹の底に居座ってくる。
霧島は、あたしが気にしていたことを知っていたんじゃないか。
どうしてだかそう思った。そんなとき、あたしの携帯電話が鳴った。マネージャーの清田きよた彩あや香かさんからだ。「はい、石ノ森です」
「おめでとう、石ノ森さん。オーディション合格よ。先方のプロデューサーさんが挨拶も兼ねて今日中にお会いしたいそうよ」
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