第12話   夜に会う約束

 ディントレスがマントを剥ぎ取って、事務室に戻っていったせいで、アレンはまたまた裸で転がっていた。今日は次から次へと散々な目に遭い、呆然となっていた。


「……あー……今日は、本っ当に、なんて日なんだ……」


 唯一身に付けているのは、ルディレットからもらった銀細工のネックレスだけだった。ため息をつきながら、ネックレスを片手でいじる。改めて観察すると、うねうねとした不揃いの触手は、太陽というより蜘蛛かモンスターのようだ。


「君はこのネックレスがお守りになるって言ってたけど、半ばコレのせいで、事態がややこしくなってる気がする……」


 銀盤にアレンの顔が歪に映り込む。事あるごとに世話になっていたエルフの、深く傷ついた顔を思い出し、アレンの顔がくもった。


(もうディントレスさんに、合わせる顔がない……)


 いつまでもこんな格好をしていては風邪をひいてしまう。近所の、良い香りのする小川で適当に体の汗を落として、それから着替えて眠ることにした。


 仔馬が無邪気に、鼻先を伸ばしてくる。アレンは最後にその頭部を抱きしめて、鼻や顎を撫でてやった。


(きっと、ここの馬たちを触ってやれるのは、これで最後になるんだろうな……)


 アレンはぎゅっと仔馬を抱きしめた。馬の暖かさに胸が締め付けられる。


 アレンの悲しみなど梅雨知らず、おやつをぶあつい唇で挟んで、引き寄せて食べようとする仔馬。アレンはびっくりして立ち上がり、壁の杭に掛けてある手近なタオルを取って腰に巻きつけると、


「それじゃ元気でね! 僕がいなくても、ご飯はしっかり食べるんだよ!」


 本当は、ゆっくり一頭ずつ撫でながら別れを惜しみたかったのに。布地の足りない短い布一枚で、肌寒い外へと飛び出すと、その近所にある小屋へ飛び込み、簡単なものを羽織ったのだった。



 どうして小川から花の香がするのかと、ディントレスに尋ねたのは、アレンがここに来たばかりの頃。上流に住んでいるエルフが、自然に還る入浴剤兼栄養ドリンクを作る研究をしているとか説明されたが、小さかったアレンは何のことかわからず、とりあえず飲まないようにと気をつけて過ごしていた。


 洗濯や馬の手入れ道具を洗うだけならば害は無いとディントレスから説明されて、アレンはせっせと家事と仕事をこなす日々だった。


 アレンは風呂の水にも使っていた。誰も下流で水を使用していないだろう時刻、つまり遅い夜。


「ハァ、タオルを濡らして、適当に汗を拭いて、急いで戻ろう……」


 今日は本当にいろいろあって、体力をごっそりと持っていかれた。ヨロヨロしながら川べりに近づいていくと、しばらく、その場にしゃがみ込んだ。星いっぱいの空を見上げる。


 人間ではない彼らとの生活。壁ばかり感じて、あまり楽しいものではなかった。彼らはアレンを褒めないし、感謝もしない。生かしてやるから、素材を提供しろと……アレンの望まぬ形で共存を強いられてきた。


(明日、もしもルディレットが迎えに来なかったら、僕はずっと、ここで朽ちるまで飼われてるんだろうか……)


 狭いはずのエルフの隠れ里。アレンがどんなに歩いても、森の終わりは見えなくて、気づけばまた、この里にたどり着いていた。簡単には出られないように、迷いの魔法がかけられていると、後に他のエルフから説明されて、アレンはそれ以来ずっと絶望している。


 表向きは笑顔で動物たちに接していたけれど、本当はここでの生活に、精神が摩耗し、やがて逃れたいとも思わなくなってきた……ルディレットに出会うまでは。


(ルディレット……僕は君がどんなやつなのかぜんぜん知らないし、明日ほんとに来てくれるかもわからない。だけど、もしも君の大事な旅路に僕を連れて行ってくれるなら、いつでも大丈夫なように、体だけは、キレイに清めて待ってるよ……)


 ため息を吐きながら、夜空から川へと視線を移した。アレンが傍に置いたランプの明かりが揺れ、流れる水面に映っている。薬草の香りがほんのり漂う。アレンは深呼吸した。


 川面にタオルを浸して、固く絞り、薄い羽織りを素肌から剥いで、薄っぺらい胸を拭いてゆく。今日は嫌な汗をたくさんかいた。香りの良い水は、拭いた箇所からその痕跡を、さっぱりと消してゆく。


「アレン」


 ルディレットではない声で名前を呼ばれて、アレンはびっくりして振り向いた。揺れるランプの灯りがいくつも暗闇に浮いている。茂みに音もなく立っていたのは、一人のエルフ。皆同じ背格好のこの里のエルフを、薄暗い中で見分けるのは至難の業だったが、昼間の件が影響してかアレンには彼がルディレットの兄だとわかった。


 ルディレットを意識しながら観てみると、どことなく顔立ちが似ていた。弟よりもかなり身長が高く、それに釣り合った長い手足と、その場にいるだけで星のように輝いて見える麗しい外見。どこにでもある素朴な服装をも、文化的な価値ある伝統衣装のごとく魅せてしまうのだから、不思議に思った。


(どうしたのかな、小屋はもう閉じてる時間なのに……。あ、そうだった!! 夜になったら僕に会いに来るって、ルディレットのお兄さんに言われてたんだった! すっかり忘れてた……)


 身を清めた後は、寝るつもりでいたアレン。今だって、とても客人と向き合って良い格好ではない。


「あ……えっと……」


「アディレットだ」


「アディレット様! あの、コレは、えっと、あの」


 冷たい瞳でアレンを見下ろし、革靴で草を蹴散らして接近してくるアディレットに、アレンはおろおろしながら立ち上がって、とりあえず一礼した。羽織りの袂を胸の前で手繰り寄せる。銀のネックレスが、小さく音を鳴らした。


「寝支度か?」


「いえ、えっと、お会いする前に、汗臭いとダメだと思って……」


 しどろもどろで言い訳する。震える手で掴んでいた袂が、大きな手で胸ぐらごと掴まれて、また着衣を剥ぎ取られそうになったアレンは悲鳴まじりに袂を引っ張り返した。


「ごめんなさい! もう子種出ないんです! 昼間に――」


 つい詳しく説明しそうになり、アレンは思わず口を閉ざした。


 革靴が細い足首を払い、油断していたアレンは転倒して尻餅をついた。露出した腹部に、アディレットの全体重が腰を落とす。


「弟と共に旅に出るらしいな」


「苦しっ、下りてくださっ、アディレット様!」


「あいつがお前を性奴隷にしたと言ってきた。なぜあやつを選んだ? お前は皆のモノなのに。そしていずれは、この里のおさを継ぐ私のモノになるのに」


「あなたの、モノに……?」


 返事の代わりに、剥き出しの両肩を地面へ押さえつけられた。


「覚えていないのか? お前が私の腰にも届かぬ背丈の頃、誓ってくれた」


「ええ……? あの、すみません、全然覚えてなくて……」


 小さな頃のアレンは、馬小屋の仕事を覚えるだけで毎日が精一杯で、たまに遊んでくれるたった一人のエルフの青年と、一緒にいる時だけが息抜きの時間だった。だけど彼の話しぶりは、幼いアレンに少しも合わせたものではなく、アレンにとって彼は「唯一、僕の名前を呼んでくれるエルフのお兄さん」という特徴のみが残っていた。


「僕は大きくなったら、あなたのものになると、約束したんですか?」


「私がそう尋ねたら、快諾していたぞ。美味そうに菓子を食いながら」


「……それって、お菓子を使って子供の僕を釣ってませんか?」


「森で生きる我らとの契約を、簡単に破ってくれるとは。おまけに今宵の私の来訪まで忘れてくれるとはな……」


 鼻先が触れ合わんばかりに、瞳を覗き込まれる。アレンを映す青い瞳は微笑んでいたが、声が怒っていた。


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