第19話 アーモンドミルク

──なんだ、夢か。

 目が覚めて、そう思った。嫌な夢だった。大切な友達を傷つけてしまった夢。

 まだ頭がぼんやりしている。朝の光。鳥のさえずり。伸ばした手が感じたたたみの感触に、自分の部屋であることに気付く。

 アパートの、桐子の部屋である。転勤の多い父と共に、桐子は幼い頃から日本中を転々とした。大学に入って一人暮らしを始めたが、予算の関係で少々古ぼけたアパートに住んでいる。天井には、引っ越し当初からある雨漏りの染みが広がっていた。大きなネズミと、その前に立ちはだかるイタチを思わせる染み。

『面白いから残してあるのよ』

 そう大家さんは言っていた。たぶん嘘だ。

 笑いかけた口元が、ふと歪むのを感じた。違う。夢ではないのだ。

 子供の頃から、何度かこんな朝を経験した。失敗をしたとき、テストで悪い点を取ったとき。そして、友達と仲違いをしてしまったとき。

──夢であれば、どれだけ良かっただろう。

 カーテンを閉め忘れた窓から、初夏の日差しが差し込んでいた。



 四限目から五限目にかけての実験が終わって、桐子はカフェテリアへと足を向けた。

 今日は何だか、とても疲れた。帰ったら実験のレポートに取り掛からなければいけない。まずは一息つきたかった。昼時とは打って変わって閉店間際のカフェテリアには全くと言っていいほど客が居ない為、一人でゆっくりできる。自販機に新製品のアーモンドミルクが入った筈だと思いながらガラス扉を開けた桐子は、来たことを後悔した。

「あ、桐子~」

 心愛が手を振っている。その隣に座るみどりが、無表情にこちらを見ていた。

 このタイミングで出会うとは予想していなかった。油断していたところへの不意打ちを喰らった気分で、けれど逃げることも出来ず、桐子は同じテーブルに着いた。

「こんばんは」

 笑った顔は引きっているに違いない。こういうのを、針のむしろというのだろうか。居たたまれなくて、桐子は目を伏せた。

 自分が傷つきたくないから、素知らぬ顔をして友達を傷つけた。私は、最低だ。

「桐子のば~か」

 そんな声を聞いて顔を上げる。みどりと目が合った。

「取られたくないって、思ったでしょ」

 真面目な顔で、みどりは言った。

「素直になりなよ。じれったくてたまんない。いや、ただのお節介せっかいなんだけどさ」

 え?

「みどり先生のショック療法よ。まだ気づかないの?」

 心愛の言葉に、みどりが頷く。

「そもそも、私が好きなタイプはマッチョだし。桐子も知ってるでしょ」

 そう言えば、そうだった。

「親友の相手としては、ぎりぎり及第点をあげる。ちょっとしつけなきゃいけないところはあるけどね。……もう、そんな顔しないの」

 ほっとして力が抜けた。親友という言葉が胸に染みて、涙が出そうだった。

「後は奴にどう自覚させるかよね。菅田将暉でも連れてきて揺さぶりをかけるか」

「そんな事出来るの?」

 芸能界にも顔がくのだろうか。そう思った桐子に、みどりは「出来るわけないでしょ」と笑った。

 応援するから自力で捕獲しろ、と背中をどやされ、桐子も笑った。安心して、思い切り笑った。

 お節介が、とても嬉しかった。


 その後は、自販機のアーモンドミルクを片手に、みどりから氷の王子攻略法についてのレクチャーを受けた。

 図書館での奇妙な出来事については、すっかり頭から抜けてしまっていた。

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