第3話 図書館ダンジョン

 友人関係を良好に保つには、よろいは不可欠だ。剣を持つ必要はない。持ちたくもない。けれど自分を守るために、薄くても心の鎧は手放してはならない。

 桐子は、ふとそんな事を思った。完全な善人などいない。誰もが心の中に小さな悪意を持っている。生物が生きていくために、自己と他者を区別するのに、それは必要な感情なのかもしれない。

 分かっている筈なのに、つい気を許してしまう。相手を全面的に信頼し、むき出しの心を晒してしまう。そして些細ささいな、ほんの小さな悪意に傷付くのだ。ノリのいい桐子に硝子のハートがあるなんて誰も思わない。悪意とも呼べない無意識なのである。そして、桐子自身も無意識に誰かを傷つけているに違いない。どれだけ注意しても、他人の気持ちなど分からない。育ってきた環境や今置かれている状況が異なれば、同じ言葉を受け取っても違う感情が呼び起こされる。完全に理解しあうことが出来ないのならば、受け流すことも必要だ。とげのある言葉は、鎧の表面で滑らせる。そうすれば刺さることはない。笑顔でスルーできる。

「私。苦手なんだ~。ちょっとキモくない?」

 自分の好きなものを、ついうっかり話題に出してしまった時だった。友人に他意は無い。「えー、秋山さんアレ好きなの?」と訊かれて、「ううん。そうでもないけど」と答えてしまった自分が悪いのだ。大切なものは簡単に他人に見せてはいけないのに。信頼できる人にだけ打ち明けるべきなのに。

 学生であふれる昼休みのキャンパス。カフェテリアという名前の学生食堂の一隅である。二限目の講義で一緒だったグループに誘われて一緒に昼食をとった。大きなガラス窓の向こうには明るい日差しが降り注いではいるが、植えられた銀杏いちょうは葉の色を黄色く変え、短い秋の向こうの冬の兆しを感じさせる。

「えー? 私はわりと好きだけどなあ」

 別の友人が口を挟む。

「そうなの? キモいとか言ってごめん。結構面白いよね」

 そうだ。これでいいんだ。こんな簡単なことなのに……。

「秋山さんは、どう思う?」

「え?」

 いきなり振られて桐子は動揺した。

「うん……。いいんじゃないかな? よく出来てるよね」

 他愛ない、アニメ映画の話。どうでもいい話。

「実は私、ラストで泣いちゃったんだ」

 誰かが言う。

「えー、繊細せんさいィ」

「そんなこと無いって」

 急激にめていく。興味が失せていく。あんなに好きだった筈なのに、DVDまで買ったのに、話題に入りたくないと思った。

 テーブルの上に置かれた友人のスマホが、アラームの音楽を奏でた。もうすぐ午後の講義が開始される時間だ。三限目の選択科目はそれぞれ異なる。

「そろそろ行かなきゃ。出欠確認あるのよね」

「私も」

「私もだ。じゃあ、お先~」

 口々に言って席を立つ友人たちに手を振り、桐子はグラスに残っていたアイスティーをストローで掻き回した。氷が溶けてしまった紅茶は、もう飲む気がしなかった。


 水曜三限目に選択している講義は、講師の都合で今月いっぱい休講になっている。ひとり残った桐子はノロノロと立ち上がり、カフェテリアを出た。時間つぶしに図書館へ行こうと思った。大学の図書館は結構大きくて市民にも開かれている為、色々な種類の書籍が揃っている。新刊も割合早く入荷するから、桐子は本屋に行くより図書館を利用する事が多い。といっても最近読むのはテキストになる書籍ばかりなのだが。

 大学が建築されたのは、バブル経済で日本中がうるおっていた頃だと聞く。図書館の洒落しゃれた円筒形の建物は、利便性りべんせいよりも見た目を重視したようにしか見えない。中は迷路のように入り組んでいて、慣れない人は皆、出口が分からずに迷うのである。入学して半年も経たないうちに司書に顔を覚えられるほどに通った桐子でも、気を抜くと方向を誤ることがある。

 講義に使う本は教授が書いたものであることも多い。希望者をつのって一冊を購入し、スキャナーで取り込んで電子書籍として利用する裏技を使う学生も多いが、意外に図書館にもちゃんとあったりする。先日うっかりその話をしたところ、桐子が借りた本はその日中に電子データP D Fに変わり、クラス中に行き渡った。

 また、そうなるんだろうと思いながら、分厚い学術書を手に持ち、貸し出しカウンターへ向かう。四限目の講義まで、まだかなり時間があった。

 裏手にある花壇を見に行ってみようか。ふと、そんな考えが浮かんだ。図書館の裏口から出たところには綺麗な花壇がある。だれもこんな所まで見に来ないだろうと思うのだが、手入れはきちんとされており、季節ごとの花を絶やさない。

──学長の趣味なのかな?

 学長は年配の女性で、優しい雰囲気を持った人だ。直接見たのは入学式の挨拶ぐらいで、それも遠かったので実際は写真でしか知らないのと同じだけれども。

 図書館の曲線に沿って続く廊下を進む。上の方に明り取りの小さな窓があるだけで外が見えないのも、迷路になってしまう理由の一つだろう。しかも一周ぐるりと続いている訳ではなくて、所々に行き止まりがある。淡いクリーム色の壁に隠し扉のように同じ色のドアがあり、そこを正しく通らなければ先へは進めないのだ。近道である筈の内廊下は、さらに面倒だ。ダークグリーンの廊下には起伏があり、いつの間にか別の階に繋がっていたりする。自分が今何階にいるのか分からなくなるのだ。

──誰が設計したんだろう。

 考えると可笑しくなった。ダンジョンのような構造。どこかに秘密の宝箱が隠してあったりして。

──え?

 前方の暗がりに、何かがうずくまっているのが見えた。

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