第4話 ナマエを入れてください。

翌日。


 俺は言われた通りネットで事務所の場所を調べその場所に向かった。


 その事務所は想像通り巨大なビルでとにかく凄かった。本来の俺なら絶対に敷居を跨ぐ事はないだろう。


 緊張と不安が一気に押し寄せる。


 やっぱり女装は無理があったに違いない。周りの目線がとても突き刺さる。気のせいかもしれないが近くにいる人達は全員俺の事を見ている。俺はその不安に呑まれてしまった。


 やっぱりやめよう。今ならまだ助かる。


 俺はこれ以上進む事を諦め家に帰ろうと後ろを向くと一人のスタイルがいい女性が目の前に立っている。


「お待ちしておりました。社長室までご案内致します」


 そう言うと彼女は俺をエスコートにしながら社長室まで連れて行く。

 俺は、余りにも綺麗な彼女に思わず見惚れてしまい彼女について行ってしまった。


 俺ってバカだ。


 何でついて行ってるんだ!あんなに不安だったのに今では不安どころか何故かやる気で溢れている。

 

俺って単純でバカだ。


 社長室に到着すると、彼女は社長に一言挨拶をしたあと俺に一礼してその場を立ち去った。


 その時、なんだか彼女達が照れながら話している様にも見えた。


 俺はその勢いのまま社長室に入る。


「待っていたよ。さあ、約束の前金だ。受け取りたまえ」


 社長はいきなり現金一千万が入っているであろうケースを俺に投げる。俺は何とかそのケースを受け取るが余りにも突然で驚く。


「座りたまえ。これが契約の書類だ。名前だけ書いてくれればいい」


 俺はソファに腰掛け問いかける。


「本当におれ、私でいいんでしょうか?正直、今の私にはその現金だけの価値があるとは思えません」

「何を言っているんだ」

「だって、私浮いてますよね?さっきも凄く周りの方達に見られていましたし…………」


 社長は大きく笑い出す。


「それは浮いてた訳じゃない。皆、君に見惚れていだからだ。私が君と出会ったあの時と同じ様にね」

「えっ?」


「まさか、気づいてなかったのか?。でも、それならもっと自信を持っていい。君はとても美しい。それもとんでもない程の逸材だ」

「いや、そんな事は…………」


「じゃあ何で初めて会う君をさっきの彼女が君の事をここまで案内する事ができたか分かるかな?」

「さぁ………………?」

「正解は君が恐ろしいほど美しく輝いているからだ!!」


 この人は何を言ってるんだ?


 俺があの子より美しいって?


 そんな訳ない。


 ないに決まってる。


 俺はあくまでも女装をしているだけなのだからその美しさには限界がある。そんな俺があの彼女より美しいはずがないだろ。


「あの、何か誤解してるのでは?私には自分よりあの人の方がよっぽど綺麗に見えるんですけど……」

「だから、君はもっと自分に自信を持っていい!確かに彼女はスタイルもいいし顔もそれなりだ。だけどな、この世界ではそんなもの当たり前なんだよ。必要なのはそれ以外の魅力だ。考えてみろ。テレビに出ているアイドルは皆そこそこ可愛くてそこそこ歌も上手い。でもメンバー全員が売れる訳じゃない。歌番組を見てても三人位は見たことがあっても他のメンバーの事はよくわからない事なんて結構あるだろ。その子達だって別に可愛くない訳じゃない。ただ、売れているメンバーには可愛いだけじゃない魅力が他にあったってことだ」


「その魅力が私にあると?」

「ああ。君には他の女性にはない秘めたる魅力を感じる。それに絶対に知られてはいけない何か秘密の様な物も抱えているんじゃないか?」


 あ、当たってる。

 

コイツ、もしかして俺の秘密に気づいてるのか?


 でも、本当に気づいてるならここで聞いてきてもいはずだ。それを聞かないって事はバレてないってことだよな。

 俺はその一言に少しゾッとしたがリアクションを取らない様に必死に平静を装っている。


「でも安心してくれ。私はその秘密にはこれぽっちも興味がない。俺が興味があるのは君自信であって秘密ではないからね。それに、その秘密があるからこそ君は美しくいられるはずだと思うからね。そういいう事だから安心して契約してほしい」


 社長はそう言うと改めて契約書を俺に差し出す。


 不思議な事にその時の俺はもう、契約書にサインする気になってしまっている。正直、こんなに自分の事を認めて貰った事は人生で一度も無かったし、それが女装をしている自分にだとしても嬉しい事には違いなかったからだ。


 俺は用意された筆を持ち契約書にサインをしようとする。


 さて、ここで問題になるのが俺の名前だ。実名を書けば一瞬で俺が男だと分かってしまう。

 だから、女性用の偽名を書かなければならない。

 実はここに来る前に一応、名前は考えていた。


 俺は考えていた名前姫乃 皐月を契約書にサインする。


 俺のこの名前は自分の家族の名前から来ているものだ。正しくは元家族だが。実のところ今の俺には家族と呼べる存在が一人もいない。

 両親は幼い頃に離婚、俺は父に引き取られた。数年後に父は再び別の女と再婚した事で、家族が増える。その女もまた2度目の結婚で俺よりもまだ幼い娘が一人いた。そして俺には新しい家族が出来た。

 だがそんな生活も一瞬で終わる事になる。


 俺の父親はまた新しい女を作り俺を置いて、ある日突然何処かに消えてしまった。


 それからは、血の繋がらない母親と血の繋がらない妹と共に生活する事になった。それでも、二人は俺の事を見捨てず今までと変わらず一緒に家族として過ごしてくれた。妹も俺の事を本当の兄の様に接してくれていてそれがとても嬉しかった。


 だが、その生活も長くは続かなかった。

 

一年後、その母親は交通事故で亡くなった。その時妹は5歳、俺は十三歳だった。妹は母親の親戚に預けられる事になったが血の繋がりがない俺は受け入れられる事は無くそのまま施設に行く事になった。その時妹は俺がいなくなる事をとても寂しがり子供ながら泣いて親戚に頼んでくれたが、それで受け入れて貰える事などは当然無く俺達は離れ離れになった。それから12年経った今も妹に会えてはいない。何をしているのかも分かっていない。でもきっと上手くやっているに違いない。


 そんな今、俺は妹の名前を勝手に自分の名前として使おうとしている。


 そんな事を妹が知ったらきっと嫌われるだろう。そもそも俺の事など覚えていないもしれないが……


 ちなみに苗字の姫乃は俺の実の母親の旧姓だ。実の母親とは2回だけ手紙のやり取りをした事がある。一度目は父親が再婚した頃、2度目は俺の二人目の母親が亡くなった頃だ。どちらの内容とも、実の母親には新しい家族が出来たから俺の事はもう忘れたいという様な内容だった。その時の俺は怒る気力すら湧かずとにかく呆然としていた気がする。


 あの時俺がどう思っていたかなんて今の俺にとってはどうでもいいか。それに、今は家族の事も別に恨んでもいない。関係ないから。

 ともあれ、これが姫乃 皐月を名前にした理由だ。


 ついに、俺は契約書にこの名前を書き姫乃皐月として生きる事をここに契約した。


「ありがとう。これで君は晴れてこの世界の仲間入りだ。これは例の前金。好きに使いたまえ」


 1千万が入ったケースを俺に渡す。


「あの、私はこれからどうすれば……?」

「とりあえず今日はこれで帰って貰って構わない。詳しい話はまた明日しよう」

「分かりました。失礼します」


 俺はその場を去った。

 こうして、俺は勢いだけで女として生きる道を選んでしまったのだった。


 もう一度言うが、俺は決して金に目を奪われたわけではない。

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