月の花

一枝 唯

第1章

01 出会いの物語



 腹が立つ、と言うよりは、呆れる、だろうか。


 想像の翼を広げるのは吟遊詩人の得意であるが、どうやらこの自称「魔術師ではない」魔術師には、詩人以上の想像力があると見えた。


 何百年も生きているとか。


 砂漠にある石製の塔に住んでいるとか。


 いくら物語歌が大好きな彼だって、「そうなんだ! すごい!」とは言わないような話をしてくるからだ。


 だがもしかしたら全て本当なのではないかと詩人が思いはじめたのは、いったいいつからだっただろうか。




 ――それは、春になりゆく小さな町の、古びた屋敷の前だった。


 手入れがされなくなって久しい前庭には、庭師たちに嫌われる「雑草」と呼ばれる類のたくましい生命が小さな手をわれもわれもと天へ伸ばし、明るくて素朴な色合いの小さな花たちが懸命に自分を目立たせはじめる。


 〈天使フレイスの丘〉と呼ばれる丘陵地帯は南からの風を防ぎ、北から照らす太陽リィキアの熱を逃すことなく、サルフェンの町を優しく守った。


 サルフェンは大街道から離れたかなり辺鄙な場所にある。住民の数は三百名になるならずという、町よりは村とでも言う程度の規模であった。


 しかし肥沃な土地は農業に携わる住民たちに通商に頼らぬ独立生活をもたらしていた。商家も存在し、彼らはより大きな町に品物を仕入れに行くが、万一それが途絶えるようなことがあってもサルフェンが飢えることはないだろう。


 「平和だけれど貧困」な田舎、「裕福だけれど殺伐」とした都会、彼はそうした場所を幾つも見てきたけれど、このサルフェンは穏やかで平和で豊かだと感じられた。


 青年は大きく伸びをすると、やわらかい香りのする空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 これが何の香りであるのか彼は知らなかった。けれど、花の名前を知りたいとは、特に思わなかった。ただ漠然と「春の香り」だと思う、それだけで幸せな気分になれたからだ。


 旅をはじめて、もう何年も経っていた。もう彼は二十代の半ばを迎える。薄茶の髪は柔らかく、旅路の間にだいぶ伸びてきていた。そろそろひとつにまとめられそうだ。


 だが無造作に伸び放題にしているという感じはなく、適当な頃合いにはさみを入れるようにしていた。吟遊詩人は客商売でもある、外見にはそれなりに気を使っているのだ。


 髪が伸びてくると、彼は母を思い出した。母によく似た髪だとよく言われたものだったからだ。


 故郷の母には、時折手紙を送る。父は彼と同じように旅の空の下だ。どちらも元気でいるだろうか。


 〈冬至祭フィロンド〉の頃には父も息子も妻と母のもとに戻るという約束をしていたけれど、来年はそれを果たせそうにもない。謝る手紙を書かなくては。


 彼はそんなことを考えてから、ぴたりと足をとめた。


「別に僕は」


 呟くように、声を出す。


「万事納得して『はい、引き受けました。一年間お任せ下さい』と答えた訳じゃないんだけどなあ」


「それは私とて同じだ」


 不意に、声がした。青年は驚いて振り返る。


 彼は人の気配に鈍感な方ではない。誰かがいると思えば、独り言など呟かないようにしている。その癖はあまりいい印象を与えないからだ。


「君」


 彼は呼びかけた。


「さっきから、いた?」


 そこにいるのは黒いローブを身にまとった、彼より少し年上に見える若者らしき姿だった。


 らしき、と言うのは、その頭髪はまるで老人のように真っ白だったからである。


 しかしそれさえ除けば、目前の男は二十代後半というところで、二十の半ばを迎える彼とそう変わらないように見える。


 見える。


 青年は思った。


 ことに、何の意味が?


「いま、この場にやってきたのだ。それくらいのことは判っているだろう」


 年嵩の男は肩をすくめてそう言った。


「――驚いた」


 青年はたっぷり十トーア近い沈黙のあとに、ようやくそう言った。


「僕は神秘的な言い方に慣れてるつもりだったけど」


 言いながら彼は首を振り、大きくため息をついた。


「どうしよう。言葉の限界を感じるなんて、詩人にあるまじきだ」


「気にするな」


 年嵩に見える――と言ってもせいぜい五つ離れているかどうかだ――若者はふんと鼻を鳴らした。


「歌なんぞは、下らんものだ。あれは人間のつまらない定めの輪を語るためのもの。お前はより神秘的なものと触れている。言葉など失われて当然。第一」


 男はにやりとした。


「お前は、人間ではない」


 その言葉に、青年は肩をすくめた。


「これは何ともまた、言いにくいことを簡単に言ってくれるね」


「言葉を濁したところで事実は変わらんからな」


だって?」


 詩人と名乗った青年は眉をひそめる。


「それは聞き捨てならない」


「ほう?」


 年嵩は片眉を上げる。


「それだけ特異な存在でいて、自覚がないのか?」


「その話じゃないよ」


 詩人は手を振る。


「君、と言ったろう。それはとても、聞き流せない」


「ふん」


 その返答に、男は面白そうにした。、はかまわないのか、と思うのだろう。


「よかろう」


 男は言った。


「では私の価値観を変えてみろ。この一年でな」


「一日、いや半刻で変えてみせるさ」


 言うなり弦楽器フラットの容れものを下ろそうとする詩人に男は笑う。


「焦るな。どうせ我々には一年間があるのだ、詩人フィエテ


 呼びかけてからはたと気づいたように男はにやりとした。


「まだ聞いていなかったな、運命の年の、人ならざる存在よ。お前の名は」


「訊く前には自分から、と言うよね」


 詩人がさらりと言えば、男は瞬きをして、笑う。


「よいぞ、面白い。名を尋ねられるなど、ずいぶんと珍しい体験だ」


「……いったい君は、どんな隠遁生活を送ってた訳」


「何。大砂漠ロン・ディバルンに長年籠っておってな」


「そりゃすごい、いい歌ができそうだよ」


 男のあまり笑えない冗談に、詩人は調子を合わせた。


「それで、まるで〈砂漠の民〉のような君の名は?」


「問う前には自分から、ではないのか?……冗談だ、そんな顔をするな。意味なく〈逃げ水追い〉をする気はない。私は」


「クラーナ」


 台詞を先どるように詩人――クラーナは言った。


「僕の名はクラーナ・アトアール」


「ふむ、よかろう、クラーナ。私は」


 男は片頬を大きく歪めた。


「オルエンと言う」


 世界は六十年に一度の〈変異〉の年を迎えようとしていた。


 その一年だけ、人々は十三番目の月を持ち、起きるとされる災厄を払おうと祭りを行う。


 それはほとんどの人々にとってただの「形式」で、実際に何らかの災いが起きるのだと本気で心配するものもいない。


 魔術師たちにとっては、意味のある年である。


 事実、〈変異〉の年、十三番目の〈時〉の月には通年に見られない魔術の流れが形成され、それを利用して様々な術を編もうと画策する術師も多い。


 結果として、それが「災い」を引き起こすこともあるのだが、それはまた、別の話。


 これは、ビナレスの地に眠る三つの翡翠と、守り玉たるそれらを目覚めさせ、そしてまた眠らせる役割を持つ不可思議な存在〈リ・ガン〉の造るきれいな輪が、思いがけぬ出来事によってそれを捻れさせた前年の――彼らの出会いの物語である。

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