ゴースト・ブレイク・タウン

陽子

序:鬼市

 ――海辺には時に鬼市あり、半夜に集まり、鷄が鳴いて散る。人これに従って多く異物を得る。 『番禺雑記』


 ***


 黒く塗り潰したような夜空の下、灯籠に赤く照らされた大通りには露店がひしめいている。朝から降る雨とごった返す人波の熱気で街は白くけぶり、喧騒が空気を震わせていた。

 雑踏のせいで傘は使えない。雨に打たれながら、宇岡うおかは足早に先を進んでいた。


 人混みを掻き分けて通りを横切り、脇道に逸れる。大通りから一本外れた路地、その奥に目的のビルがあった。三階建ての雑居ビルで、一階には「八仙茶寮」と書かれた看板が緑のネオンで光り、二階と三階は貸しフロアになっている。


 そのビルの入り口に立っていたパンツスーツの女が目敏くこちらを見つけた。彼女は半ばまで手を上げかけ、そして微妙な顔で手を下ろす。

「宇岡くん……その恰好……」

 パーカーの裾を引っ張り、宇岡は誤魔化すように笑った。

「大学からそのまま来たんです。すみません、尾崎おざきさん」

「私はいいけど。いきなりだったから仕方ないか」

 彼女は濡れて額に張りついた前髪を掻き上げ、ビルを指差した。

「じゃあ、中に入ろう。先に入ってる人たちがいるけど、驚かないでね」

「先に? 管理局の人ですか?」

「違うよ」

 尾崎は短く答えてビルに入る。慌ててその背を追いかけた。


 一階は喫茶店のようで、暗い室内にはテーブルと椅子が乱雑に置かれていた。散らかった様子を気に留めず、尾崎は奥のエレベーターに向かう。彼女は足元に転がっていたグラスを蹴飛ばした。

「宇岡くん、うちでバイトやってどれくらいだっけ?」

「えっと、三か月ですかね」

「なんでわざわざこんな冴えないところ選んだの」

 その言葉に笑うべきか迷い、結局曖昧に濁した。

「いやぁ……一応、勉強してること生かせるのかなって」

 へえ、と尾崎は興味無さげに呟き、エレベーターの階数表示を睨む。三階にいたエレベーターはのろのろと一階に辿り着き、錆びたドアが軋みながら開いた。


 狭い箱の中、手持ち無沙汰に壁の染みを眺めていると、尾崎が再び口を開いた。

「君は文学部だっけ。なに勉強してるの?」

「一応……仏教学……っすかね……」

「なんで自信無さげなの」

「尾崎さん、別に興味無いでしょ。てか、ここで何があったんですか?」


 エレベーターが三階で止まった。開いたドアの外、薄暗い廊下に等間隔に蛍光灯が点いている。その一番手前の蛍光灯が何度か点滅し、消えた。

 一段と視界が暗くなり、宇岡は眉を寄せて廊下の先に目を凝らした。


「――君は、何か怖いものとかある?」

 出し抜けに問われ、宇岡は目を瞬いた。

「……まあ、人並みにありますけど」


 不意に、何かの異臭が鼻を突いた。廊下の先から漂って来ている――潮に似た臭い。


 尾崎は表情を変えず、宇岡を横目で見た。

「じゃあ死体は? 怖い?」

「……一応?」

「そう。嫌なら帰っていいよ。誰も自力で逃げ出してこなかった。死んでるかもしれない」

 素っ気ない言葉に思わず絶句する。立ちすくんだ宇岡に構わず、彼女はさっさと歩き出した。


 慌てて後を追い、戸惑いながら問う。

「あの、どういうことですか? 僕、管理局に通報があったとしか聞かされてないんですよ」

「私も大して知らない。このビルの三階で商談があった。その途中で商品が暴れて、その場にいた連中がほとんどやられた。だから助けてほしいって」

「通報者は? 通報できたなら生きてるんじゃないですか」

「さあ。ビルの中にいたとして、さっさと遠くに逃げたのか、逃げられない状況になったのか……私が着いてからずっと、このビルからは誰も出てこないよ」

 廊下を進むと、徐々に潮の臭いはきつくなる。宇岡は鼻を覆った。


「――警察とか、救急車を呼んだ方が……」

「宇岡くんも知ってるでしょう。この街は――鬼市きしは、ほとんど三不管無法地帯と同じ。鬼市で起きた問題は私たち管理局の管轄であって、警察も救急車も安全を確認できるまで街の中には入ってこない」

 ほとんど表情を変えない尾崎は、それでも少しだけ眉を寄せた。

「ここは異形の街なんだよ」




 ――数百年前、世界中に人外の化物が現れた。

 遠い昔のことだが、存在しなかったはずの化物によって世界の秩序は失われ、文明は一度崩壊したとまで言われている。それでも人間は強かなもので、今では化物を商品としてやり取りする闇市場が世界のあちこちに生まれていた。

 この闇市場は、東アジアでは一般的にゴースト・タウン――鬼市きしと呼ばれている。そこで扱うのはいわゆる妖怪で、鬼市の結界の中では妖怪や呪物を自由にやり取りしても良いことになっていた。


 日本にも大規模な鬼市はいくつかあり、うち一つが横浜にある。その昔中華街があった地に壁を築いて四方の門を復元し、外部と隔絶されたその街を鬼市と成した。

 鬼市には毎夜大勢の人が訪れる。単なる観光客もいれば、妖怪を狩る猟鬼師りょうきし、商品を取引する業者など様々な人間が集まった。

 妖怪は金になる。単純に労働力として重宝され、また専門の蒐集家もいた。吉兆を運んでくるもの――特に神獣は需要が高い。数億で取引されるものもあり、近年は化物の市場に企業も参入するようになっていた。


 それでも普通の動物とは違う。時折、取引の最中にが起きることもあった。それを調査するのは鬼市きし管理かんり局の局員だ。管理局は鬼市の安全の維持を目的に組織され、無法地帯に近い街を唯一統制する役所だった。




「尾崎さん」

 宇岡は情けなく眉を下げ、呟く。

「すみません、僕、怖いかも」

「私も怖いよ。でも安心して。プロを呼んであるから」

 尾崎はちらりと笑って廊下の先を指差した。


 廊下の突き当たりにドアがある。暗証番号を入力してロックを外すタイプだったが、今は無残に毀れていた。

 ぶら下がったドアノブと床に散らばった金属片、そこに二人、知らない男が立っている。


 一人は革のジャケットを羽織り、色の濃い眼鏡を掛けた若い男で、まだ二十歳前後に見えた。もう一人はそれより少し年上に見え、季節外れの黒いコートを着て長めの髪を無造作に括っている。二人とも顔立ちは似ていて、兄弟のようだった。

 長髪の男は手に鉄パイプを持っている。それでドアを破ったのだろう。彼は尾崎と宇岡に気づくと、血の気の無い顔でにっこりと笑みを作った。


「尾崎さん――と、そっちの若い子は初めてかな?」

「うん。うちのバイトの宇岡くんね。宇岡くん、この二人は猟鬼師なの。デカい方が夕嵐シーランで、眼鏡が玄礼シュエンリー

「よろしくね。大学生?」

「えっと、そうです。よろしくお願いします……」

 夕嵐はにこにこと笑って頭を下げたが、玄礼は無反応だった。なぜ妖怪を狩って鬼市で売る猟鬼師がこの場にいるのか気になったが、訊ける雰囲気ではない。


 玄礼は宇岡を無視し、尾崎に向かって言った。

「もう中に入っても構いませんか。人はいるみたいですが、さっきから反応が無い」

「うん、許可します。宇岡くん、護身はできるよね?」

「……一応」

「君、一応としか言わないね。もっと自信ありげに答えてよ」

「自信、無いんで……」

 ハハ、と夕嵐は場違いな笑い声を上げた。玄礼は呆れたように眉を寄せ、躊躇いなくドアを押し開けて中に進む。


 途端、潮の臭いと濃い腐臭が鼻を突いた。


「うわぁ……派手だな」

 夕嵐が呟く声が聞こえた。

 無機質な部屋の中、真ん中の会議用のテーブルはひっくり返って、パイプ椅子が散乱していた。その下、床に何人かが倒れている。スーツ姿の彼らはなぜか全身濡れそぼり、床にも淀んだ水が溜まっていた。仰臥した男は愕然としたように口を開け、泡を吹いている。


「一、二、三……全部で六人」


 部屋に踏み込み、尾崎が全員の脈を確認した。立ち尽くす宇岡に向かって、彼女は首を横に振る。

「全員、駄目。――暴れたっていう商品ものはどこ?」

「それっぽいトランクが下敷きになってますよ。引っ張り出して良いですか?」

 夕嵐が倒れた男を指差す。尾崎は一瞬迷うように目を伏せ、かぶりを振った。

「まだ、ちょっと待って。玄礼、どう思う?」

 死体のそばに屈んでいた玄礼は顔を上げた。

「溺死に見えます。この水も海水みたいですが」

「室内で溺死? ここ三階だよ?」

「分かりません。でも、海の臭いがする」


 噎せかえるような潮の臭いに気分が悪くなる。宇岡は入り口付近で立ち止まったまま、部屋の様子を茫然と眺めていた。


 濡れた部屋を見回し、夕嵐が口を開いた。

「尾崎さん、生存者はいるんですか?」

「分からない。ちなみに通報した人が誰かも分からない。今から調べる」

「取引された商品の内容は?」

「それも不明」

「うーん、厄介だな」

「だから呼んだんだよ。こんなに死んだのは私も久しぶりだし」

 わずかに苛立ちが混じった声で言い、尾崎は玄礼に視線を遣る。


「玄礼、できそう?」

「……死体を預かってもいいなら」

「そう長くは無理ね。身元を調べないと」

「一日だけです」

 淡々と答え、玄礼は足元の死体を見下ろした。

「上手く行けば死因も身元も分かる。そのトランクも俺たちが預かる。それでいいですか」

 尾崎は一つ頷いた。


「トランクの中身――商品が何か分かったら連絡して。処分は管理局こちらでやるから」

「分かりました。死体とトランクはあとで運んで来てください。慎重に」

 玄礼は冷ややかな声で釘を刺し、特に挨拶もせず部屋を出て行った。

「じゃあ俺も帰るかな。尾崎さん、明日中に連絡しますね」

「お願い」

 夕嵐は軽く手を振って玄礼の後を追って行った。



 面食らってその背を見送っていると、尾崎は溜息をついて額を押さえた。

「全く、どうしてこうなったんだろう……」

「……あのー、なんで猟鬼師の人たちが来るんですか?」

 恐る恐る問うと、尾崎は我に返ったように表情を緩めた。

「あの人たち――玄礼の方は道士なの。彼は招魂しょうこんができる。死因も身元も、死んだ本人に訊くのが一番手っ取り早いでしょう」

「管理局の協力者ってことですか」

「そんな上等なものじゃないよ」

 尾崎は微かに苦笑を浮かべた。


「私も宇岡くんも死にたくない。違う?」

「え? ええ、まあ……」

「だからだよ。危険なことは他人にやらせるの。私は六人も殺した化物に対抗できるほど強くないけど、彼らは謝礼さえあれば多少危険でも構わずにやってくれるし、その能力がある」

 つまり利用してるだけ、と尾崎は足元の水溜まりを見下ろして呟いた。


「猟鬼師なんて実態はほぼ破落戸だしね。あの二人は大陸からの難民なの。あっちはここよりずっと化物に荒らされたから、小さい頃に兄弟で移ってきたんだって。だから、他に家族もいない」

 死んでも誰も気にしない、と尾崎は皮肉っぽく言った。それに上手く返答できず、視線を彷徨わせる。


 夕嵐の貼り付けたような笑顔が妙に頭に残っていた。

 ――玄礼の方は道士なの。

 ならば、夕嵐は一体何なのだろう。


 訊こうと思ったが、それを遮るように尾崎が先に口を開いた。

「とりあえず、ここをどうにかしようか。管理局に連絡して死体と商品を回収する。宇岡くん、一旦ここを封鎖して出よう」

「出ていいんすか?」

 尾崎は溜息まじりに答えた。

「――だって、私たちも溺死したらまずいからね」

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