第7話 似合ってる
沖縄から帰ってきて最初の出勤日の朝、僕は眠たげに着替えやその他を済ませる。寝坊すると行けないと思って早めに起きたから、いつもより余裕がある。
そこで、僕は昨日の美海の言葉を思い出す。
『髪、セットしてみない?』
正直、面倒くさい。仕事なんかでわざわざオシャレをする意味がわからない。そもそも、大して興味もない。
高校では髪を巻いている女子は割と多くいたし、男子でもそれなりに髪をいじったりはしていた。
けど、僕はそれをする意味がわかっていなかったから、何もせずに学校に行っていた。
「……やってみるか?」
誰もいない洗面所に僕の声が響く。もちろん、そんな呟きに誰かが返事をする訳でもない。
僕は一人暮らしをしてしばらく経った後に、母が送ってきたワックスを手に取る。いらないと言ったけど、使うかもしれないからと聞いてもらえなかった。
「これ、まだ使える……よな」
使用期限が切れているのに使って髪がバサバサになるのは、さすがに大人として困るし恥ずかしい。
念の為、スマホで未開封のワックスの使用期限を調べた。そこには”3年”と書かれていた。
「良かった、まだ使える」
適量のワックスを手に取り、帰り際に彼女が言った髪型を真似てみる。もちろん、やり方を調べながら。
彼女がおすすめしてきたのはセンターパートと言う髪型。画像ではストレートだけど、僕は少し癖のある髪。天パと言うほどでもないけど、少し扱いにくい。
一応セットはしたけど、本当にこれで合っているのだろうか。行って笑われたらさすがに傷つく……。
そうこうしているうちに、家を出る時間が来てしまった。早く行かねば遅刻してしまう。
僕はもう笑われてもいいと振り切って、家を出た。
◆
「あ、勇那。おは––––」
僕が入ってくるなり、優希は目を見開いた。当たり前と言えば当たり前。今まで何もしてこなかった人間が、急に髪をいじったのだから。
それにしても、沈黙が長い。もしかすると、この後盛大に笑われてしまうのではなかろうか。
しかし、そんな心配は無用であった。
「ど、どうしたんだ!? それ!」
「いや……ちょっと。っていうか、声が大きいぞ……!」
優希の声で周りの人々も一斉にこちらを見る。もちろん驚かれた。
皆、口々に髪型について言ってくる。
「どうしたんだよ、お前髪型にそこまで気ぃ使うような人間じゃねえじゃん。せいぜい寝癖が直ってりゃいい程度なのに」
「いや、なんとなく……だよ」
説明の仕方がわからないから、こんなことしか言えなかった。でも、優希は色々察したのか、一人でニヤニヤと笑っていた。
◆
「……で、それは夕凪さんの受け売りか?」
昼休憩、社食を食べていると、優希がニヤつきながら聞いてきた。
「……まあ、そうだよ」
「なんだ〜? やっぱ恋か!?」
「違う、そんなんじゃない。変な勘違いをするな」
全否定すると、優希は口をとんがらせて背もたれにのしかかった。
なんでも恋に繋げるにはやめてほしい。はた迷惑だ。
「え!」
文句をボソボソと
ああ––––”あの人”だ。
「うっそ、まじで髪型変えてくれてる! いいじゃんいいじゃん!」
「ちょっ、近い……!」
そう言ってきたのは、この髪型を勧めてきた張本人。美海だ。
僕は間近で髪をジロジロと見てくる彼女を軽くはらう。どいた彼女の後ろには、同僚であろう女性たちがいた。
「えーなに、美海。彼氏?」
「違う違う。最近友達になった人〜」
美海が呑気に言うと、彼女の同僚は「なんだ〜」とボヤく。
それにしても、みんな恋愛関係に繋げてくるな……。いや、でも男女が仲良くしていたらそう思うのも無理はないのか?
いや、中学生じゃあるまいし、そんな風に思わなくてもいいのでは……?
僕が考えを巡らせていると、美海がじっと見つめてきた。
「……なに?」
「いや? 似合ってるな〜と思って」
そう言って彼女は歯を見せてニッと笑った。
仕事が終わり、家に帰ったあと、美海からメッセージが届いているのに気がついた。開くとそこには次のホエールウォッチングの日程について書かれていた。
「次の行先は……はっ!?」
僕の目に入ったのは、”
小笠原って……小笠原諸島のことだよな?
小笠原諸島は東京のずっと南にある島のこと。父島と呼ばれていたりする。
「ここからだと結構あるな……」
でも、そうでもしないと鯨には会えないのか……。
とりあえず、色々調べておかないといけない。どの時間にどう行けばいいのかとか、そんなこと。
今回は有給を取らずに冬季休暇中に行くらしい。せっかくの冬季休暇だから休みたいと思うけど、ただでさえ小笠原諸島は遠いのだ。あまり長い期間、会社を休むわけにもいかない。
「……年も向こうで越すことになるのか」
家族以外と年を越すなんて、何気に初めてのことかもしれない。それまでは大して興味を持ってこなかったし。
「いや、今でも大して持ってないか」
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