第4話 もたらされたチャンス

 両親が亡くなったと聞かされても、涙が出てこなかった。もう私の中に、感情は残っていないみたい。


 しばらくは何も考えず、何も感じないまま、部屋でぼんやりとしていた。


 そのうち、自然と両親の顔が浮かんできた。

 それがきっかけとなって、子どもの頃のことを思い出した。

 昔のことを思い出すなんて、久しぶりのことだ。


 窓からは月が見えた。

 地上で何が起ころうとも、あの月は高いところでゆったりと、毎晩変わらず私たちを眺めている。


 何故か突然、激しい悲しみに襲われた。

 嗚咽と一緒に涙が溢れてくる。

 ベッドの上で夜明けまで泣き明かすと、身体中の水分を失った代わりに、不思議な力が湧いてきた。


 私は裸足のまま部屋のドアを開けて、階段を下りた。


 一階には誰もいない。

 ドアを開け、日の出前の暗がりの中へ飛び出した。


 地面を踏みしめる度に、大地が力を分け与えてくれるようだった。

 歩いているうちに、少しずつかつての自分を――無くしたものを取り戻していった。

 どうして逃げられないと思い込んでいたのかしら……。こんなに簡単なことだったのに。


 それでも一体どこへ行けばいいのかしら。私には、もう行く当てもない。

 この先の森に隠れたところで、すぐに見つかってしまうだろうし――。


 そうだ!


 確か、あの森には、伝説の泉があったはず。一口飲めば、願いが叶うという泉。

 幼い頃、コリーンが語ってくれた言い伝えを思い出した。



「ほら、ここに溜まった水を飲むと、その人の願いが叶うんですよ」


 コリーンが連れていってくれた場所は、全然、泉という雰囲気じゃなかった。

 あれはどこだったっけ……。


 とにかく、森へ急ごう。小さな子どもの足で行ける範囲のはずだ。そう遠くではない。





 幾度となくピクニックで訪れた思い出の場所にやってきた。


 そうだ。確かあのとき、お花畑の端まで行くと言って、奥の方へ走っていったんだったわ……。


 私は、幼い日の自分に戻って走った。





 ――あれだ。


 目の前に、苔むした大きな岩が見えた。



「確か、窪みがあったはず……」


 岩の手前の地面は、確かに少し窪んではいるが、草むしていて、水が溜まっている様子がない。


 ……そうだった。

 コリーンが言っていたじゃないの。



 「夜明けと共に、この岩を伝って一滴落ちてくる」と。


 一日一滴しか落ちてこない、不思議な水。



「あはは。何よこれ。一口分集める頃には、私は干からびて死んでいるわ」


 それにもうすぐ夜が明ける。



「……私って。本当になんて馬鹿な女なの。神様にだって見放されるはずよ」


 また涙が溢れてきた。




 ガサガサと草むらをかき分ける足音が聞こえた。


「セラフィネ? 君なのか? 本当に来たんだね。この約束だけが僕の支えだったんだ」


 アトモントンがゴブレットを持って立っていた。

 久しぶりに会った彼は、まるで別人だった。



「あなた、どこか悪いの?」


 すっかり痩せ細った体からは、いつもその身に纏っている朗らかな雰囲気まで消えていた。



「君だって。君こそ、どうしたんだい? 何にも食べてないのか? どうして会ってくれないんだ。何度も何度も何度も! ずっと君に会いたくて使者をやったのに」

「ごめんなさい」


 きっとワイセラが邪魔をしていたんだわ。



「全部、何もかも私が悪いの。本当にごめんなさい」


 アトモントンは少し恥じ入るような顔をして、ゴブレットを差し出した。



「ごめん、言いすぎた。それより、ほらこれ。君に頼まれたものだよ」

「え? 私に頼まれた?」

「本当に忘れてしまったんだね。まあそうなるって言っていたけど。一年前のプレッセント家のパーティで、僕に言ったじゃないか。僕が君に逆らえないのをいいことに、無茶な頼みをさ。僕は君の言う通り、この一年間、岩を伝って流れる雫を毎朝集めていたんだよ」


 なんですって!?



「ほら。君にはどうしても叶えたい願いがあるんだろう? あと、そうだ。もう一つ頼まれていたもの。はい」


 アトモントンは包みを一つ抱えていた。


 彼の言っていることはよく分からないけど。

 ……そうよ。私の願い――それは、過去に戻って間違いを正すこと。あの兄妹の思い通りにさせてはならない。



「ありがとう。アトモントン。あなたには何てお礼を言えばいいのかしら。あなたは――。あなただけは私を――」


 この気持ちを言葉にすることは難しい。

 泣けば、アトモントンを心配させてしまう。

 そうよ。泣いている場合じゃないわ。


 ……やってやるわ。


 アトモントンが一年かけて集めてくれたんだもの。伝説どうこうよりも、彼の優しさを神様が踏み躙るはずがないわ。


 ゴブレットを受け取って、一気に喉に流し込む。

 体中の血液が凍るような感覚に襲われた。

 体全体が重たいのに、地に足が着いていないような……。


 いつの間にか、周りの景色が変わっていた。


 え? 海の中にいるのかしら? 色々な記憶が一気に溢れ出した。

 ここは記憶の海なの?

 瞼を閉じると、体が沈んでいくのが分かった。





 気が付くと、泉の側に倒れていた。


 あら?

 私、ここで眠っていたの? 夢を見たのかしら……。でもまだ薄暗い。


 はっ? 追っ手は? ワイセラが私を探しに来るのは間違いない。

 両親の遺言を執行するために、私が必要なはず。だからああして告げたに違いない。


 起き上がると、何かがバサッと体から落ちた。

 それは先程アトモントンがくれた包みだった。



「どういうこと? さっきの出来事は本当に起きたことなの?」


 アトモントンはどこにもいない。彼なら私をこんなところに置き去りにするはずがない。

 ――となれば、考えられることは一つ。

 確かめに行こう。


 太陽が昇る前に、屋敷の様子を見に行けばいい。





 さっきとは打って変わって、足取りが軽い。

 あっという間に屋敷まで戻った。


 遠目からでも、庭が美しく手入れをされているのが分かる。

 ああ夢じゃないのね。私の大好きな屋敷。

 売られたはずの馬たちもいるわ。毛並みも艶やかで健康そう。


 じゃあ、本当にここは……。

 私が“愚かな私”になる前の、両親と一緒に住んでいる世界なのね。

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