平安あやかし海賊奇譚(時代小説新人賞最終落選歴あり)

牛馬走

第1話

   第一章


   一


 朱雀帝の御世。丑の刻と寅の刻の間、庭の鞠場の正方形の頂点を形作るように植えられた松の樹の側に迅影が迫った。枝を伝って落ちてくる鹿皮で出来た鞠を人影は傍身鞠(みにそうまり)をくり出した。体の側面に当たった鞠を胸、腹、腰、腿、脛と流し落とし沓の上に乗ったところで蹴り上げる。鞠長(まりたけ)は一丈五尺、至適の高さに登った鞠が正面の樹の枝を跳ねた。

 そこにもつれた足取りで小野好古は駆けて行く。五十代半ばにしてはいい動きしていた。

 彼の目は必死に鞠を追っていた。よし、受けられるでおじゃる――好古は身構えた。が、鞠が枝に微妙な当たり方をした。背後へと落ちるのを彼は転身して追いかける。が、伸ばした足は鞠の位置からずれていた。

「御所様(さん)はまことに蹴鞠が下手にございますな」

 聞こえよがしのため息をついて、こちらの樹に鞠を蹴り放った人影、雑人の名足(なたり)が近づいてくる。歳の近い古株の雑人だ。

「それをもうすでないでおじゃる。麿とて懸命に挑んだのだぞ」

「懸命だとて、為しえねば無意味にございましょう」

 主に対してこの従者は容赦はない。いや、好古の臆病な性根が滲み出ているせいで家中の者がおおむね強弱はあるものの名足と似たような態度を取る。

「まあ、それはそうでおじゃるが」

 好古は肩を落として口の中でつぶやいた。

「なにか仰いましたか?」

 それに言いたいことがあるならちゃんと言え、とばかりに名足が返す。

「大体、内裏に出仕する前に蹴鞠を、などと奇矯ことを申すのは勝手ですが付き合わされる者のことも考えていただきたい。すきっ腹で体を動かすのは苦痛でございます」

 なおも名足は主へ毒舌をつづけた。この時代、公家は朝餉を出仕の後に取るのが習慣であり、それに同道する名足が食事を摂っていないのも自然なことだ。

「御所様、そろそろ出ませんと」

 他の従者が彼らの元に駆け寄ってきて声をかける。

「まったく、戯れもたいがいになさいませ」

 他の者にまで毒を吐かれ、好古は益々縮こまった。余人が見れば最早、主従が逆転しているように映っただろう。

 仕度は済ませてあったから、好古は従者に追い立てられて慌ただしく牛車(ぎっしゃ)に乗り込んだ。

 やれやれ、これでしばらく雑人の小言を聞かせられずに済む――そんな情けないことを思ったのは好古ただ一人の秘密だった。

 しばしののち、朱雀大路を進んでいると彼を同じ位の者が乗る牛車が横に並んだのが御簾の隙間越しに分かった。はて、わざわざ並ぶということは――知る辺だろうか、と好古は推量した。従者の顔に見覚えがあった、それは向こうも同じなのだろう。

「小野殿」「橘殿」と互いを呼び合った。相手の牛車の御簾の隙間から、典型的な肥えた体の上に白塗りの顔が乗った姿が見えた。彼の名前は橘邦頼(くにより)、好古の友の一人だ。

「聞いておりますかな、あの話を」

「話、でおじゃるか。はて、どの話でおじゃる?」

 やや声を抑え気味にする橘に、好古は怪訝さを隠さない声音で応じた。

「純友追捕の儀が下されるとか」「将門の次は純友でおじゃるか、そんな」

 好古は声を上ずらせ早くも体を小刻みに震わせる。

 将門追討のときはまさか己が任じられないだろうとたかを括っていた。だが、東国の乱での功労者が追討を任じられることはないだろう。そもそも、叙位、除目を受けた者にしてみれば命をかけるのは愚かしいことだ、そう考えると此度の西国の鎮撫は必ずしも他人事ではない。

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