第1章 始動

case 1

 令和5年7月11日


 どこからともなく吹いてきた風に蝋燭の火が揺れる。直径3センチはある和蝋燭の縁から赤いロウが溶け出し、まるで血が滴るようにその軸を伝う。つむぎが可愛いピンクのバックパックから太い蝋燭を取り出したとき、陽菜ひなはその用意の良さに笑ってしまったのだけど、紬にとってはこういう流れに持っていきたかったのだろう、陽菜が受け皿にとキッチンからそれらしい器を取ってきて蝋燭を立て、それに火を点けて部屋の電気を消すと、紬はさっきまでの可憐な笑みを頬から消し、YourTubeで聞いたという都市伝説を神妙な顔で語り出した。


「これはね、ある女優さんが体験した話らしいんだけど…」


 ぐっと前に乗り出してきた紬の眼には暗い海を照らす灯台のように赤い灯が揺らめき、その真剣な眼差しに陽菜は縁無し眼鏡のフレームを指で支えながら生唾をゴクリと飲んだ。胸がつかえそうだったのはこれから語られようとしている話に恐怖しているからではなく、素朴な炎が照らして赤みが差している目の前のツルンとした顔のパーツの均整がとれすぎていたからだった。


 

 紬は高2の一学期途中で陽菜のクラスに転入してきた生徒だった。陽菜の通う聖連せいれん女子はカトリック系のお嬢様学校で、入学試験には面接まであるという厳格さでただでさえ転入生は珍しいのに、紬は紛うことなき美少女で、転入初日からクラスの注目の的だった。比較的地味に過ごしていた陽菜にとって、そんな人目を引く存在の紬とは遠い関係性で、その彼女がまさか自分の家で泊まる日が来るなど思ってもいなかった。この日は陽菜の父親の学友に不幸があり、郷里の田舎に泊りがけで出掛けてしまったため、陽菜は家で夜を一人で過ごすことになっていた。ちなみに両親は陽菜が幼い頃に離婚していて、陽菜は父子家庭の一人っ子だった。


 陽菜はこの日、本当は友達の心晴こはるを招いて二人で留守番するはずだった。なのに心晴は来ず、どこから話を聞きつけたのか紬が便乗してきたのだった。


「あたしね、二人がいつも都市伝説話してんのを羨ましく見てたんだよね。実はあたしもね、相当な都市伝説フリークなんだ。ね、あたしもそのお泊まり会に入れもらっていい?でね、三人で知ってる都市伝説披露大会しようよ!」


 休み時間、紬が急に話しかけてきてビックリしていると、紬はそんなことを言った。陽菜も心晴も紬とはほとんど話したことはなかったので二人顔を見合わせて返事に戸惑っていたのを、紬は勝手に肯定と受け止め、二人の手を取って楽しみだねとはしゃいだ。周囲からチヤホヤされ慣れている紬はまさか断られるとは思ってなかったのだろう。都市伝説を語るという魅力的な提案が無ければ親しくない人間と一夜を共にするのは苦痛でしかないのだけれど、紬の言うように陽菜も心晴も顔を合わせれば自分たちが仕入れてきた都市伝説を喜々として語り合うことに多くの時間を費やしていたので、新たな仲間を加えることに新鮮味もあり、胸がうずくくらいの楽しみにはなっていた。


 そこまでが前日の話。そして当日のこの日、まさかの心晴が体調を崩して学校を休んだ。心晴とは中学からの親友だ。少なくとも陽菜は彼女のことを親友と思っている。なので彼女の言うことは大抵肯定し、髪型や眼鏡がダサいと言われれば、黒縁眼鏡を縁無しにしたし、二つ結びの毛先を広げてふんわりさせたりもしている。引っ込み思案の陽菜に取っては心晴だけが気さくに話せる相手であり、同じクラスになれた時は飛び上がって嬉しがった。なのに、心晴は最近、やたらと他のグループの女の子たちと交流し出した。そんな中、今日のお泊り会で改めて交友を温め直そうと思っていたのだったが、その約束を反故にされてしまったのだ。まあ体調悪いなら仕方ないのだが…。


 なので紬も諦めるだろうと思っていると、紬は二人きりでもいいと陽菜の家にやって来たのだった。二人は買い置きしていた材料で一緒に夕食を作り、一緒に食べた。教室で見る紬は気位が高そうな印象だったのだけど、緊張気味の陽菜に紬はよく話を振ってくれ、打ち解けるのに時間はかからなかった。紬は初夏によく似合うニットの白いワンピースを着ていて、お泊り用の身の回りの物を詰めたバックパックを背負ってきた。その姿に特に派手さはなく、制服を脱ぐと普通の高校生な姿に陽菜は好感を持った。



「その女優さんが仕事で遅くなって帰ってくるとね、マンションのエレベーターで慌てた様子で降りてきた男性に肩をぶつけられたんだって。その人は一瞬女優さんを睨んだんだけど、そのまま何も言わずにマンションを出て行ったの。女優さんも腹が立ったらしいんだけど、仕事で疲れてたのね、そのままエレベーターに乗って自分の部屋に帰った。でね、家の鏡でさっきぶつけられた肩を見るとね、ベッタリと真っ赤な血が付いてたんだって!」


 そこで紬は目を大きく見開き一拍置く。


「へ、へえ〜」


 紬が陽菜のリアクションを待っているのだと察し、一応自分も目を見開いて驚嘆の声を出してみたが、実は陽菜はこの話を知っていた。芸人たちが集って怖い話を披露し合う昔のテレビ番組で、YourTubeに上がっているのを観たことがあった。テレビ番組をアップするのは違法なのではないかとそのチャンネルのことを心晴に聞いたこともあり、きっと開設者は海外にいて国内ではどうしようもできないんだよと心晴は心許ない推論を言ってくれたのだったが、別段陽菜も罪悪感などは感じずにそのチャンネルを観ていて、今紬が披露してくれている話はその中でも陽菜もとりわけ好きな一つだった。


「次の朝になってね、女優さんの部屋にピンポーンって、来客を知らせるインターホンが鳴ったの。部屋の中のインターホンの画像にね、制服姿のお巡りさんが映ってて、女優さんはすぐにきのうぶつかった男の人のことを思い出したのね。ああ、やっぱりこのマンションで何かあったんだな~って。その日は女優さんは休みだったんだけど遅くまで仕事をしてたので疲れてたのね。で、事情聴取とかめんどくさいな〜って思って、スルーすることに決めたの。それでそのままベッドに戻ったんだって」


 表情豊かに語ってくれる紬の顔を眺めながら、陽菜は微笑ましい気持ちになり、この話を知らないふりをすることに決めた。目元に薄く桜色のアイラインを引いている以外はほとんど化粧っ気はなく、それでも西洋人形を思わせるくっきりした顔立ちに羨望の眼差しを向ける。時折パチクリと瞬きするまつ毛から風が吹いてくるのではないかと思えるほど長く、眼鏡の奥の自分のぼってりした一重まぶたを思ってちょっと気持ちが下がったりもした。そうして話もそろそろ佳境になり、どんなリアクションを取ろうかと胸に息を詰め込んだ。


「昼前になって、女優さんは遅い朝食を摂りながらワイドショーを観てたの。そしたらね、自分のマンションで殺人事件が起こったってやってるじゃない?やっぱりかってなって、画面に集中しての。そしたらね、ちょうど容疑者の顔写真が公開されてて、その顔がね、なーんとぉ!」


 いよいよクライマックスに差し掛かり、紬の声のボルテージも上がる。その熱演に自分もいいリアクションをしてあげなきゃと思う。その思いがプレッシャーとなり、自然と鼓動が速くなった。


「その顔は今朝訪ねてきたお巡りさんの顔なのでしたあ!!」


 紬がオーバーアクションでフィニッシュを決めたその時、



 ピンポーン!!



 部屋中に電子音が響き、



 ぎゃあああああああああ!



 演技でも何でもなく驚愕の咆哮が口をついた。心臓の動悸が爆上がりし、咄嗟に起こった事態にテラーだった紬自身も大きな目を見開いて固まっている。どうやら、来客を告げるチャイムだったようだ。机の上の置き時計を見ると9時をちょっと過ぎたところ。こんな遅い時間に訪ねて来る者に心当たりなどない。陽菜は一旦落ち着こうと大きく深呼吸した。


「ちょ、ちょっと下に行って誰が来たか見てくるね」


 そう言って二階の部屋から一階に降り、キッチン横のインターホンの親機の液晶を恐る恐る覗いた。ひょっとして心晴が体調を戻してやって来てくれたのかもという希望的観測も抱いたが、そこに映っているのは、制帽を目深に被ったお巡りさんの姿だった。


「出ちゃだめ!!」


 ふいに後ろから大声がして、陽菜は飛び上がった。いつの間に降りたのか、振り向くと紬が間近で仕切りに首を振っている。


 え、まさか……


 これは現実。お巡りさんが殺人犯などあり得ないはずだが、かといってお巡りさんにこんな時間に訪ねて来られる理由も検討がつかない。さっきから連続して上がり続ける鼓動がさらに加速していく。そして、胸が苦しくなる。


 つっと、何か生暖かいものが目の縁から流れ出すのを感じ、心配そうにこちらに視線を送る紬の顔が赤くぼやけ出した。


「え、何?」


 目元を拭って手を見ると、血のラインがくっきり引かれている。当惑して紬の顔を見上げると、その口元がにいっと横に伸び、口角がゆっくり上がっていく。


 その口の広がり方は異様だった。両端が耳に届くかというくらい裂けていて、人間とは思えない風貌になっている。陽菜は身動き出来ず、眼鏡のガラスを突き抜けるかというくらい最大限に目を見開き、その様子を凝視する。やがて紬の口は陽菜の頭をすっぽりと包めるかというくらい大きく開かれ、


「あたし、きれい?」


 と言ったその喉奥には邪悪な者が今にも飛び出してきそうな暗闇が広がっていた。




………………………………


第1章の扉絵です。よければどうぞ。

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