第6話さすが、篠塚マジック
今日午前のメニューはレクリエーションで、点数の書かれた的にボールを投げ入れるという極々簡単なものだ。それでも筋力の衰えがちの利用者にはよい運動である。円陣を組んで、いちばん右端の利用者から時計回りに投球する。司会は最近やたらと問題を巻き起こしている猿谷である。猿谷はこういったレクリエーションの司会は得意と見えて、彼らしい話術で場を盛り上げていた。周りには数人の職員がおり、拍手したり、掛け声をかけたりしている。篠塚はそれを少し離れた位置から壁に少しだけ身を預けて見守っていた。
と、そこに犬飼主任がやってきて真っ直ぐに猿谷のほうまで歩みを進めると
「猿谷さん、私は学生にはまずレクに参加してもらうよう言ったはずです。どうして送迎のほうに寄越したんですか」
と分かる人間には分かる、怒りの籠った発言をした。
「僕は言われた通りにしただけです」
「それが言われた通りにできていないから言っているんです」
このままではレクリエーションがめちゃくちゃになってしまう。篠塚はすぐさま場の仲裁を図ろうと歩みを進めた。しかし彼が二、三歩近寄ったとき
「わー!すごい!!横山さん五十点に入りましたよ!」
と場違いなほど明るい声がして周囲の視線はすぐにいがみ合う職員から逸れた。見ると新人職員の宇野介護士が大きな拍手をして軽くジャンプまでしている。
「ほんとすごーい!ちょっと私もやってみようかな、コツとかあります?」
と思い切り投げて、ボールは的とは全然違うところに 転げていった。利用者の間から笑い声が飛び出す。
「ありゃーダメでした。簡単そうに見えてなかなかセンスがいりますねー。横山さん皆さんにアドバイスをお願いします」
横山と呼ばれた利用者は
「コツなんてありゃせんよ。思いきり投げるだけだね」
「えーじゃあ思い切り投げたのに零点の私はどうなるんですかー」
と頭を抱えるので周囲はまたどっと沸いた。
篠塚はこの新人職員の咄嗟の機転にほっと胸を撫で下ろすと、主任である犬飼を身振りだけで管理者室へ呼んだ。
部屋に入るなり篠塚は努めて冷静な口調で
「何を考えているんですか。利用者さんの目の前だと以前にも言ったはずです」
「分かっています」
犬飼はあとを続ける気力もないと見えて口を閉じたままだ。
「猿谷さんには何と指示を出したんですか」
「…学生はレクに参加させるようにと」
「それは先ほどの中身で分かっています。そうではなくて、具体的にどのような言葉かけをしたんですか」
「今日は職業体験の学生さんが来られるので、到着されたらレクリエーションに参加してもらってください。私はまた別の学生さんを連れて利用者さんのお迎えに行くので不在ですので、よろしくお願いします、と伝えました」
「なるほど」
それが本当であれば指示としては的確である。
「できる限り詳しく説明を加えているつもりなんです。説明不足でこうなるんだ、なんて言われないように。丁寧に話しているつもりなんです」
疲れきったような、苛立っているような、絞り出した声で犬飼は告げた。
篠塚も気にはなっていた。というのも、当初犬飼に対して猿谷が向けていた敵意らしきものを最近とんと感じられなくなっていたからだ。それなのに幾度となくミスを繰り返しては上司の気分を害している。それに猿谷のミスが目立ちだしたのは、前任の主任が退職してからのような気がしていた。
「犬飼さん、猿谷さんへの指示の仕方を変えましょう」
うつむき加減で聞いていた犬飼が顔を上げた。
「どうも猿谷さんは長い指示を聞き取る能力にハンデがあるように思われてならない」
「……篠塚さんは、私のほうに問題があるとおっしゃっるんですか」
「そうは言っていません。ただ一回の指示の中にいろんな要素を盛り込むと、そのどれかが抜け落ちてしまっている気がするんです。おそらく今日のことも、あなたが学生と一緒に利用者を迎えに行くという情報と、他の学生がやって来てレクに参加するという情報が彼の頭の中で結びつかなかったのかもしれない。前の主任は言い方は悪いですが、部下に対してはあなたほど丁寧には応対しませんでしたから。指示もごく命令口調で短文でした」
しかし精神的に追い詰められている犬飼には篠塚の解釈など、耳に入るはずもなかった。
「……篠塚さんは、私のほうが悪いとそうおっしゃっるんですね。ミスをするあの人ではなく、私の説明がいけないとおっしゃりたいんですね」
語気が荒くなっていく。
「犬飼さん」
「私は一生懸命やっているのに」
「犬飼さん」
「本来なら責められるのはあの人じゃないですか!」
(ああ、もうめんどくさい)
篠塚は苛立つ感情を少しだけ抑え、壁際に立っている犬飼との距離をつめた。親密な相手以外許容しないようなかなり至近距離まで迫ってわざと音がするくらいの勢いで右手を壁に打ち付け、犬飼の動きを封じる。犬飼の視線は真っ直ぐに篠塚を捉え、その頬は心なしか赤く染まっているように見えた。篠塚はそのまま
「猿谷さんには僕から強く言っておきますから。犬飼さんも指示の仕方をごく短く変えてください」
いつもより低めの声で伝えた。
相手は慌てたように何度も首を縦に振って、一度礼をしてから管理者室から出ていった。それを見送るか終わらないうちに口笛の音がして、
「さすが篠塚マジック」
と茶化すような男性職員の声が聞こえた。
「ずるいよな。篠塚さんの容貌であんな風にされたら大抵の女性は何でも言うこときいちゃいますよ」
「うるさい」
篠塚は短く言い放ってから椅子の背もたれに身を預けた。男の言ったことはあながち間違いではない。篠塚は全てを分かった上であのような対応をしたのである。これ以上感情的な台詞を聞きたくなかったからこそ、相手が自分に対して多少なりとも異性として好意的な感情を抱いているのを承知した上で、敢えてした行動だった。
篠塚はそれよりもこの日々続くいざこざをどうしたら収めることができるか、それだけを考えていた。犬飼にしろ、猿谷にしろ、この問題がなければ、事業所にとって有益な人物であることに変わりはなかった。ミスを繰り返す猿谷は、実のところ、強固に女性職員の介入しか許さない女性利用者にも受け入れられるという稀有な存在であった。なかなかデイに馴染めない利用者も猿谷の独特の雰囲気で輪に入ることができるのも事実である。
犬飼は全体の統括、職員同士の間に入っての事業所の指揮系統を取ることにかけては力を持っている。こと猿谷以外に関してだが。
頭を悩ましながら一日の就業時間が終わり、ふと退勤時間が迫っているのに気付くと、篠塚は慌てて職員用玄関へと急いだ。
「宇野さん」
探していた姿を見つけて声を掛ける。
相手は下足に履き替えようとしていたが、こちらに向き直ると
「篠塚さん。どうかされましたか?」
尋ねた。
「今日はありがとう。助かったよ」
「今日?」
新人職員の宇野は本当に何のことか分からないといった様子で首を傾げている。
「ほら、レクリエーションのときの」
そこでようやく思い出したらしく
「ああ、そんなお礼を言われるようなことじゃ」
「いや、君の機転がなかったらどうなっていたか。本当にありがとう」
「私こういうことには慣れているんで。でも篠塚さんのお役に立てたなら何よりです」
「お疲れさま」
「はい、お先に失礼します」
扉が音を立てて閉まるまで見送ってから踵を返す。
(こういうことには慣れているんで、か)
新人に随分と気を遣わせる会社だと我ながら呆れてため息が零れるのだった。
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