第二章
2
最初は、突風でも起きて八月の熱気が吹き付けたのかと思った。
だがそうではなかった。風に目を細めた瞬間、思いも寄らないことが起きた。こちらに背を向けて雑草を刈っていたビキニ姿の近衛が、こちらを向いたと思うや否や草刈り鎌を振るって飛びかかってきたのだ。
突風なんかじゃない、これは殺意だ。
瑠璃は瞬時に判断し、懐から拳銃を取り出して構えた。しかし間に合わない。近衛の手にしている鎌の切っ先が、瑠璃の頸動脈に向かってきて――。
(違う、何これ)
すぐに彼女は我に返った。真夏の田舎の田んぼ道で、拳銃を構えてとっさに首筋をガードしている自分がいた。そして、目の前の畑から近衛有明の姿は消えていた。
「こんなところで拳銃なんて、剣呑かつ穏やかじゃないねえ」
背後から低い女の声がして、瑠璃の首元にひやっとした気配があった。後ろを取った近衛が、草刈り鎌を突き付けているのは振り向かなくても分かる。この女、今の一瞬で移動したのか?
「ま――待って、待って下さい」
瑠璃は銃を離し、足元に落として両手を挙げた。だが近衛は続けて問いかけてくる。
「誰に雇われたかしゃべってから死ぬ? その前に死ぬ?」
「違うんです。仕事の依頼で」
「へえ。それで銃向けるんだ」
近衛有明の声音は低くて鋭く、それ自体が刃物のようだった。まさか自分が命乞いをする日がくるなんて、逆なら十分ありうるのに、と瑠璃は信じられない思いで説明する。
「本当です、牟田口さんから教えられて来たんです。今、銃を向けたのは謝ります。ただ、貴女が私に飛びかかってくるように見えて――」
「あー、アンタそりゃね、アンタ自身の殺気が撥ね返って感じられただけだよ。みんな同じこと言うんだよね。『宮本武蔵』読んだことないかなぁ」
瑠璃の言い草が可笑しかったのか、近衛の口調が和らいだ。そこで瑠璃が「いえ読んだことは……」と口ごもると、
「まあいいさ。牟田口さんの使いなら言うことがあンだろ」
「あ」
忘れてた。
「こ、今年のナスの生り具合はどうですか」
「悪くないよ」背後の近衛の声が、「いつも買ってる苗屋が今年は調子悪いのか、二本のうち一本の元気がないのが気がかりだけどね」
「そ――それならいっそ種から育ててみたら」
「種から育てるなんて、アタシは朝顔と秋撒き野菜だけで十分だね」
近衛の声がそう応じると、瑠璃の背後から、彼女の気配がふっと消えた。同時に首元に突き付けられていた鎌も引っ込められる。
瑠璃は素早く後ろを向いた。だがもう誰もおらず、再び前に向き直ると、そこに近衛が立っていた。麦わら帽子に緑色のビキニ、それにゴム長靴という異様な出で立ちで、ギザギザの草刈り鎌を携えている。
「なんて格好で畑仕事してるんですか!」
瑠璃は、挨拶よりも先にそんな風に叫んでいた。近衛は大きな口でにっと笑い、美しく並んだ歯を見せる。
「大丈夫だよ、日焼け止めはたっぷり塗ってる」
「そういう問題じゃ……」
瑠璃は言い返そうとして口ごもった。近衛のスタイルは異常だが、整った顔立ちとそのプロポーション、それに水着という組み合わせには、見る者を圧倒し有無を言わせない迫力がある。実際、瑠璃もその姿を改めて目の当たりにすると最初は見惚れたが、次の瞬間には目のやり場に困り、最後には見ていて恥ずかしくなり目をそらしていたのだった。なるほど、どっちかの頭がおかしいという判断に至るのはこういう理由からか。
「とりあえず合言葉は合格だからさ。立ち話も無粋だし上がっていきなよ、茶くらい出すから。アンタ名前は?」
「敷島瑠璃です」
「どう書くの。敷物の敷に島原の乱の島? それでラピスラズリの瑠璃?」
いきなり変なことを聞き返されたので、戸惑いながらそうですと答えた。瑠璃色とかガラスとか言うならともかく、わざわざラピスラズリを引き合いに出す人には初めて会った。
「なーんか苦労してそうな名前だねえ。画数が多いからサインするのも大変そう。人間関係、楽じゃないでしょ」
と、近衛は何やら中空に目を泳がせつつ、ちらちらと瑠璃の顔を見て言った。どうやら、そらで姓名判断をしたらしい。
「はあ、まあ、人間関係……一番苦手です」
瑠璃は流されるままに頷いた。
人間関係――瑠璃の最も苦手なものだ。実のない会話、実のない人間関係。いわば何の「理」もない、ルールのない空虚な関係はいつも瑠璃を悩ませてきた。
だからこそ彼女はこの業界で、銃などという邪悪な道具を手にするようになったのだ。
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