ただ、楽しくなりたかったんです
安居院晃
プロローグ
プロローグ
「死んだ母の首を抱きしめたのは、今から14年前のことです」
縦、横、高さ。全ての辺が等しい長さをした立方体の室内の中央、ガタツキのある簡素なパイプ椅子に腰を落ち着けた僕──
言葉としての形を与えられて外界に放出された声が反響する空間内に存在する静物は、片手で数えることが可能なほどに少ない。長方形の形と灰の色を持つ机に、白いLEDの光を放射し周囲を照らすデスクライト。机上に安置された白のコピー用紙と、その上に転がるメーカー不明のボールペン。
視界に映る世界を構成する静物はその程度。とても静かで、呼吸音がやたらと大きく聞こえる。瞼に暗幕を下ろして視覚を遮断すれば、この世界にいる人間は自分一人だけなのではないかと錯覚してしまうほどの無音。
東京の街中の対極とも言える空間に、僕は居心地の良さを感じながら、口内に蓄積された酸味のある唾液を食道に通して、続く言葉を言い連ねた。
「あの重みを、生温かい血の滑り気を、僕の両手は鮮明に記憶している。この手に少しでも意識を集中させれば、簡単に思い出すことができる。消えていく母の温度は、片時も忘れたことがありません」
微細に痙攣する両手を持ち上げ、掌に刻まれている湾曲した生命線に視線を固定した。震えを止めようと力をこめるが、左右の手は脳の支配から外れてしまったように、僕の意思に反して動き続ける。ガタガタと、地響きの中にある食器のように震え続けている。
心拍数が上昇し、呼吸のリズムに小さな乱れが生じる。けれども、安定から外れる肉体とは反対に、精神状態は至って良好だった。乱れたリズムで空気を取り込み二酸化炭素を排出する口元は、無意識の内に三日月の形へと裂けている。
傍から見れば狂った異常者。正常な精神状態を失った状態の僕を沈黙と共に見つめ、僕の発する音を鼓膜で捉えているのは、机を挟んだ対面に座る濃紺の衣類に身を包んだ中年の男。僕が話し始めてから、ただの一言も声を発していない。向けられた鋭い両目は一瞬も逸らされることがなく、僕の動きを細かく観察している。試験薬を投与されたモルモットを見る、科学者のように。
肌で感じる威圧感。鋭い眼光により自然と委縮してしまう身体。
しかし身体の反応とは異なり、恐怖心は一切ない。それどころか、嬉しさと喜びが胸中で乱舞している。
こんな僕のくだらない身の上話に、真剣に耳を傾けてくれていることが、この上なく嬉しかった。
小さな幸せを感じ、自然と深まる口元の笑み。
それを隠すことなく、僕は眼前の男が最も聞きたがっている話──僕の身の上話の終章を語り始める。
矮小でちっぽけな社会の歯車として生を終えるはずだった弱者の世界に、希望の光が差し込んだ──ある出会いの話を。
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