第4話 素性はわかりましたが、根本的なことがわかりません。
どこかで誰かが言い合っている。どの声も聞き覚えのある声……イーモンが怒鳴っている? ……女将さんの前では紳士のイーモンがヤクザみたい……あ、私はイーモンに馬車の中で攻撃されたんだ。
はっ、と気づいた瞬間、意識を取り戻した。見覚えのない一室、私は後ろ手に縛られ、床に寝かされていた。檻の中じゃないからマシ。……うん、こんなことを考えてしまう自分が情けなくなる。異世界で確実に大切な何かを失った。
「さっさと殺したほうがいいっ」
イーモンが私を鞭で差しながら怒鳴ると、恰幅のいい男が首を振った。
「殺すな、とのご命令だ」
「……情か?」
「あくまで娼婦にしろ、の一点張り」
「宰相の息子が聞き回っている。悠長なことはしていられない」
メラニーこと私の処理に関して、意見が合わずにぶつかっている。宰相の息子とはエルドレッド様かもしれない。何かが確実に動きだした。ここで焦ったら詰む。
私は息をひそめ、耳を澄ました。
「ここで強姦して殺せば満足するんじゃないか?」
靴音が私に近づき、恐怖で身体が震えた。
「確かに、こんな美人をただ殺すのは勿体ない」
「哀れな女だ。娼館送りになったんだから、素直に娼婦になっていれば殺されずにすんだのに……おや、メラニー、お目覚めかな?」
イーモンが私に気づき、身体を反転させられた。身に着けていた防犯の魔道具はすべて取られている。私の武器は筋肉がほとんどついていない身体だけ。
「……イーモン?」
私は腹部に力を入れ、上体を起こした。
「馬鹿な子だね」
イーモンの捕食者のような目つきにぞっとした。女将さんと親しくしていた女衒の顔じゃない。
「いったいどういうことですか?」
「カメリアに出張られて焦ったが、お前が馬鹿な子でよかったよ。あれだけ言われたのに父親であっさり吊り上げられるんだから」
「父が帝都からゲートで来たのは嘘?」
私が確かめるように聞くと、イーモンは馬鹿にするように笑った。
「カメリアが言ったように、本気で悔やんでいたら自分で娼館まで迎えに来る。もしくは町で宿をとっている」
「いったいなんのために?」
「恨まれたね」
「覚えがない……え? 奴隷商人?」
イーモンの隣には見覚えのある男がいた。仕立てのいい長衣を着ているけれど、眼光が鋭すぎる奴隷商人。
「……おや、覚えているのかい? お前を檻の中に入れて面倒を見ていた男だ」
奴隷商人が下卑な笑みを浮かべ、私の顔を覗きこんだ。
「いったいどういうこと?」
「何も知る必要はない。抵抗しても苦しいだけだからじっとしておいで」
鈍く光る短剣が振り下ろされる。
明確な殺意。
殺される。
「いやーっ」
私が悲鳴を上げた瞬間、凄まじい音を立てて扉が破壊された。
「アイリーン」
赤い瞳の魔王、降臨?
……や、冷たそうなイケメンが物凄い勢いで飛びこんできた。右手で深紅の鎖を作り、奴隷商人を拘束する。激烈な魔力の持ち主だ。
同時にエルドレッド様が天井から、青く光る剣を手に飛び降りてきた。
「そこまでだーっ」
赤と青の魔力が充満する。
これらはほんの一瞬の出来事で、私は瞬きをする間もなかった。深紅の火柱が何本も立ち、イーモンや奴隷商人たちが苦しそうにのた打ち回る。
「……え?」
いったい何が起こったの?
赤い目のイケメンに手鎖を外された途端、抱きしめられ、私の口から心臓が飛びだした。……飛びだしたと思った。
「アイリーン」
アイリーン?
アイリーンって誰?
「……………………………………………………え?」
「アイリーン、僕がわからないのか?」
地を這うような声で問われ、私は我に返った。
「……も、申し訳ございません」
「僕だ」
すべてを焼き尽くすような目で睨まれ、喉を引き攣らせた。控えめに言っても怖い。賞金首の凶悪犯より迫力がある。
「すみません。記憶がないのです」
メラニーの知り合い?
「婚約者だ」
婚約者を名乗る五人目の男は一度見たら忘れられないような冷たい魔王。
「……こ、婚約者?」
「結婚式を控えていた」
「父に売られたと聞きました。ご存じですか?」
私はイーモンに自殺防止の猿轡を噛ませるエルドレッド様に視線を流しながら言った。何かしら聞いているはず。
「君の名はアイリーン、カーライル公爵家の長女だ」
一瞬、聞き間違えたと思った。没落貴族どころか、建国に尽力した名家筆頭。
「……はい?」
カーライル公爵家の長女といえば、皇太子の婚約者であるアイリーンだ。皇后陛下直々のお妃教育のため、皇宮で暮らしているはず。
「繰り返す。君はアイリーン・ディアドラ・オブ・カーライル」
御大層な名前を聞いても胸には刺さらない。噂の女だ。
「……違います。私はメラニー」
「誰が君をその名で呼んだ?」
「……あ、奴隷商人やイーモン」
「記憶喪失だと知り、勝手に名をつけたのだろう」
言われてみれば、腑に落ちる。あの時、メラニーではなくアイリーンやカメリアと呼ばれても自分の名だと思った。
「……気がついたら檻の中でした」
この身体はメラニーではなくカーライル公女のアイリーン?
なら、亡くなったのはアイリーン?
私の思考回路はショート寸前。
「許せない」
ぎゅっ、と逞しい胸に抱きしめられ私は焦った。帝国では珍しい黒髪に皇族直系の赤い瞳の持ち主といえば心当たりはふたり。皇帝陛下と嫡子の皇太子殿下だ。
「……もし、私がカーライル公女なら……婚約者……まさか……あなたは……」
「コーネリアスだ」
皇位継承権第一位の第一皇子の名を聞き、血の気が引いた。卒倒しなかった自分を褒めてやりたい。
「……こ、皇太子殿下?」
「エルドレッドに聞き、君だと思った」
「……エルドレッド様? 宰相のご令息に思えなかったけど、宰相のご令息だったんですね」
私は皇太子殿下を直視できずに、エルドレッド様に視線を流した。
「アイリーン嬢、その言葉そっくりそのまま返す。カーライル公女に思えなかったけど、カーライル公女だったんですね」
俺の知るカーライル公女じゃない、とエルドレッド様は全身で語っている。周囲の近衛騎士たちにしてもそうだ。
「……あ」
「殿下、場所を変えましょう。何が仕掛けられているかわかりません」
エルドレッド様が真剣な顔で言うと、皇太子殿下は頷いてから私を抱き上げた。顔つきは険しいけれど、私を抱く腕は意外にも優しい。
町の瞬間移動できるゲートで、帝都にある皇宮の皇太子宮のゲートまでほんの一瞬。
圧倒されるような豪華な部屋に通され、アイリーンの専属侍女だったというマイラが泣きながら出迎えてくれた。
「アイリーン様……よくご無事で……」
マイラにさめざめと泣かれたけど、アイリーンとしての記憶は破片すら蘇らない。
「ごめんなさい。何も覚えていないの」
アイリーン、どこにいるの?
何度、心の中で呼びかけても返事はない。
「……は、はい……あ、あの……湯あみを……」
湯あみの後、繊細なレースがふんだんにあしらわれたドレスを身に着けた。娼婦も綺麗なドレスを着ていたけど、質自体が違う。髪の毛も結い上げられ、蘭をモチーフにした華やかな髪飾りをつけられる。
自分で言うのもなんだけど、目の覚めるような美女だ。耳飾りや首飾り、指輪もすべて真っ赤なルビー。
皇太子殿下の瞳を思いだし、胸が熱くなった。
何も覚えていない。何もわからない。ただ、先ほど、アイリーンに向けられた目や言葉は心に深く刻まれた。あれは嘘じゃないと思う。……嘘じゃないと思いたいのかな?
噂ではアイリーンを嫌がり、異母妹のアンジェリカに心変わりしていたはず。……どういうこと? アイリーンと婚約破棄したいなら、わざわざ探したりしないよね? ……や、決めつけるのは早い。優位に婚約破棄するため?
『信じていいのはお金だけ』
胸底で花園の鉄則を繰り返す。
「アイリーン様、皇太子殿下がお待ちでございます」
続き部屋に向かえば、皇太子殿下が猫足の椅子で待っていた。背後で立っているのはエルドレッド様や侍従長、眉目秀麗な側近たちだ。全員、私を見ると宮廷式の礼儀を払う。イケメン揃いだけに壮観。
子供の頃から叩きこまれた大和魂か、私は礼儀正しく日本式のお辞儀をした。
一瞬、珍妙な沈黙が走る。
「アイリーン様、殿下にカーテシー」
マイラに小声で耳打ちされ、私は娼婦たちの挨拶を思いだした。貴族相手には必須の挨拶だ。
見よう見まねでカーテシー。……ふらついて、マイラに支えられた。スルーされているから、こちらも言い訳しないほうがいい。……や、言い訳じゃない。女将さんにもさんざん注意されたけど、私は言葉足らずだ。言い訳と思われてもいいから説明しよう。
「申し訳ございません。文字は覚えていましたが、淑女らしいことは覚えていません。無作法ですが、お許しください」
私が堂々と言うと、皇太子殿下は切れ長の目を細めた。
「アイリーン様が無事にお戻りになられました。幸いです」
中性的な侍従長に切々と言われ、私はほっと胸を撫で下ろす。説明して正解。
アイリーンが好きだったという柑橘系の紅茶を用意された。宝石みたいなチョコレートに感激している場合じゃないけど感激。
黄金と黄水晶のシャンデリアの下、私が今までの経緯を話すと、皇太子殿下は能面で黙りこくった。マイラが堪えきれずに涙で頬を濡らし、侍従長に慰められる。
エルドレッド様が手で胸を押さえながら言った。
「間に合ってよかった」
「エルドレッド様、どうしておわかりになったのですか?」
「皇宮で殿下にお会いした」
皇太子殿下の指示でエルドレッド様は椅子に腰を下ろすと、どこか遠い目で語りだした。カメリアの花園を出た後、胸騒ぎがして仲間と別れ、単独でゲートを使って皇宮に乗りこんだという。宰相の令息としての身分を使ったのだ。
公になってはいないが、と宰相は前置きをしてから明かしたという。
『アイリーン嬢は専属騎士に溺れて駆け落ちしたが、カーライル公爵が捕まえ、監禁中だという。婚約破棄だけではすまない』
宰相の言葉には重みがある。
『父上、まさか、アイリーン嬢は修道院送りか?』
『皇太子殿下に対する裏切りは国への謀反に等しい。処刑されても文句は言えまい』
『まさか、カーライル公女が処刑?』
『カーライル公爵はアイリーン嬢を見捨てた。お前は関わるな』
本宮でアイリーン不義による婚約破棄の噂を聞き、エルドレッド様はいてもたってもいられなくなったという。なんの手続きも取らず、皇太子に突撃したそうだ。
『殿下、婚約者はハニーブロンドに黄金色の瞳で、近寄ったら怒られそうな美女でしたよね?』
エルドレッド様が宮廷作法を無視して話しかけると、皇太子の側近の注意が飛んだ。
『デヴォニッシュ公子とお見受けするが、帝国の政を司る柱の令息とは思えぬ無作法ぞ。どこの誰が騙っている?』
『失礼しました。帝国の光り輝く未来にエルドレッド・メルヴィル・オブ・デヴォニッシュがご挨拶させていただきます。婚約破棄の噂を聞きました』
エルドレッド様は挨拶をしたけど、宮廷作法をすっ飛ばす。それでも、皇太子は咎めず、応じたという。
『婚約破棄する気はない』
『アイリーン嬢は専属騎士への愛で寝込んでいるんですか?』
皇宮は皇太子妃候補のスキャンダラスな不義が飛び交っている。カーライル公爵夫妻も婚約破棄を申し出ている最中だ。
『噂に惑わされるな』
『ハニーブロンドに黄金色の瞳でメラニーという名の美女に心当たりありませんか?』
『……詳しく話せ』
『そのメラニーという絶世の美女が記憶喪失なんです。名前以外、何も覚えていない……』
エルドレッド様の言葉を最後まで聞かず、皇太子殿下はは言い放った。
『どこにいる?』
『……は? メラニーは国境近くの娼館にいます』
『……娼婦か?』
皇太子は子供の頃から感情を顔に出さないように教育されている。なのに、明らかに動揺した。
『用心棒です。むっちゃ強い』
『案内しろ』
『お立場上、娼館遊びはお控えになったほうがよろしいかと存じます』
『メラニーは僕の婚約者かもしれない。即刻、内密に保護しろ』
『……カーライル公女は内々に監禁されているんですよね?』
『アイリーンの行方が掴めない』
エルドレッド様はそこまで一気に語ると、髪を掻き毟りながら大きな息をついた。
「メラニーを真剣に口説かなくてよかった」
皇太子殿下は形のいい眉を顰めたけど口は開かない。思わず、私がつっこんでしまった。
「……エルドレッド様、それ、ここで言いますか?」
「メラニー、アイリーン嬢と違い過ぎる。近寄り難い淑女だったんだぞ」
俺は遠目でちょっと見ただけ、とエルドレッド様は懐かしそうに続けた。周囲の反応を見る限り、嘘ではないみたい。
「すみません。何も覚えていません」
娼館で荒くれ相手に木刀や剣を振り回した日々が走馬灯のように駆け巡る。料金を踏み倒そうとする男性客と一緒に裏の川に落ちたこともあった。
「アイリーン嬢、どうして、覚えていない?」
「それがわかれば苦労しません」
私が頬を引き攣らせると、エルドレッド様にあっけらかんと頼まれた。
「思いだしてくれ」
「どうしたら、思いだせるか教えてください」
私はアイリーンの身体に入っている板垣真矢、と胸底で零した。嘘をついていることが苦しいけれど明かせない。
本物のアイリーン、出てきて。
「頭でも打てば思いだしてくれるんですか?」
「私は頭を打ったから記憶を失ったんですか?」
本物のアイリーンは頭を打たれたから記憶を失ったの? それはないんじゃね?
「誰がアイリーン嬢の頭を打ったんだ? そんな奴がいると思えないがいたのか?」
「エルドレッド様ならやりそうです」
「誤解だ。いくら俺でもそんなことはしない。第一、その頃、魔獣とやり合っていた」
私とエルドレッド様の間で実りのない言い合いをしていると、皇太子殿下が冷厳な顔で呟くように言った。
「アイリーンは一度も言い返さなかった」
皇太子殿下の言葉に賛同するように、侍従長や側近たちが頷いた。マイラの涙がさらに激しくなる。
「娼館で用心棒として働いていました。言われっぱなしだとナめられて終わりです」
「苦労させた」
誰にも謝罪しないような皇太子に詫びられ、面食らってしまう。侍従長や側近たちも豆鉄砲を食った鳩のような顔で硬直している。
「皇太子殿下が私を娼館に売り飛ばしたわけじゃない。謝る必要はありません」
まさか、皇太子殿下が邪魔な私を売り飛ばしたの? ……違うよね? たとえ、異母妹のアンジェリカに夢中になっていても違うよね? まさか、ここから自分に有利なように婚約破棄する気?
「そなたを守れなかった」
「私にいったい何があったんですか?」
アイリーンに何があったのか、婚約者の口から直に聞きたい。
「私の婚約者として申し分ない令嬢だった」
皇太子殿下は無表情のまま淡々と語った。なんの情も感じられない。人としての血も流れていないような気がした。
「申し分のない令嬢なのに、どうしてこんなことになったのですか?」
私が探るような目で尋ねた時、いきなり、扉が開いた。金髪碧眼の紳士が険しい顔つきで入ってくる。
「アイリーン、この恥さらしめ」
……怖い。
お父さん?
私に対する憎悪が凄まじく、身体が竦みあがる。指一本、動かせない。道場主だった父とルックスは違うけど同じ匂いがした。
「カーライル公爵、殿下の御前である。控えろ」
側近の注意が飛んでも、カーライル公爵は怯まなかった。
「我が家門の恥さらしのせいで、殿下のお手を煩わせる必要はございません。家長として不届き者を処理します」
カーライル公爵といえば、アイリーンの父親だ。けど、私は直視できない。虚ろな目で人形のように固まっているだけ。
「カーライル公爵、控えろ」
「皇太子殿下、ご挨拶は省かせていただきます。アイリーンは婚約破棄を望み、叶わぬと知り、専属騎士を連れて出奔したのです。この不埒者は我が家で処分させてください」
カーライル公爵が合図を送ると、カーライル騎士団長が率いる騎士団が入室してきた。瞬時に私の周りを囲む。……否、エルドレッド様が私を守るように剣を抜いた。殿下の側近たちも私の盾になるように立つ。
ミシミシミシミシミッ、と不気味な音とともに荘厳な建物が揺れた。皇太子殿下やエルドレッド様、カーライル騎士団長など、強力な魔力持ちの魔力が拮抗している。
「僕の妻はアイリーンだ」
皇太子殿下が高らかに宣言すると、カーライル公爵は低い声で言い返した。
「皇室は我が家との縁をお望みと聞きました。次女のアンジェリカを婚約者にしていただければ幸いです」
カーライル公爵の言葉に呼応するように、ピンク色の髪の可憐な美少女が宮廷式のお辞儀をした。私のカーテシーは比較の対象にもならない優雅さ。アンジェリカは私を見ると、赤味がかった桃色の目をうるうるさせた。
なんて可愛い。
マジ人形。
私は胸底で感服したけど、皇太子殿下は無表情で拒絶した。
「断る」
「陛下のご命令ですぞ」
「僕の気持ちは変わらない。アイリーンと結婚する。反対するならば、皇位継承権を返上する。辺境伯とでもなり、帝国を守ろう」
皇太子殿下の爆弾発言に驚愕したのは私だけじゃない。アンジェリカはか細い悲鳴を漏らし、カーライル公爵の顔は土色に染まった。
「お立場を考えてください」
「皇太子の立場で許されぬのならば、皇太子の身分を捨てる。皇子としての身分も捨てよう」
皇太子殿下に肩を抱かれ、私は身体を竦ませた。怖いわけでもいやなわけでもない。ただ単に男性に免疫がないだけ。
……え? どういうこと? アイリーンは殿下に疎まれていたんじゃなかったの? 殿下はアンジェリカを気に入っていたんでしょう?
私の脳裏にインプットされたデータと皇太子殿下の口から飛びだした言葉が反発する。
「娼館にいた娘は皇太子妃になれません。我が家の恥、国の恥」
カーライル公爵も私がどこにいたのか、すでに知っている。アンジェリカの涙がはらはらと溢れた。
「僕も一緒に娼館の用心棒になる」
皇太子殿下の爆弾発言は冷淡な調子で続いた。どんな妄想力を発揮しても、用心棒になった皇太子殿下がイメージできない。
「剣など、一度も握ったことがない娘に用心棒は無理です。娼婦として身体を売っていたのでしょう」
汚らわしい、とカーライル公爵は私を唾棄すべき物として睨み据えた。父としての情は微塵も感じられない。
私、汚物になった気分。
「一度も身体を売ったことはない。それは確かめた」
「殿下、かつて私はヘンリエッタを愛していながら国のため、西国の王女と結婚しました。生まれたのがアイリーンです」
いきなり、カーライル公爵は過ぎし日を語りだした。国の境界線を巡る長い戦争を終わらせるため、年頃の独身皇族がいなかった皇室の代わりに、帝国序列第一の公爵家が敵国の王女を娶ったのだ。
当時、恋人だったのがアンジェリカの実母であるヘンリエッタだ。娼館でも幾度となく話題に上った一途な恋の話。
国のため、カーライル公爵とヘンリエッタは生木を裂くように別れた。もっとも、西国の王女ことカーライル公爵夫人が妊娠した頃、ヘンリエッタを愛人として囲う。深く愛し合ったふたりは忘れようとしても忘れられなかった。
アイリーンが三歳の時、カーライル公爵夫人は亡くなり、ヘンリエッタを後妻として迎えた。
今現在、カーライル公爵とヘンリエッタは帝国一のおしどり夫婦として評判だ。ふたりの間に生まれたアンジェリカは天使として名高い。
「そんなに愛していたのならば、弟に爵位を譲ればよかった。カーライル公爵ならば誰でもよかったのだから」
皇太子殿下は人気のコイバナを一蹴した。……確かに一理ある。小悪魔・デイジーもそんなことを言っていた。
「立場を考え、国のため、王女を娶りました。よくよくお考えださい」
「僕の考えは変わらない」
カーライル公爵は皇太子殿下から私に視線を流した。
「アイリーン、来なさい」
怖すぎて抗えない。私の身体がカーライル公爵の命令に応じる前、皇太子殿下の命令が響き渡った。
「アイリーン、そなたは挙式の準備がある。留まれ」
「お姉様、このままではお姉様が愛したリーヴァイが殺されてしまいます。リーヴァイは捕まって、地下牢でずっとひどい拷問を受けているの」
アンジェリカに涙ながらに抱きつかれ、私は身動きが取れない。カーライル公爵は愛娘を宥めるように咎めた。
「アンジェリカ、控えなさい」
「お父様、お姉様とリーヴァイを助けたいの。お許しください。お姉様とリーヴァイは愛し合っただけです」
「アンジェリカ、控えろと言っている。アイリーンは庇う価値のない女だ。我が家の恥」
カーライル公爵の声に悲愴感が混じっても、アンジェリカは止まらない。頬を伝う涙を拭いもせずに訴え続けた。
「お姉様は何年も前からお妃教育に疲れ果て、自殺未遂を繰り返されました。私はお姉様を救いたいのです」
アンジェリカに上目遣いで見つめられ、私は躊躇いがちに視線を合わせた。……本気で私を案じているように見える。けど、娼館でプロの薫陶を受けたから騙されない。小悪魔・デイジーのテクを思いだす。たぶん、信じたら一番あかんやつ。
アイリーン、この異母妹を信じていたの?
とりあえず、出てきて。
どこにいるの?
亡くなったの?
心魂から呼びかけても何もない。
「下がれ」
「皇太子殿下、どうかお姉様をお救いください。神経質なお姉様に皇太子妃は荷が重いと思います。お妃教育がなければ、リーヴァイに依存することもなかったと思います」
お姉様を助けてください、とアンジェリカは私にしがみついたまま泣きじゃくった。
「姉思いの妹だ」
「噂通り、天使のようにお優しい」
「アンジェリカ様のほうが皇后に相応しいのではないか?」
皇太子殿下の側近や近衛騎士たちがアンジェリカに感動している。けれど、皇太子殿下の態度は変わらない。
「下がらせろ。これ以上、この場に留まるのならば不敬罪に問う」
皇太子殿下の容赦ない命令には、さすがにカーライル公爵も引く。アンジェリカは泣きながら去っていった。
私は皇太子殿下の権力で留まる。
「アイリーン、そなたの家族だ」
皇太子殿下に抑揚のない声をかけられ、私は力なくポツリと答えた。
「何も覚えていません」
どんな呼んでもアイリーンは出てこない。
「何も思いだせぬか?」
「……はい」
カーライル公爵に恐怖を感じた。けど、これは私のお父さんに対するトラウマ? お父さんの説教は長かったし、鉄拳教育には心身を削られた。
「僕は生後三月でそなたと婚約した」
なんの唐突もなく、皇太子殿下は抑揚のない声で語りだした。
三か月の第一皇子と二歳のアイリーンは婚約式を挙げている。帝国にとっても西国にとっても皇室にとっても公爵家にとっても必要な政略結婚だ。
「……はい?」
「婚約式、僕は何も覚えていない」
乳母に抱かれていた第一皇子とよちよち歩きの公女の婚約式、この場で覚えているのは侍従長と近衛騎士の連隊長ぐらい?
「そりゃ、そうでしょう」
ふたつ年下?
年下に見えないけど年下なんだ、と私は改めてクール系のイケメンを見つめた。……や、視線が合わせられないから横目で眺める。
「そなたの母である西国の王女が白き泉に向かわれた後、ヘンリエッタが後妻に入り、カーライル公爵夫人として公爵家を取り仕切った」
どうも、皇太子殿下は記憶のないアイリーンこと私のため、過去を順に語ろうとしている。これもひとつのご配慮?
「はい」
「そなたが七歳の時、妃教育が始まった。僕の母がそなたを皇后宮に引き取り、教育した」
姑が嫁を預かり、教育するケースは珍しくない。アイリーンの実母は亡くなっているし、未来の皇后候補だから当然だ。
「はい」
「三か月後、挙式を控えていた」
カメリアの花園では皇太子ご成婚による恩赦を期待していた。家族に罪人がいる娼婦は多い。
「はい」
「いきなり、そなたが専属騎士とともに消えた」
「覚えていません」
「カーライル公爵が専属騎士を捕縛し、駆け落ちしたと聞いた。専属騎士はそなたを奪われ、探し回っていたという」
アイリーンが行方不明という噂は流れていない。どんな騒動が勃発するかわからないから、皇室とカーライル公爵家で隠匿したのだろう。
「何も覚えていません」
「そなたは一度も僕に意見を述べなかった」
皇宮に少し滞在しただけでも、従順な公女を想像できた。……なのに、専属騎士に恋をして駆け落ち? どうしたって腑に落ちない。……けど、恋とはそういうもの?
「はい」
「そなたについて何も知らなかった」
皇太子殿下の怜悧な美貌からは、なんの感情も読み取ることができない。アイリーンが愛されていたようには思えなかった。
「興味がなかったんですか?」
私がズバリ切りこむと、皇太子殿下の能面がフリーズ。
「巷の噂では皇太子殿下はアンジェリカにご執心」
アンジェリカは女の目から見ても可愛かった。カメリアの花園なら、ぶっちぎりのナンバーワン。
「それはない」
皇太子殿下は冷酷な顔つきで否定した。けれど、何か、もやもやする。知らず識らずのうちに勝手に舌が動いた。
「じゃ、アイリーンをどう思っていたんですか?」
私の質問に対し、皇太子殿下は部屋の彫刻と同化した。侍従長や側近たちは視線を逸らし、マイラは口元に手を当てる。
エルドレッド様が肩を震わせながら口を挟んだ。
「アイリーン嬢……アイリーン嬢とは思えないけれど、アイリーン嬢、その話はふたりきりの時にしてください……いやーっ、すげぇ」
確かに、デリケートなことだからふたりきりのほうがいい。特に皇太子殿下とアイリーンの関係は国家に関わる大問題。
「エルドレッド様、アンジェリカが言ったことは本当なの?」
私が確認するように聞くと、エルドレッド様は肩を竦めた。
「そういった噂が流れています」
「アイリーンと愛し合ったとかいう専属騎士はどこにいるの?」
「カーライル公爵に捕縛され、貴族街のカーライル公爵邸の地下牢にいると聞いています」
「会って確かめてみる」
私が腰を浮かせると、皇太子殿下に止められた。
「アイリーン、許さない」
「殿下、記憶を取り戻すためです」
「リーヴァイなる者と会うことは許さぬ」
「……では、どうして私が奴隷商人の檻の中にブチ込まれたのか? 教えてください」
アイリーンとリーヴァイが愛し合って駆け落ちした。リーヴァイは公爵家の地下牢、アイリーンは奴隷商人の檻の中。
いったい何がどうなってそうなった?
「今、捕縛した奴隷商人を尋問中だ」
イーモンたちは何か知っているはず。
はっ、と私は思いだし、声を張り上げた。
「……あ、皇室専属の大魔女」
「パメラのことか?」
「記憶喪失ではなく記憶の封印かもしれません。大魔女ならば何かわかるかもしれない」
「わかった」
「魔女のレオノーラも呼んでください」
イーモンはレオノーラ特製の魔道具を持っていた。単なる魔女と客かもしれないけれど、妙に引っかかる。
「わかった」
「カメリアの娼館に連絡をさせてください」
この世界での母は女将さんだ。本当の娘みたいに大事にしてくれていることは疑いようがない。心配しているだろう。
「許さぬ」
皇太子殿下に冷徹な目で却下され、私は拳を握りしめた。
「カメリアの女将さんや娼婦たちが、私を守ってくれたんです。私にしてみれば命の恩人です。心配していると思うから連絡だけでもさせてください」
私が荒い語気で捲し立てると、皇太子殿下の赤い瞳が細められる。機嫌を損ねたのかもしれない。
言い過ぎた?
「好きにするがいい」
身構えたけど、承諾してもらったから安堵の息を吐く。
「ありがとうございます」
「殿下、お時間でございます」
侍従長が躊躇いがち口を挟み、皇太子殿下は椅子から立ち上がった。本来の予定をキャンセルしているという。
見送り終えた後、力尽きてへたり込んだのは言うまでもない。
「……つ、疲れた……眠い……」
想像を絶する出来事の連続に命ギリギリ。
「アイリーン様、こちらに……あと少し、頑張ってください」
「床でもいいから眠りたい」
「ベッドルームはこちらです」
そのまま私はベッドルームに移動し、天蓋付きのベッド飛びこんだ。疲れすぎて、もう何も考えられない。
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