第70話 かわいいお母さんは好きですか?
車は思いの
距離で言えば猿飛家から学校までの1.5倍程度。
俺はその
その目的地には武家屋敷の様な純日本的で、とても大きな道場が建っていた。
見るからに歴史を感じさせる風格があり、多くの人間がここで血と汗と涙を流したであろう殺気のようなものは車の中に居ても肌で感じる事が出来た。
建物の門には木製の看板が掲げられている。
いつからそこにあるのかわからないほど年季の入ったその一枚板には『金沼家錬成道場』と彫り込んであった。
「……なぜ錬成道場に?」
呟く俺を、婦長はじっと見つめていた。
「最後にここへ来られたのはいつですか?」
「確か、小学六年の終わりだったか。中学に上がってからは一度も来ていないな」
「たまには遊びにいらして下されば良いのに」
「はは、皆の邪魔をするだけだよ。遠慮しておく」
錬成道場は【道場】の名前の通り、金沼家の使用人達が護衛としての能力を養うために武道の稽古や精神鍛練をするための場である。
婦長や犬飼も時間を作ってはここで稽古し、その技を磨いているのだ。
俺も小学生まではここで基礎的な体力をつけるために父にしごかれたものだが、中学に上がってからはここでの鍛練はしなくなり、そのかわりに厳冬のヒマラヤに連れていかれたり中南米で戦闘訓練をやらされたりするようになった。
高校三年になったあたりからは受験勉強に専念するためにそれらの鍛練は中断しているが、いつかまた再開するかと思うと正直うんざりなので、なんとか上手く逃げる口実を模索する日々なのであった。
とまあ、そんなことは置いといて。
「……しかし、なんで俺を
車を降りた俺は辺りを見回すが、夜の道場にこれといったサプライズは無い。
婦長は犬飼から道場の鍵を受け取り、大きな引き戸の鍵を開けた。
「これは密会ですから。ここなら他の誰にも話を聞かれる心配はありません」
「成程、密会か……」
確かに。夜にわざわざこんな所に来るのは余程修業熱心な使用人か、空き巣か、或いは道場マニアの変態のいずれかだろう。
「では総国様。中へお入り下さい」
がらがらと乱暴な音を立て、引き戸が開いた。
すると少しだけ冷えた空気がふわりと流れ出て来た。
昼間の熱気が冷まされたのだろうか。空気に混ざる微かな道場の匂いに、遠い日の記憶が浮かんでは消えていく。
婦長が電灯のスイッチを入れると、無機質な灯りが場内を照らした。
板張りの床が蛍光灯を鈍く反射して、目が痛かった。
「……変わらないな。昔のままだ」
思わず芝居がかった台詞が口をついた。
しん、とした道場は昼とは全く別の空間だ。違和感すら漂っていた。
この場所に関する俺の幼い記憶は辛い思い出が圧倒的に多いが、修業者達の間に流れるなんとも言えない一体感は好ましく感じたものだ。
「何か、覚えておいでですか?」
婦長の問いかけに俺は視線を宙に漂わせ、数年前の記憶を掘り起こす。
「……しんどい思い出ばかりだ。持久力をつける類いのトレーニングはイヤというほどやらされたな」
「私も覚えています。まだあなたの事を『坊っちゃま』なんてお呼びしていた頃でしたね」
「確かに坊っちゃま然とした風貌だったからな」
「それを思えば、逞しくお成りになられましたね」
鳥山婦長はにっこり微笑んだ。
この優しい笑顔も、昔のままだ。
ふと背後に気配を感じたので振り向くと、犬飼が道場の入口に立っていた。
彼は道場に入ろうとはしなかったのだ。
「……どうした、犬飼」
「私はこれにて失礼致します」
「そうなのか? 俺はてっきりお前も何か関係のある話かと思っていたが」
「いいえ。私は大まかな事情を存じ上げているだけです。それに、ここから先は婦長とあなた様のプライベートに関わる事。これ以上私がここにいる理由はありません。お話が終わりましたらご連絡下さい。お迎えに上がります。……それでは」
犬飼は俺、それから婦長に一礼してその場を去った。
「はは、大袈裟な奴だ。なぁ、婦長」
俺はまとわりつく不安を無視したくて、強がるように笑ってみせた。しかし婦長の表情は相変わらず何かを憂いている。
俺は引き攣った笑顔をゆっくりと真顔を戻した。
「……思った以上に重い話の様だな」
「はい。これは私にとって……いえ、愛子にとって辛いお話ですから」
言葉に出来ないものを無理矢理かたちにしようとしているのだろう。
婦長は言葉を探すようにして、ついに語り始めた。
「……総国様。あなたは愛子の戦っている時の顔を見たことがありますか?」
「え? あ、ああ。あるよ」
「どんな顔をしていましたか?」
「どんなって……まぁ、楽しそうと言うか……き、気持ち良さそうというか……」
「だらしない顔をしていたでしょう」
「っ!?」
心臓が跳ねるくらい焦った。
俺の脳裏にはまさにトロトロに蕩けた猿飛のトロ顔が浮かんでいたからだ。
「ん、まあ、だ、だらしないというかなんというか、ハイになってるというか……そんな顔だったな」
「それは私の家系が持っている持病のようなもの……つまり、遺伝なのです。私もかつてはそうでした」
「ほ、ほう。それは難儀だな……って、遺伝!? あんな事が遺伝するのか!?」
「家系の全員が全員ではありません。発症の時期も条件があり、ばらつきがあります。私の場合は成人する前でしたが、もっと早い例もあります」
「じゃあ、婦長も戦っている最中に……」
「近頃は昔ほどではありません。しかし、どんなに取り繕っても『はしたない顔』を隠しきれていないという自覚はあるのです……」
そう言って婦長は恥ずかしそうに頬を赤らめ、両手で顔を覆ってしまった。
やっべ、可愛い。
思わず鳥山婦長の色っぽい表情を想像してしまった俺は「
今ですら相当な美人だ。更に若さまで上乗せされたらと思うと、男なら誰しもが「
敢えてそれを受け入れる度量も有りっちゃあ有りだが、冷静に考えて友人のお母さんだし。俺も人としての最後の砦は死守したい。
とにかく、婦長が猿飛の秘密を知っている以上、彼女が言っている事が出鱈目ではない事は確かな様だ。
それにしても婦長と猿飛が
「さ、猿飛がなぜああなってしまうのかは百歩譲って分かったとして、あなたはどうして彼女と別々に暮らしているんだ? それも自分が母親だと伏せてまで。しかも猿飛家からそう離れていないウチの使用人として働いて……謎だらけだ。なぜなんだ?」
それこそが話の本題だろう。
婦長もそれは十分理解しているようで、
「順を追ってお話し致します」
そう言って一枚の写真を懐から取り出した。
「これは……」
「今から10年程前の写真です。右が私、左が」
「……父だ」
写真には今よりもやや幼い顔立ちをした鳥山婦長と、完全にサイボーグ化する前の父が並んで写っていた。
それだけならなんて事の無い写真だ。
だが、この写真はそうじゃない。
俺は息を飲んだ。
若かりし日の婦長と父。
その間に挟まれるように男の子と女の子、ふたりの子供が写っている。
俺はそのふたりの子供のうち、男の子に見覚えがあった。
当たり前だ。
俺だからだ。
「お、俺の横にいるこの子は、まさか……」
震える声で婦長に問う。
すると予想通りというか予想外というか、上手く表現出来ないが、俺にとって謎が更に深くなるような答えが返ってきた。
「……愛子です」
なんという事だ。
俺と猿飛は、遠い過去に既に出会っていたというのだ。
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