第66話 恋の呪文はぁ! キスキスキスッッッ!
少し考えさせて欲しい。
どこか悲しげにそう言い、鳥山婦長は去っていった。
いつだって穏やかに微笑んでいる婦長があれほど深みのある
なんだが見てはいけないものを見てしまった気分だった。
確かに婦長は金沼家最強との呼び声高いが、実は俺はその戦いをこの目で見た事は無かった。
もちろん稽古や組手などではその強さを見たことがあるし
本人がその淑やかな性格ゆえに無闇に戦いたがらない事もその要因な訳で……或いは、今回乱子が突き付けた挑戦も空振りに終わるやもしれない。
しかし、乱子にはどこか自信というか、確信の様なモノを俺は感じていた。
『自分の挑戦を、鳥山婦長は必ず受ける』
……そんな予言めいたモノを、乱子の自信満々の笑顔から感じずにはいられないのだ。
「ふふ、いいのを貰ってしまったなぁ」
乱子は打たれた胸を擦っているが、その顔は愉悦に満ちていた。
今しがたの戦いの軍配は傍目に見ても婦長に上がることだろうが、場の空気は乱子の勝利そのものだった。
試合に負けて勝負に勝つ。
そんな言い回しがあるが、この状況は
兎にも角にも、ぶっ壊された椅子の破片が散乱する修羅場跡に残された俺達は満足そうな笑みを浮かべる乱子以外、ただ呆然とするしかなかった。
なんと言うか、ものすごく取り残された感があった。
「……ま、とりあえず片付けっか」
有仁子は近くにいた下僕達に指示を出し、片付けを始めた。
「おいオメーら! 片付いたら今日は上がっていいぞ!」
有仁子が大工の親方のように言うと、下僕達も『押忍ッッッ!』と体育会系そのものの返答で応えた。
「じゃーなクソ愚弟。今日は疲れた……犬飼、先帰るわ」
そう言い残し、有仁子も去っていった。
余談だが、彼女の部屋は驚くほど片付いているし整理整頓も行き届いている。
だが、ただそれだけであって『キレイ好きだから』と言って有仁子の外道性がマイルドになったりはしない。よく言えば綺麗好きだが、こいつの場合は単なる潔癖症だ。
まあそんなことは捨て置いて。
「ついに最終戦か……」
俺は独りごちた。
思い返せばだるまクンと蛇乃目兵という誰もが認める猛者をその小さな身体で真っ向から退け、ここまで登り詰めた猿飛。その強さには正に脱帽である。
次の戦い、本当に鳥山婦長との試合が実現すれば史上最高の一戦になるに違いない。
愛子の事は当然心配だが、俺はその好カードをこの目で観たいと純粋に思っていた。
そして片付けも終わり、下僕達が撤収したレストランは俺達3人きりになってしまった。
さぁ、俺達もそろそろ帰ろうか……と切り出そうとしたその時だった。
「猿飛様」
突然、犬飼が乱子の前に立った。
「……何か?」
「先程ご使用になられたあの技について、お伺いしたいことがあるのですが」
いつになく真剣な犬飼に乱子は一寸微妙な間を置いたが、犬飼はそこに被せるように続けた。
「少々お時間をよろしいでしょうか」
しかし乱子はそれに難色を示した。
「犬飼さん、悪いがまたの機会にしてもらえないだろうか」
「いえ、すぐ済みます。ですから……」
「頼むよ犬飼さん。実はさっきから眠たくて眠たくて。久々によく動いたのでな、疲れてしまった」
そして乱子はよろよろとよろめき、その細い身体を犬飼に預ける様にして彼に寄りかかった。
「さ、猿飛様?」
「悪いな犬飼さん。おやすみ……」
程無く、すっと眠りに落ちるように脱力した乱子。
犬飼はそんな乱子を抱き抱えながら困惑するばかりだ。
「す、総国様。如何なさいましょう」
これは珍しい。あの犬飼があわあわしている。
俺は何となく愉快というか、痛快な心持ちだった。
もちろん犬飼が困っているからではなく、乱子が一枚上手だった事が面白かったのだ。
「はは、逃げられたな犬飼」
「え? 逃げられた、ですか?」
「あれであいつも女の子だからな。言いたくないこともあるだろう」
犬飼よりも確実に女心の読めぬ俺が言えるセリフではない。言った傍から顔から火が出る思いだった。
「まぁとにかくそのへんにでも寝かせておこう。そのうち起きるだろう」
俺は近くにあったソファを指差し、犬飼はそこに彼女を横たえた。
その安らかな寝顔を眺め、俺は思わずため息をついてしまった。
「……なんだか、思っていたより複雑だな」
「左様でございますね」
俺の言葉に犬飼も同感するように頷いた。きっと、犬飼は俺の言葉の真意を汲んでくれている事だろう。
「総国様、我々はどうするのが正解なのでしょうか」
犬飼は眠る猿飛を見詰めたまま俺に問うた。
「正解……?」
「猿飛様の真に望む未来とはどのようなものか。そして我々はその為に何が出来るか……ということです」
犬飼の表情は憂いを帯びていた。
まるで先程の鳥山婦長を思わせる、ある種の深刻さがそこにあった。
「猿飛様は恋子様も乱子様も一個人としてお認めになっているご様子……言い換えれば、お
その憂いからは犬飼の優しい心根が窺える。
確かにそうかもしれないが、俺の考えは少し違っていた。
「でも『猿飛愛子』はひとりだろう。現実問題、ひとりの中に三人居るのは普通じゃない。仮に今は良くても、いつかどこかに無理が来るんじゃないか?」
「もちろんその懸念はあります。ですが……」
犬飼が言葉を止めた。
ソファに横たわっていた猿飛が、むっくりと起き上がっていたのだ。
そして、彼女は俺と犬飼をじっと見つめて言った。
「……ありがと、犬飼さん。でも、いいんだよ。総国くんの言ってることが多分正解に近いと思う」
その口調と雰囲気は恋子のそれだった。
恋子は立ち上がり、犬飼の前までゆっくりと近づいて微笑んだ。
「優しいね、犬飼さん。モテるでしょ」
屈託なく笑う恋子。犬飼は少しはにかむ様にして答えた。
「いえ、思うようには。どうやら、優しいだけではいけないようです」
「またまたぁ」
恋子は肘で犬飼の脇腹をこつこつと小突いて楽しそうに笑うと、俺に向かって満面の笑みを投げてきた。
「さ、帰ろっか総国くん!」
「え? あ、ああ」
妙に元気な恋子に引っ張られるようにして出入口へと向かう。
いきなり何がなんだかわからないが、俺は逆らうことも許されずレストラン入口兼強敵之会出入り口直通のエレベーターへと乗り込んだ。
ちなみにこのエレベーターも有仁子ランドに飲み込まれていなかったようだ。
「じゃあね、犬飼さん。オヤスミっ」
恋子が手を振ると、犬飼はおやすみなさいませ、と深く頭を垂れた。
そして扉が締まり、エレベーターは動き始めた。
「……恋子。おまえ、大丈夫なのか?」
俺は彼女の打たれた胸を指差しながら問うた。カウンターで、しかもかなり強く打たれていたが……。
「うん、大丈夫。乱子が上手く受けてくれたから」
俺の心配をよそに、にっこりと笑う恋子。
だがそれだけで二の句はなく、その後は妙な沈黙が俺たちを包んだ。
「……」
なんとも言えない空気に息が詰まった。
恋子がどことなく無理をしているようにも見受けられたのだ。やはり……。
「総国くん」
突然恋子が声を張った。
沈黙を打ち破った声に、俺は思わず息を飲んだ。
「な、なんだ?」
「……」
しかし、恋子は再び黙り込んでしまった。
自分から声をかけておいて何も言わないとは何事かと思ったが……、
「ありがとね」
と、彼女は唐突に感謝の言葉を発した。
「???」
一体何のことかと沈思するも、
「……あたしたちを助けるために、蛇乃目さんと戦ってくれて」
そう言われてようやく理解できた。
しかし、俺にとってあれは自分のための闘いでもあったのだ。
「勇んで飛び出したはいいが、結果的に乱子に助けられてしまった。むしろ面目ないと思ってるよ」
そう言って俺が頭を掻くと、恋子は肩を
「ばかだなぁ、そんなん関係ないんだよ」
彼女は俺の眼前に詰め寄る様にして、呆れたような顔をずいずいっと寄せてきた。
……ち、近い!
「こういう時はもっと気の利いたこと言わなきゃ。総国くん、モテないでしょ」
「よ、余計なお世話だ」
「でも、そういうところが好きなんだよね」
「は?」
唐突に、俺の両頬を細くて平たくてひんやりしたものが包み込んだ。
恋子の両手だった。
「な、な、なんだよ……???」
ただでさえ近かった恋子の顔がさらに近い。
そして、頬を両手で
「……」
無言の恋子。
上昇を続けるエレベーターの機械音が時間の感覚を麻痺させるようだった。
だから恋子の更なる接近にも気がつかなかった。
既に彼女の顔は吐息がかかる程に迫っていた。
これは、まさか――!
「……愛子には事後報告でいいよね」
そう囁くと、恋子はその瞳を静かに閉じた。
これはまさか、
まさかというか……確定?!
父の教えのひとつに【彼女という字は遥か彼方の女と書く。男にとって女とは向こう岸の存在である】というものがある。
それを初めて聞いた時は中々に含蓄のある言葉だと感銘を受けたものの、後にエヴァンゲリオンに登場する加持リョウジというモテ男の発言を九割以上パクってしかもほんの少し自分のアレンジを加えてあたかも元から自分の言葉であったかの様に偽装した姑息なものである事を知り、
だがどうだ。
この期に及んでみれば確かに父の(というか加持さんの)言う通りだ。
なんでこうなったのか、なんで今なのか、俺にはさっぱりわからない。
まさに女とは、男にとって向こう岸の存在であったのだ。
俺はパニック状態に陥った脳みそでそんな事を考えながら、じわじわと接近する恋子の小さな顔と唇に抵抗できないでいた。
ああ、ついに俺にもこの
【待ってたぜェ!! この
これも父の……いや、もういい。
とにかく、状況は時間いっぱいの待ったなしである。
俺も覚悟を決め、目を閉じた……その時!!
『到着いたしました』
間の抜けた合成音声とともにエレベーターのドアが開いた。
地上に到着してしまったのだ。
「……うーん、タイミング悪かったねぇ」
恋子はバツが悪そうに笑うと、俺の両頬から手を離した。
「もう、総国くんがモタモタしてるからだよっ」
照れくさそうに笑いながら俺を残してエレベーターを降りる恋子。
呆然としてエレベーターから降りることすらままならない俺に、彼女はぐっと親指を立てるのだった。
「とにかく、今度の試合も勝つよ! 総国くん!」
元気いっぱい胸を張る恋子。俺は力無く「あ、ああ」と間抜けな声を出すことしかできなかった。
それでも恋子は花の咲いた様な笑顔を俺に向けたまま、
「……勝ったらさっきの続きしようね。ちゅっ!」
と、キスを投げた。
ふわふわと宙を舞う彼女の投げたキス。
それが俺に届くと同時にエレベーターの扉が閉まり、
『下へまいります』 と合成音声。
あっ、と声を上げた時にはもう遅かった。
「な、なんなんだあいつは……」
俺はひとり残された状態で、さらに悶々としながら再び地下へと逆戻りすることになったのだった。
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