第56話 姫様お注射の時間です

 恋子の様子は明らかに異常だった。

「なに……これ……!?」


 立ち上がるのもやっとといった状態で、足は小刻みに震えている。

「うぅ……なに……したのよ……っ」

 いや、足だけではなく、手も震えている。


 まさか、先程の注射器で妙な薬物でも投与されてしまったのか!?


 この異常にいち早く反応したのは意外にも有仁子だった。

「おいゴルァ蛇乃目ェェェッ! テメエ何しやがったあァァ!?」


 人間の声量とは思えない大声で怒鳴り付ける有仁子。

 余りにもやかましかったのか、スピーカー越しの蛇乃目も眉を顰めていた。


 彼は足下に転がっていたマイクを拾い上げると、こほんとわざとらしい咳払いをひとつしてから言った。

「御心配無く。軽い麻酔薬です。一過性の麻痺と意識障害があるだけで、後遺症も依存性もありません。敵を大人しくさせる程度の薬物ですよ」

「馬ッ鹿野郎そういう問題じゃねー!! そりゃいくらなんでもやりすぎだッつってんだよ!」

「……ははは」


 蛇乃目は穏やかに軽く笑うと、やっと立ち上がった恋子を思いきり蹴り飛ばした。


 ――ッ!!


 まるで人形のように吹っ飛んだ恋子。

 押し出すように蹴り込まれたのでダメージは少ないだろうが、薬物で無抵抗にさせられた少女が蹴り飛ばされるというのは衝撃的で、観客席からは短い悲鳴があちこちで漏れていた。


 居間から廊下の壁まで吹っ飛んだ恋子はそれでも立ち上がろうとするが、薬のせいでまともに立ち上がることが出来ない。

「あ、あうぅ……」

 か細く呻く恋子。

 意識も朦朧としている様子だ。


「おい蛇乃目ェッ!! そこまでだ!! もうやめろォ!!!」

 有仁子は必死で呼び掛けるが、蛇乃目は首をかしげた。

「おや、有仁子お嬢様? 本作戦の指揮は現在私にあるはずです。あなたの指図を受ける筋合いは無いのですが?」

「あァ? お前の雇い主はあたしだ! テメーはあたしに雇われて、場所まで借りて戦ってんだよ! ンな事も忘れたのかこのこけし野郎!」

「……喚いていろ、雌猿」

 吐き捨てると、蛇乃目はマイクを乱暴に放り投げてしまった。


 ……交信終了。

 なんと淡白な幕切れだろうか。俺は愕然とした。


「有仁子ォ……」

『交渉』というカードを自ら破棄したに等しい有仁子に俺はムカッ腹が立ってしかたがなかった。

「お前なぁ有仁子! あんな言い方あるか馬鹿! それにこけし野郎とか言うなよ! 刺激してどうするんだ阿呆!!」

「うるせー愚弟! これがあたしのやり方だ! お前に口出しされる筋合いなんてねェーんだよ!」


 醜く掴み合う俺達を制したのは、いつでも冷静な犬飼だった。

「おふたりとも落ち着いてください! 今は猿飛様を!」

 犬飼に促されモニターを見ると、追い詰められていく恋子が痛々しく映し出されていた。


 恋子は殴る蹴るの暴行を受けているが、動けない体をしっかり丸めてガードを固めている。

 蛇乃目は一方的な私刑リンチを猫が鼠をいたぶるようにたのしんでいた。

 凄惨な光景だった。


「……くッ!!」

 俺が有仁子の胸ぐらから手を離すと、有仁子も素直に俺から手を離して頭を抱えた。

「くそったれが! やっぱりあのクソ野郎はクソ野郎だクソが!」


 下品極まる有仁子の嘆きは当然無視だ。

 今は悪態をついている場合ではない。何とか猿飛救出に向かわなければ……!


 その時突然、犬飼が一際真剣な表情で有仁子に向き合った。


「な、なんだよ犬飼……」

 予期せぬ出来事にたじろぐ有仁子。しかし犬飼はその真剣な表情を崩さなかった。

「有仁子お嬢様。今回の事案は試合や勝負といった範疇を遥かに逸脱しています。最早そういったものに固執している場合ではないかと」

「わかってるよ! あたしだってそこまで馬鹿じゃねぇ!! 原因はあのクソ野郎率いるゴールドクソメンバーズを引っ張ってきたあたしの不手際だ。無効試合にでも不戦勝にでも好きにしやがれ! でもなあ、今は愛子ちゃんだ! 早く愛子ちゃんを助けねーと、あの変態ヘビ野郎にマジで殺されちまう!」


 有仁子の言う通り、最優先なのは猿飛を救出する事だ。だが……。


 その時、犬飼のスマートフォンが短く鳴った。

 着信はメールの様で、彼はスマートフォンのディスプレイをちらりと見やり、言いにくそうな顔で口を開いた。

「……只今入りました情報によると、猿飛様のご自宅及び総国公園全域は蛇乃目隊長の配下により掌握されてしまった模様です」

「はぁ!? あたしの下僕共は何やってんだよ!! クソの役にも立たねーなクソッ!!」

「救出に向かおうにも、中に入る事が出来なくては……」


 犬飼は状況を冷静に見極めようとしているが、有仁子はもうホントに駄目だ。

「畜生! 一体どーしろってんだよォ! 中に入れねーならどーにもならねーだろーが!!」

 椅子を蹴っ飛ばしたり机を叩いたりと不様この上ない。


 だが、そんな有仁子だからこそ野生の勘と言うか外道の運といったようなものが働くのだろうか。

 ふと、俺に目を向けた。

「……つーか総国、お前どっから来たんだよ」


 はじめは何の事かわらかなかったが、自分の中で段々と何かが像を結び始めた。


「何? どこからとはどういう意味だ?」

「ゴールドメンバーズが突入した後だよ。どうやって愛子ちゃんから出てきたんだよ!?」

「……はっ!」


 なんたる不覚! !

 勝利の女神の前髪を優しく纏めてトリートメントするほどにチャンスに対して敏感な俺としたことが、大事な事を忘れていた!


「そうだ! あいつの家に地下道が掘ってあったんだ!」

「地下道? なんだそりゃ?」

「地下道というか、キッチンの床下収納にトンネルが掘ってあったんだ! 俺はそのトンネルを通って公園の外にあるマンホールから出てきたんだ……あそこからならあいつの家に入れる!!」


 俺は無意識に、というか反射的にドアの方へ走り出していたが、犬飼がそれを制した。

「お待ちください総国様! 如何なさるおつもりですか?!」

「……っ!」


 なにも考えてなかったと言うか、考えることを後回しにしていた。

 だからこそ、俺は宣言するように声を張った。

「俺が行く! 俺が猿飛を救出に行く!!」


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