第48話 猿飛【恋子】 VS ゴールドメンバーズ副隊長・熊谷
猿飛家の庭先で対峙した
ふたりの間で張り詰めていた緊張の糸が突然切れた。
恋子が飛び出したのだ。
彼女は相変わらずの素早さで熊谷に襲い掛かる……が、今回は何かが違う。やけに前傾姿勢をとる猿飛に、俺は違和感を感じていた。
猿飛には悪い癖がある。それは間合いを詰める際に迷い無く突っ込むという非常に分かりやすいものだ。
余程昂ぶりを抑えきれないのだろうか。
特に捻りも工夫も無く、ひたすら全力で突撃するのだ。
あのだるまクンにすら敢行した無鉄砲でワンパターンなやり方がそれでも効果を表すのは
もちろん、それこそが彼女の持ち味でもある。そして今回も例に漏れずの突進なのだが、あの軌道は……。
俺の感じた違和感を蛇乃目は好奇に感じたようだ。
「熊谷を相手に組む気か? ますます面白いぃ!」
外国人のようなオーバーリアクションを交え、蛇乃目は可笑しそうに笑った。
そう、長い膠着の末に先手を打ったのは恋子だったが、彼女が選んだ初弾はパンチでもキックでもなく、タックルだった。
いつものパターンからすれば突進の勢いで殴りかかるか得意のハイキックで勝負を決めに行くところだし、そうでなくてもジャブなりなんなりで先ずは牽制をするのは定石だろう。特に相手の素性が不明となれば尚の事……いきなり組みに行くのは性急でなかろうか。
それに、蛇之目が示唆したように熊谷相手に組み技や寝技は悪手でしかないのだ。
恋子は小柄な体格を生かした低空タックルで熊谷の脚を狙う。
あのスピードと進入角度であれば並の相手なら簡単に押し倒して
彼女のスピードが想定以上だったのか、熊谷の反応がやや遅れたがタックルそのものには冷静に対処し、簡単にいなしてしまった。
まるで柳のようなしなやかな動きでタックルを捌く熊谷。しかし、それで終わりではなかった。
「……お返しだ」
熊谷はそう呟くと、そのまま恋子の足を捕りに行ったのだ!
「げっ!?」
彼女は即座に抵抗するが、熊谷はその抵抗をするするとくぐり抜けていとも簡単にその右足を掴んでしまった。
「うそ!? やっば!!」
熊谷の動きに無駄は無く、恋子のそれに比べても段違いの鮮やかさは目に見える。
『技術』の差は明らかだった。
「……まずいっ!」
俺は思わず声に出していた。
熊谷は恋子の足関節に狙いを定めたか、鷲掴みにした右足を思い切り引き込み、脇に挟んでクラッチした……アキレス腱固めだ!
ここに至るまでのスピードは驚異的と言えた。恋子の技量も相当だが、熊谷はその上を行っている。
彼女は初めて経験するであろう『明確な力量の差』に表情を引きつらせていた。
きっと勝算あっての寝技・関節技狙いだったのだろうが、現実は甘くなかったのだ。
彼女は肌で感じたのだろう。
熊谷に対して関節技を使用する事の『相性の悪さ』を。
……何故、熊谷相手に関節技が悪手なのか。
それは、熊谷が関節技に定評があるソビエト連邦発祥の軍隊格闘技『コマンドサンボ』の達人だからだ。
サンボとは柔道や柔術、ボクシングなどをベースに帝政ロシアで開発された総合的な格闘技だが、時代の移り変わりの中、ソ連にて
打撃に限らず寝技も豊富で、白兵戦を前提としたその戦闘技術は確実に相手を仕留める恐ろしさがある。そして、特筆すべきは激しくも鮮やかな関節技の数々だ。
軍隊格闘術という響きからも想像に難くないように、まさに極めるも壊すも思いのまま……。
現在はスポーツ格闘技として発展しているサンボだが、熊谷はより強力な『軍隊格闘術としてのサンボ』を求め、元ソ連軍のサンボの達人に師事。その後10年間、本場ロシアで修行を積んだのだ。
彼の会得した本物のサンボは実際の戦場でさらに磨き上げられ、今やあの蛇乃目ですら
その切れ味は猿飛の様な出所不明のそれとは訳が違うのだ。
俺は汗がどんどん冷えて行くのをつぶさに感じていた。
「ククク、アキレス腱固めとは、相変わらず渋いチョイスだなぁ熊谷」
蛇乃目は葉巻を
「 逃げろぉ愛子ちゃん! 逃げろォォッ!」
有仁子が叫んだ。
蛇乃目とは正反対に騒がしく逃げろ逃げろと連呼する様は競馬中継に熱くなっている酔っ払いのようで恥ずかしかったが、俺も心の中で同じことを叫んでいた。
だが、ここから逃げ切るのは容易ではない。
熊谷は本当に冷静な男だ。
相手が自分の娘といっても差し支えのない年齢の少女であっても、敵とみなせば容赦はしない。冷静を通り越した冷徹さを以て確実に仕留めてしまう。
彼には『女子高生と戦っている』という認識はないだろう。
きっと自分の命を狙う敵兵と戦っている心持ちに違いない。
やらなければやられる。
殺られる前に殺る。
だから彼はそのまま躊躇なく恋子のアキレス腱を――――!
「わわ~~ッ!
恋子が叫んだ。
同時に身体全体を回転させ、その勢いで熊谷の脇から右足を引っこ抜いてしまった。
それを見て蛇乃目は『ほう』と感嘆の声をもらした。
「あの状態からよく抜けたものだ。熊谷め、手心を加える気か?」
俺も同感だった。熊谷のクラッチはそう簡単に抜けられるものでもない。
本当に手心なのかとも思ったが、恋子が危機一髪で引き抜いた右足を摩っているのを見て納得した。
彼女の右足に靴がなかったのだ。
代わりに、熊谷の左脇には猿飛の履き古したハイカットのスニーカーが挟まれていた。
彼女の右足は熊谷にクラッチされていたが、回転の勢いがハイカットの靴の中で靴下の滑りを助けに十分伝わり、ネジが緩むようにして脱出を可能にしたのだろう。
……熊谷のようないかつい男が脇の下にスニーカーを挟んでいるのは実にシュールな絵面だった。
それを見た蛇乃目が思わず吹き出す。
「……プッ! クククククッ! キュヒヒヒヒィッ!」
南米の熱帯雨林に生息する鳥のような奇妙かつ不気味な声で笑う蛇乃目。本当に人を不愉快にさせる男である。
「面白いねぇあの娘! 熊谷相手にここまでやるなんて! ますます欲しいッ!」
蛇乃目のテンションが上がっていくのが肌で感じられる。
そんな蛇乃目を見ていると逆にテンションが下がってしまう。
なんでこいつはこんなにも不快なのか……有仁子がまだマシに思えるから不思議なものだ。
兎にも角にも直近の危機は脱した。
靴が上手く脱げてくれたお陰でアキレス腱固めを回避するとはなんという強運。
そんな形で好機を逃した熊谷は、それでも特に気にするでもなくむしろ可笑しそうに笑みを浮かべる余裕すら見せていた。
「フフ、忘れ物だぞ」
そう言って脇に挟んでいた靴を恋子の足元に放り投げる熊谷。
一方、恋子はニヤリと笑って靴を拾い上げて砂を払い、ゆっくりと履いた。
「おじさん強いね。驚いちゃった」
「
「給料いくら?」
「歩合だよ」
軽口を叩き会いながらも両者油断も隙もない。
技術的な差はあれど、それ補って余りある恋子のポテンシャル。なかなかの名勝負だと会場は沸いているようだが、俺の目にはそう映らなかった。
確かにあの熊谷相手に関節技の攻防をやってのけるあたりはさすがだが、俺の目は誤魔化せない。いや、俺でなくてもある程度彼女の事を知っていれば感付くはずだ。
「……総国様。猿飛様のご様子ですが」
犬飼が耳打ちする。彼が何を言わんとするか、俺はわかっていた。
「ああ。シラフだな……」
これほどの好敵手を相手に
熊谷のような強者相手ならだるまクンの時と同じかそれ以上のヘブン状態に陥っていてもおかしくないのだが、彼女はニュートラルを保っている。
先ずそれが一点。気になる点はもうひとつあった。
「おい総国。愛子ちゃん、調子でも悪いのか?」
と、有仁子が眉間に皺を寄せて言う。……こいつでも気がつくのか。
「なんでそう思う?」
「さっきから一発も殴らねぇからよ。拳でも痛めてんのか?」
有仁子の疑問はもうひとつの不可解そのものだった。恋子はこの戦闘が始まってからと言うもの打撃技を使っていないのだ。
猿飛には相手が空手家だろうが相撲取りだろうが、体格差をものともしない打ち合いをやってのける実力がある。にもかかわらず、それをしないのだ。
(やはり『愛子』と『恋子』では
恋子は先程『愛子は寝技が苦手』といった趣旨の事を言っていた。だから自分が出てきたと……。
であれば、『恋子は打撃が苦手』とも受け取れる。
もしそうであれば、この状況は確実に『不利』だ。
コマンドサンボは関節技だけではなく、打撃技も豊富である。俺の推察が当たっていれば、恋子にとって熊谷は荷が重い相手に違い無い。
その時、蛇乃目が手を顎のあたりに添えて何か考えるような仕草をとり、言った。
「……彼女は本当に『猿飛愛子』か?」
どきりとした。蛇乃目は恐らく確信に近いものを持っている。
「或いは、『猿飛愛子の中のもうひとりの猿飛愛子』なのか?」
蛇乃目がニヤリと笑んでいる。その視線は俺を捉えて離さない。
こいつは気がついているというのか、猿飛の秘密に……!?
「……坊っちゃん、詳しくお聞かせ願えないだろうか。彼女の事をね」
突然視界を遮った黒い影。
蛇乃目は眼前に立ちはだかるように、俺を見下ろしていた。
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