チクッとするだけ

芝草

チクッとするだけ

 唐突に嫌な予感がして、ボクは足を止めた。


「どうしたの、タロちゃん? 急に止まっちゃって」

 隣のご主人が、ボクに向かって困ったように笑いかける。


 ボクは黙ったまま、目の前の、やけに白い建物を睨みつけた。

 この建物、何だっけ? 思い出せ。ご主人は何て言ってたっけ……?


「ほら、行くよー」

 のん気な口調で、ご主人が白い建物に向かって歩き出す。そのまま、見上げるくらい巨大なガラス扉を押し開けた。


 その瞬間。

 ボクは全身の毛がぶわっと逆立つのを感じた。


 開いたガラス扉の隙間から聞こえるのは、悲痛な色を帯びた同族の声。

 そして、ツンと鼻をつくのは、得体の知れない薬品のニオイ。


 まずい。ここはまずい。

 ボクの四本の足が全部、一斉にプルプル震えだした。


 巨大なガラス扉の隙間から漏れてくるニオイと声が、ボクの切れ切れの記憶を呼び起こす。


 そうだ。いつだったか忘れたけれど、ボクはこの建物に入ったことがある。


 だから知っているのだ。

 目の前の白い建物の中で、何が待っているのかを。


 まず思い出したのは、奇妙な人間たちだ。

 ヤツらは顔の大部分を緑の布で覆い、目だけ出してボクを観察していた。しかも、あの白い建物の中には、そんなヤツらが何人もいるのだ。

 ボクには今なお、ヤツらの正体が分からない。


 お次は、半ば強引に乗せられた高い台座。ボクの身長の三倍はありそうな高さだった。

 思い出しただけでも、四本全部の足がすくんでしまいそうだ。

 あそこから落ちたらどうなるかなんて、考えたくも無い。


 最後は、壁のように並んだケージ。中には、薬品のニオイを纏って体を丸める同族たち。どのケージからも、寂しげで、不安そうな瞳がこちらを覗いていた。

 あぁ、彼らはどうなったのだろう? 


 思わずぶるりと身震いした。

 そんなボクに。


「タロちゃん、おいでー」

 扉の取っ手を握ったご主人が、能天気な笑顔で呼びかけた。


 しかし、ボクはご主人に背を向ける。

 そして、文字通り、しっぽをまいて逃げ出した。


 でも、五歩も走らないうちに、がくんっとボクの体は前に進まなくなる。


 ボクは前足で空を掻きながら、必死にもがいた。

 諦めてなるものか。少しでも前へ。あの白い建物から離れるんだ。

 内に入ったら今度は何をされるか、ボクにはさっぱり分からないのだもの。


 その時だ。


「タロ! 待て!」

 ピシリとご主人の声が空気を打つ。


 反射的に、ボクの体が止まった。


 恐る恐る振り返ると、困った顔でリードを引っ張るご主人の姿が。

 ぴいんと張られたそのリードは、ボクの首輪に繋がっている。


「大丈夫だって。タロちゃん。すぐ終わるよ。ちょっとチクッとするだけだから」

 そう言いながら、ご主人はボクを抱き上げた。


 なけなしの抵抗で「クゥン」と小さな悲鳴を上げでみるけど、無駄だった。

 ご主人の足は、まっすぐ白い建物へ向かっていく。


 この声を出すと、ご主人はボクに甘くなるんだけどな。

 昨日なんか、おやつのジャーキーを一つおまけしてくれたのに。


 万事休す。 

 こうしてボクはご主人に運ばれて、白い建物の中に入ってしまった。

 あぁ。ボクはこれからどうなってしまうの? ちょっとチクッとするだけって何さ?

 

 目の間で閉まる巨大なガラス扉を見た時。

 ボクはようやく、この白い建物の名前を思い出した。


 動物病院っていうんだっけ、たしか。


 なお、ボクはこの後普通に生き残って普通に帰ってきた。

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