神楽月に降る雨

黒本聖南

第1話 むかしばなし

 壁はひび割れ、蔦が幾重にも這う古びた洋館の一室、色褪せた赤いカーテンは全て開かれており、柔らかな陽光が差し込み程好い温かさに包まれたその場所では、木材の軋む音が小さく響いていた。

 音の発生源は、部屋の中央に置かれた安楽椅子。その部屋には黒檀の安楽椅子以外に余計な物は置かれておらず、一人の少女がそこに腰掛けている。

 背中を隠すほどの長さの黒髪を二つに縛り、真っ黒なセーラー服を身に纏う少女。タイツも靴もスカーフも──膝の上に置かれたすら、全て黒かった。


「お腹空いた」

「そうだな」


 少女の他には誰もいないはずだが、何の感情も込められずに溢れた言葉に、応じる声があった。少女の喉からは到底出ないはずの、若い男の声が、少女のいる所から聞こえてくる。

 特にそう、膝の辺りから。


「涙をちょうだい」

「血をよこせ」


 そんな会話をした後で、少女がそっと左腕を持ち上げると──膝の上に置かれていた黒いが、勢いよく噛みついた。一拍おいて何かを啜る音が響きだす。

 少女は特に声を上げることもなく右腕も動かし、膝の上に散らばるものを──、拾い集めて口に運んだ。まるで木の実でも口に含んでいるかのようだが、室内に植物はない。

 徐々に数を増やしていくそれは、赤く、硬そうな、涙の形をしていた。それを食べるごとに、少女のアーモンド型の黒い瞳が、茜色に染まり始める。


「アスター、そろそろ帰るかな」

「……多分」


 啜る音に咀嚼音、安楽椅子の軋みに合わせて奏でられる音楽は、五分足らずで終わった。

 黒いが離れて左腕が自由になると、少女は両手で膝の上に置いていたを、顔の前まで持ち上げ、それに目を合わせる。


「美味しかった? シャムロック」

「いつも通り」

「そう。……暇」

「暇だな」


 語り掛ければは返事をした。ボールのような丸みを帯びているが、ボールそのものでないのは一目で分かる。どこをどう見た所で──若い男の頭部に他ならない。

 血色も良く、静かに呼吸をするその様は、首だけの状態で今なお生きていることを示しており、生首と呼ぶのが正しいのかもしれない。口の周囲に付着した血液、開口した際に見える牙が、先ほどまで少女の腕に噛みついていたことを証明している。

 耳の下辺りで切り揃えられた黒い髪は、顔の大部分、特に左側を覆い隠してしまっているが、露わになった部位はそれなりに整っていた。少女の膝にいくつか散らばる赤い物体と同じく、血の色を想起させる瞳は眠たげで、時折瞼の開閉が遅い。


「寝るなんてずるい」

「だが眠い」


 少女はじっと深紅の瞳を見つめた後で、小ぶりな唇を動かした。


「カエデに何か、話を聞かせて。昔話でもいい」


 生首は不快げに顔を歪める。


「お前に聞かせる話はない」

「何かあるよ」

「……」


 しばらくは、少女から目を逸らして拒絶していた生首だが、向けられ続ける視線に耐えきれなくなり、舌打ちを一つして、口を開いた。


「──その昔、バッキンガムという吸血鬼がいて、きまぐれか請われたか知らんが、四体の子供を四人の女にそれぞれ生ませた」

「五体と五人だよ」

「死産と産褥死だったから含まなかった。まぁ、関係ないわけじゃない。五体目と五人目の死にえらく参ったバッキンガムは、残りの子供を放って旅に出る。残された子供達は母の元で成長すると、それぞれの道を進んだが……一体だけ、吸血鬼シェフィールドだけは、外を怖がりどこにも行けなかった」


 生首の話に頷きながら、合間合間に言葉を挟む少女。声にも表情にも、色はない。


「日々を無為に過ごしていたシェフィールドだが、ある時、東洋から外遊に来ていた人間と親しくなり、そいつの国に共に行くことになった」

「恋だね」

「恋なら監禁するか? シェフィールドは人間の家に連れられてすぐ地下に繋がれて、同胞である吸血鬼グレンヴィルが助けに行くまで、シェフィールドは涙を搾取され続けた。──吸血鬼の涙には魔力が込められていて、それを口に含んだ人間は魔法が使えると、シェフィールドとその人間が暴いてしまったから」

「なら、愛だね」

「そういう話好きだったか?」

「別に。続けて」

「……。で、助けて終わりというわけではなく、囚われの事実を知るのと救出に時間が掛かったせいで、シェフィールドは人間との間に何体か子供を作らされて、既に人間の身内にそれぞれ貰われていき、身内共は密やかに名乗り上げる」


 ──我らこそが魔法使いなり。


「つまり、お前の祖先だ」

「だね」

「グレンヴィルは全てのシェフィールドを助けようとしたが、全てに断られた。囚われの生活が居心地良いとかでな。それでグレンヴィルは諦める」

「嘘、諦めなかった」

「……半分だ。グレンヴィルの半分は諦め、半分は諦めなかった。数の増えたグレンヴィルの吸血鬼も、一枚岩じゃなかった」

「シャムロックは、諦めなかったグレンヴィルの子孫だもんね」

「……」


 生首は口を一文字に結び、少女は特に目を輝かせることもなく、続きを無言でせがむ。

 続かない、続かない、続かない。

 少女は溜め息をつき、代わりに続きを口にした。


「グレンヴィルは人狼とずっと闘争してて、数を補充する為に、他の同胞が必要だった。うちに来たのもそうだもんね? カエデの家族がお世話してたアヴィオール様が必要だったからだもんね」


 だけど全部、遅かった。


「アヴィオール様がいなくなっただけじゃなく、カエデの家はカエデだけになって、シャムロックは」

「──胴体を失いましたね」


 ふいに、少女とも生首とも違う声が、一人と一体の会話に混ざる。生首よりも少し高い、けれど男の声。

 少女が声のした方へ振り返ることはなかったが、生首の位置からは相手の顔が見えていた。


「遅いぞ、アスター」

「すみません、シャムロック様。カエデの所望の品がある場所がけっこう遠かったもので。……ハンバーグなら近所のファミレスのものが一番美味だというのに」

「……」


 黙り込む少女の双眸が、淡く光を帯び、膝の上に散らばる赤い物体が、低く浮き出した。


「カ」

「しっ」


 小さな声で短いやり取り。赤い物体は静かに、少女のスカートのポケットへと吸い込まれていき──。


「君」


 全て納まったその後で、後ろから左腕を掴まれた。少女はけして視線を向けない。


「私に遠出させといて、自分は呑気におやつタイムですか。……シャムロック様の涙を全て渡しなさい」

「何を言っているんだアスター。オレの涙を回収した所で、お前に使えないだろう? オレと同じ、グレンヴィルの吸血鬼なのだから」

「それでも──すぐ取り出せる所にあったらパクパク食べるじゃないですかこの娘! 育ち盛りにやたらめったら食べてたら、デブ一直線ですよ!」


 せっかく、黙っていれば可愛いお嬢さんなのに、と口にしてから少女の左腕から手を離し、声の主は──吸血鬼は、少女の目の前に回りこむ。

 腰まである長い黒髪を雑に縛り、シャツもスキニーパンツも全て黒。三者共に黒尽くめ。

 吸血鬼は眉根を寄せつつ、少女の顔を覗き込む。


「お腹に空きはありますか? ご所望のハンバーグ、まだ温かいですよ?」

「食べる」


 少女は膝の上の生首を大事に抱え、吸血鬼と共に、その場を後にした。


◆◆◆


 昔々、とある魔法使いの家にて、とある魔法が編み出された。


 吸血鬼の涙がなければ、魔法使いは魔法を使えず、安定して魔法を行使する為にも、吸血鬼の存在が必要不可欠であった。

 魔法使いと共に生きるシェフィールドの吸血鬼が逃げ出すことはほとんどないが、ゼロというわけではない。

 自発的に、魔法使いを誑かして、同胞に連れていかれ、いなくなることもあるにはある。対処法として色々な魔法が編み出された。──その魔法も、そんな一つ。


 涙を流せばそれでいいのだ。

 首から下なんていらないだろう。


 基本は不死身の吸血鬼、身体を裂けば再生や治癒が瞬きの間にされる。それを阻害するべく、とある魔法使いの家は執念で編み出し──無事に成功してしまった。

 一子相伝、人知れず伝わっていき、現代ではとある女性とその娘だけがその魔法を扱えた。


 それを知らない一体の吸血鬼は、使命の為に二人の元へ行ってしまい、胴体を失うことになるが──それはまた別の話。

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