大阪うめだ迷宮喫茶
石田空
迷宮喫茶へようこそ
地下は入り組んでいて複雑だ。なぜか地下街に坂がある。地下一階を歩いていたはずなのに、気付けば地上に出ていたり、地下二階に辿り着いたりしているなんてのはしょっちゅうだし、分岐している場所が十字路になってない。何度も曲がっているとだんだん方向感覚がわからなくなってくる。当然ながらスマホの地図アプリはなんの役にも立たない。
おまけにJR線に私鉄が二本、地下鉄がたくさんな上に、駅名も微妙に違うし場所も地下の各地に設置されているせいで、降りたら場所を探さないと見つからない。
「また駅増えるからね、またわからなくなるね」
そう言ったのは同期の
そんな訳で、ネットスラングで「大阪うめだダンジョン」とか好き勝手言われている場所で、私は現在進行形で迷子になっている。
「あう……」
なにぶん工事が多く、あちこちが閉鎖されている。
通れると思った道が通れず、さりとて地図を確認する場所もなく、人波に流されながら、どうにか場所を確認するしかない。ほとんどの表札は役立たずだけれど、なにもないよりはまだマシなんだと思う。多分。
今日は多岐川さんと一緒に、梅田芸術劇場で舞台を観劇しようと誘われたのだ。舞台はあんまり詳しくないけれど、チケットが余ったらしいから、それで私も行くことになった次第だ。
待ち合わせ場所を
「曾根崎警察署前なんて、道が一本道だから絶対に迷わないから!」
そう言ってくれたのに、どうして私は迷子になっているのか。
人が多いし、流されていくし、なんだかよくわからない場所に辿り着くし。一応約束の時間まで、迷子になるだろうということで二時間前に出たというのに、かれこれ一時間もずっと梅田の地下をさまよい続けている。
多岐川さんには「大阪の人は親切だから、誰かに聞いたら道教えてくれるから」とは言われたものの、皆せかせかと歩くものだから、私は聞きそびれてしまい、途方に暮れて流されている。
足痛いよう、どこかで休みたいよう、ここどこ。
だんだん心の奥の駄々っ子が飛び出してきて、ぐずついてきた。
そのときだった。
プワンと強いコーヒーの匂いが鼻を飛び込んできた。
顔を上げた先には、水音が。気付けば噴水の前に出ていたのだ。
「ああ……ここ……泉の広場?」
なるほど、噴水が出ているから、泉の広場だとわかりやすい。
曾根崎警察署前は、泉の広場近くの階段から出ればいいって、多岐川さんも言ってたっけ?
私は時計を確認すると、まだ約束の時間まで一時間もある……いつも迷子になっているのを思えば、今日は充分ゆとりのある感じだ。そうとわかったら、どこかで休ませてもらおう。私はそう意気込んで、泉の広場の周りをじっくりと見たら、雰囲気のいい喫茶店があるのを目に留めた。
茶色い壁に古いブリキの看板。
『迷宮喫茶』と書いてある。なるほど、迷宮喫茶か。
梅田の地下で遭難するんじゃないかと思って、泣きそうになりながらさまよっていたことを思えば、ナイスなネーミングだ。
とにかく私は足が痛くて痛くてたまらず、座りたかった。噴水の縁に座ってしばらく待ってもよかったものの、人通りのない落ち着いた場所にいたかった。
私はどうにか足を引きずって、喫茶店のドアを開ける。
「いらっしゃい」
カウンターから声をかけられる。まるで居酒屋の挨拶みたいだなとぼんやりと思った。
迷宮喫茶の席はカウンターに三席、奥にふたり用テーブルがふたつ。計七席。ウッド調で統一された家具に、落ち着いた照明。そしてコーヒーのいい匂い。
それにしても、もうモーニングからランチに切り替わる頃合いだというのに、人が誰もいない。私は不思議な気分で、カウンター越しに声をかけてくれた男性に尋ねた。
中肉中背で人のよさそうな顔の男性は、清潔なシャツにスラックス姿で、カフェエプロンを巻いていた。
「すみません、席は……」
「ええよ、どこでも好きな席に」
「はあ……ありがとうございます」
人懐っこい大阪弁に、少しだけ私は安堵した。大阪弁は声を荒げると怖く聞こえるけれど、人懐っこい雰囲気で使うと柔らかくて親しみやすく思える。
私はどうしようと思いながらも、ひとまずはカウンター席に腰を下ろした。足下には籠があったので、ありがたく肩バッグを中に入れさせてもらう。
店長さんはお冷やと一緒にメニューを置いてくれた。
「ここにあるやつやったら、なんでもええよ」
「はあ……」
私はお冷やをありがたくもいただきつつ、考え込む。
多岐川さんと食事をしてから観劇に向かうから、あまりがっつりしたものは食べたら駄目だよねと思う。でもコーヒーだけもお愛想なしだと思われるだろうか。
人がいない喫茶店に、少しばかり不安に思いながらも、コーヒーの名前を眺めた。
「あのう……【店長の気まぐれブレンド】ってなんですか?」
「ああ。余り物のコーヒーを適当にブレンドした、その日限定のブレンドやけど、それにするぅー?」
「な、なんですか、それ……ええっと、【店長の気まぐれブレンド】にミルクって付けられますかね?」
コーヒーにうるさい人だと「コーヒーはブラックで飲め、ミルクは外道だ」って怒るんだけれど、店長さんはどうかなあ。
私はひやひやしたけれど、店長さんは人懐っこい笑みを浮かべて「ええで」と言って、つくりはじめた。
取り出したものを見て、私は「おっ」と目を見張る。コーヒーミルにコーヒー豆を入れて、挽きはじめたのだ。本当に適当にコーヒー豆を取り出して、詰めて挽く。豆によっては酸っぱいのも苦いのもあるし、味が喧嘩しないのかな……少しばかり心配になるけれど、挽き終わった豆を濾し袋をセットしたポットに入れ、表面をならすと、細い注ぎ口のケトルでお湯を注ぎはじめた。
ふわんと漂うコーヒーの匂いは複雑ながらも香ばしく、私がそれを嗅いでいる間に、「お任せ。できたで」とカップに淹れ立てのコーヒーを注いで、ミルクも添えてくれた。
別にコーヒーに対して無茶苦茶詳しい訳じゃないけれど、気まぐれブレンドってどんなもんだろうなあ。私は「ありがとうございます」と言ってから、ミルクを入れる前にひと口飲んでみる……苦くってよくわかんない。
気を取り直して、ミルクを入れてかき混ぜてから飲んだとき……思わず目を見開いた。
「え……おいしい……」
「自分ー、ブレンドのミルクコーヒーがええって言ったのに、なんでミルク入れんのんってびっくりしてもうたわー。あー、よかったぁ……」
店長さんはオーバーリアクションでそう言う。
あれ、つまりは……。
「もしかしなくっても、ミルクに合うコーヒーを、わざわざ選んでブレンドしてくれたんですか……?」
「せやで? まあ余る豆なんて、その日によってまちまちやから、その日限定のブレンドやってのはほんまやけど」
「へえ……本当においしいです」
ミルクを入れた途端に、匂いが優しくなり、味もマイルドになる。でもミルクに負けないだけのコーヒーの主張に香りの強さも合わさり、はっきり言って無茶苦茶おいしい。
普段インスタントコーヒーしか飲まないけど、こうも違うんだなあと感心しながら飲んでいたら、店長さんは「ああ、せやせや」と言いながら、私の席にちょんと置いてくれた。
小さな堅めのクッキー……ビスコッティだ。
「あの、これは?」
「サービスやね。こんなとこに迷い込んできた」
「迷い込んできたって……そうですね。梅田っていっつもこんな感じなんですか?」
「せやねえ。どこもかしこも老朽化対策の工事に、都市の再開発で工事が終わらんのやわ。おかげでこうしてうちに迷い込んでくるお客さんもおるから、俺はええねんけどな」
「あはははは……でも私も助かりました。観劇に行くからと友達と待ち合わせしてて、早く来過ぎちゃったんです」
「もしかして、迷うやろと思て三時間前とかに家を出たクチ?」
「二時間前ですよー。でも、三時間の人もいるんですかね?」
「おるよー。年々座る場所なくなるから、できればギリギリで着くのんがええとは思うんやけど、ダンジョンでさまよって遅刻もシャレにならんしなあ」
「あはははは……」
地元の人にまでそう思われてるんだなあ。私は「ごちそうさまです」と言いながら、スマホを取り出した。
「それじゃあお会計ですけど、電子マネー使えますか?」
「堪忍なあ。うち、現金専門やねん」
「……今時珍しいですねえ。ICカードも駄目なんですか?」
「クレジットもデビットカードも金券もあかんよー。現金だけ」
「じゃあ……」
最近は電子マネー普及活動が続いている中、昔気質なのかな。私は首を傾げつつも、現金で支払いを済ませた。
「それではごちそうさまでした」
「おおきにー、もう迷わんようになあ」
「それ、引っ張りますかー?」
笑いながら出て行った。
私は階段を登り終えて、目的の曾根崎警察署前に立っていたら、「
」と手を振られた。約束していた多岐川さんだ。
「おはようございます。今日はチケットありがとうございます」
「いやいや。でもここまで来られました? また一時間も待ちぼうけしてたんじゃと心配してたんですよぉ」
「してないですよ。今日は泉の広場の喫茶店で待ち合わせしてましたし」
「あれ、喫茶店? そんなのありましたっけ?」
多岐川さんの言葉に、私はあれ? と思う。彼女は生まれも育ちも就職も大阪っていう人で、私よりもよっぽど梅田地下にも詳しいはずなんだけど。
「ええっと、泉の広場の噴水近くのですけど……」
「あれ? 泉の広場って、この間噴水は撤去されましたけど」
「え?」
私は多岐川さんの言葉に、きょとんとした。
たしかに私は噴水を見たし、その近くにあった喫茶店でコーヒーを飲んできたはずなんだけれど……。
でも多岐川さんは私の言葉に、ただ首を捻っていた。
「あの辺り、新しく通りを開発するとかで、昔ながらの店は軒並み撤去されたはずなんですよ。ついでに、泉の広場は、なんかウォーターツリーとかいう木の電飾に変わったはずなんですけど……神奈さん、もしかして」
「あ、あの? 私、本当に見たんですけど」
「いや、わかってますよ。もしかして、赤いコートの女にでも化かされたのかなあと」
「誰です?」
「都市伝説ですよ。泉の広場の近くにいるっていう赤いコートの女。泉の広場の噴水が撤去されるとき、皆で言ってたんですよ。あの赤いコートの女、どこに行ったんだろうねって。だから、神奈さんも化かされたのかなあと……」
「えっ」
さっきまでのほっこりとした気分は、一瞬で吹き飛んでしまった。
私がコーヒーを飲んでいた喫茶店も、あの店長さんも、都市伝説の類だったの……!?
私の顔が赤くなったり青くなったりを、多岐川さんにさんざん心配されてしまった。
この日が、私と店長さん……
それからはじまったのだ。私と泉さんと、迷子になった人たちとのふしぎな交流の日々が。
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