東長寺の謎

黒船屋

第1話 東長寺の謎・萬歳楼袖彦

本日は博多駅からも歩いて行ける東長寺についてレポートします。六角堂の謎について書きたいと思います。こちらのお寺は博多駅から近く入場無料のお寺で外人さんに特に人気があります。博多に泊まり「とりあえず東長寺」をささっと見て観光と言うパターンが多いようです。弘法大師空海は804年に唐に行き、4隻の遣唐使船の内、唐にたどり着いたのは留学生(りゅうがくしょう・るがくしょう)の空海が乗船した第一船と、還学生(げんがくしょう)の最澄が乗船した第二船だけでした。


問題①遣唐判官の〇原〇〇は最澄と第二船に乗船していました。さて答えは? ヒント 学問の神様のおじいさん


ちなみにこの方は女子の名前に子をつける、男子の名前は訓読みで1~2文字と建言しました。名前に子がつく女子の皆さんはこの方のおかげです。


昭和の映画で北大路欣也が主演の「空海」より、最澄役は加藤剛で、当時の桓武天皇のお気に入りで内供奉十禅師の一人でした。きらびやかな法衣をまとい莫大な公費、漢語通訳付きで派遣された最澄と、自費でもぐりこんだ空海とは待遇はけた違いでした。ここでは第二船に乗船する最澄を空海が遠くからまぶしげに見て、橘逸勢(たちばなのはやなり)にあの御方は誰だい?と聞くシーンがあります。ちなみに橘逸勢は嵯峨天皇・空海と日本三筆の一人です。名筆と言えば東長寺には空海の16~18頃の書「弘法大師筆千字文」の半分があります。これは島井宗室が本能寺の変の最中に焼失を恐れて運び出した書です。実際見たことがありますが文字にブレが無く見たことがないくらいうまく、文字というよりもはや芸術品です。


空海が乗った第二船は嵐に会い南方に漂着しました、福州で海賊(倭寇)の疑いをかけられますが、漢文に堪能な空海が遣唐大使の代筆をして切り抜けます。野を越え山を越え苦難の末に長安までたどり着きました。ちなみに最澄の第二船も嵐にあいましたが目的地の天台山にちかいところに到着し2か月程で目的地に到着しています。筆者も遣唐使船(復元)に乗った事があります。嵐に合えば大きく揺れそうで船酔いしそうな船です。さて後の第三船は唐までたどり着けず日本に戻り、第四船は行方不明になりました。遣唐使の成功率は統計をとったら確率50%だそうです。行きだけではなく帰りも危険にさらされるので確率はもっと低くなります。


まとめ①【804年の遣唐使船は4台で、第1船に空海が乗り第2船に最澄が乗りました。第2船には菅原道真のおじいさん菅原清公も乗船していました。3船と4船は遭難しました。この頃の遣唐使船は唐にたどり着くのは約半分でした。】


遣唐使船

筆者も帆とモーターで動く模擬船にのった事がありますが、それでも中国まで行くには大変そうで、特に暴風雨には流されそうな感じでした。当時の遣唐使船は大きさ的には小型客船のビートルくらいで乗務員や雑用含め100~120人くらい乗船していたそうです。風力と人力で東シナ海を渡るのは大変で、後年菅原道真が遣唐使を廃止します。空海は唐での滞在2年間の内、西明寺に入り、また醴泉寺のインド僧般若三蔵より梵語を習い、青龍寺ではたった3か月(諸説あり)で真言密教の全てをマスターしました。青龍寺に入る前に既に空海の名声は高まっていたので、恵果和尚は心待ちにしていて、密教の奥義をすぐさま授けました。空海は伝法阿闍梨の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられました。この時500人の関係者を招いて接待し滞在費を使い切っています。恵果阿闍梨はその後すぐに入寂します。


空海は20年の予定の留学を2年で切り上げて、皇帝の代替わりで朝見にやって来た船で日本へ戻ってきました。おそらくは唐朝12代皇帝の崩御から13代皇帝順宗の即位で遣唐使船が朝見に来ることを予測してたのではないでしょうか。805年一足先に都に戻った最澄は天台宗を開きました。空海は806年に日本に帰着しましたがすぐには都に入れませんでした。空海は博多の行町(ぎょうのちょう)に一堂を築きますがこれが東長寺の前身となります。空海が日本に帰着して809年に都に行くまでの806年~808年の行動は諸説あり空白でよくわかっていないようです。大宰府の観世音寺に在住していたとも言われています。すぐに都に入れなかったのは最澄が先に天台宗の一部として密教を持って帰っていて、また最澄は桓武天皇に気に入られていました。朝廷の御家騒動もあり嵯峨天皇が即位してようやく都に入りました。



空海は唐に渡る以前に室戸岬で虚空蔵菩薩の真言を、一日一万回×100日=百万回お唱えし心身を鍛える「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」をやり遂げました。真言とは「のうぼう、あきゃしゃ、きゃらばや、おん、ありきゃ、まりぼり、そわか」この荒行を成就する事により無限の記憶力が得られます。現在でも空海が修行していた御蔵洞・神明窟と言う当時の洞窟があります。ここはだれでも入れるのですが、本当に空と海しか見えない場所です。


まとめ②【空海は804年に遣唐使船で唐に行き806年に恵果和尚より真言密教を伝授して20年の予定を2年で切り上げ帰国した】


★ここから東長寺の記事に入りますが、貝原益軒の筑前續風土記、津田元願・元貫の石城志のデータベース、天本孝文著の筑前古寺巡歴等を参考に記述してますので自論も含めかならずしも福岡の観光案内や歴史紹介等と合致するものではありません。


別格本山 南岳山東長密寺 806年開基空海


博多の人にはおなじみの東長寺、大博通りに沿ってあり、境内も入りやすく、春は桜がきれいで市民に親しまれてます。空海は帰国後に博多に【東長寺】を開基します。真言密教が東に長く伝わるように【東長密寺】と名付けました。初代の東長寺の場所は旧行町にありました。ちなみに「博多 行町」とMAPに入れると石碑の場所が出てきます。その後元寇等の戦火等により荒廃しますが、1634年頃福岡藩主2代目黒田忠之が現在地に移転、再建します。孝高・長政の墓は崇福寺(臨済宗)にありますが、こちらは土日しか一般開放されておらず、訪れる人も少ないです。まったく趣も違いますので見学して比較してみるのもよいでしょう。なぜ別の宗派になったかは忠之の家庭教師が真言密教のお坊さんで影響を受けたと言われています。あまり言及されていませんが忠之公は徳川家康の又甥にあたります。家康のお母さん於大の方の娘多劫姫の娘、栄姫の子になります。黒田騒動を乗り切れたのも、長政公の関ケ原での貢献もあるでしょうが、遠い親戚と言う事もあったのではないでしょうか。


まとめ③【初代の東長寺は806年に空海が日本で最初に創建した密教寺院。その後戦火等による被害で荒廃していたが1634年頃、福岡藩2代目藩主、黒田忠之により再建された。現在は真言宗九州教団、別格本山】


大博通りに面した東長寺の山門の扁額には山号【南岳山】聴雲とあります。高野山が都より南にある為、空海を南岳和尚と呼んでいたそうです。高野山ができてからの後付けの山号であることがわかります。・・この山門も江戸時代の建物で雨漏りをふせぐ丸瓦には黒田藤巴紋が見えます。山門の中には平成に造られた四天王の内の持国天と多聞天が安置されています。さあ中を覗いてみましょう、さすが博多!と思うはずです。初代の持国天・多聞天は空海自作です。


多聞天(毘沙門天)・・・山門の向かって右側


この多聞天(吽形でしょうか?)に違和感を感じる人はかなりの仏像マニアです!問題②あるはずの何かが無い?間違い探しのようですが正解はCMの後ではなく・・このブログのどこかに書きます、お楽しみに・・・ヒントは博多祇園山笠です。


持国天・・山門向かって左


平成18年安置、総高240cm 持国天〈阿形でしょうか?)


まとめ④【山門には仏師、西田凌雲さんの山笠をモチーフに鉢巻をした兜無しの持国天、多聞天が安置されています。


亀趺(きふ)・・山門の向かって左横


亀の上に石碑が建っています。正確には亀ではなく龍の子供(上には龍の夫婦?がいます)で【亀趺】きふと言います。趺はややこしい漢字です。「あぐら」と書いて変換したら出てきました。重たい石碑を乗せている時は亀趺と言いますが単体では【贔屓】ひきと言います。贔屓の引き倒しという格言?はここからきています。下の贔屓を引っ張ったら上の重い荷物が倒れますからね。どうです皆さん、これで大博通りを夫婦で歩くときに奥さんにウンチクをひけらかしたら見直されること間違いなしです。鼻の頭をなでたりお金を乗せていく人もいます。一種のパワースポットかラッキーアイテムのようになっています。写真後ろの塀に線が六本あります。これは多いほど寺格が高いそうです。


まとめ⑤【亀趺は青龍寺から贈られました、揮毫は東長寺開創1200年時の青龍寺の住持の寛旭(かんぎょく)。密教はインド・中国・日本と伝わりました。密教東漸日本最初霊場】


六角堂 1842年建立 萬歳楼袖吉


境内に入ってすぐの大桜をすぎた場所に六角堂があります。慈雲堂か慈雲閣なのでしょうか?一字欠けています。覆い屋の中を開けると六体の仏像があります。不思議なのは地蔵菩薩の厨子に仙厓和尚の絵が刻まれていますが、仙厓さんは1837年に亡くなっていますので計算が合いません。そうすると1842年より前に建立されたのかもしれません。それか元になる絵を事前に描いていたのかもしれません。絶筆に近い絵なのかもしれません。アヘン戦争が終わった年に建立されています、幕末のきな臭いにおいがし始めたころです。政治的には日本の漂流民を乗せて寄港した船を砲撃するというモリソン号事件も有り、異国船打払い令が改められ水と薪を与えて穏便に返す薪水給与令に改められています。仙厓さんの扉絵の謎はこの後解き明かします。


東長寺六角堂は毎月28日と特別の日にしか開放されていません。扉も6つある内の3つだけで全部見えるというわけではありません。仏像の彩色も良く残っています、うっとりするような端整な仏様です。六角形が萬歳楼は好きだったようで、至る場所に亀がいます。屋根の上は亀ではなく想像上の霊獣、贔屓のようです。


六角堂の謎、どこから来たのか?もとからあったのか。


①六角堂は1842年に豊後屋栄蔵(萬歳楼袖彦)が名古屋以西の商人の浄財を集め建立された。(東長寺の縁起)


②明治の廃仏毀釈で櫛田神社境内の神護寺にあった六角堂を東長寺に移転した。


③六角堂は神護寺にも東長寺にもあり神護寺の六角堂は廃仏毀釈でなくなった。


これについてはWIKIは間違いで、①と②が正解です。


櫛田神社境内にあった神護寺について


神護寺(神宮寺)は本尊を薬師如来から庚申尊天へと変え遍照院として持続しますが衰退していき、1900年に東長寺の弟子である西義観師により笹栗の観音堂へ遍照院の寺格と庚申尊天を移し笹栗霊場第二十六番札所、石原山 遍照院を開山しました(笹栗遍照院HP参照)。


まとめ⑥‐1【櫛田神社の境内にあった神護寺は明治期に廃仏毀釈で遍照院として存続した、遍照院の寺格と庚申尊天を西義観師は笹栗の観音堂へ移し、石原山 遍照院を開山した。六角堂は1842年から東長寺にあった。】


遍照院

福岡県糟屋郡篠栗町にある、篠栗八十八カ所霊場第62番札所 石原山 遍照院という高野山真言宗の寺院です。

リンク 気になる方はコピーして検索してください。

sasaguri-henjoin.com


弘法大師像・他六体の仏像


六角堂の中には六体仏像が安置されています。仏像を安置する厨子は回転式の仏龕です。ぶつがんと読みます。台座部分は回転式になっています。中華料理の回転テーブルは実は日本の発祥で逆に中国に伝わりました。これもウンチクとして使えそうです。これを回すことで諦経の功徳を得られます。六体の仏像の内の地蔵菩薩の扉絵は仙厓さんの絵です。仙厓さんの絵は40歳くらいから確認され、普通にうまい絵を目指していたようですが年々ヘタウマな絵になってきます。厓画無法で聖福寺の境内にモニュメントがある〇△▢は難解で何十年も研究している某美術館の先生もいます。さてこの絵の原画をさがしましたら、福岡市美術館の元館長さんの中山喜一郎さんの本にありました。1813年に描かれた「三聖吸酸図」です。建立された1842年にはすでに仙厓さんも亡くなっていますので、博多の文化人である豊後屋栄蔵が仙厓さんをリスペクトして摸刻させたのでしょう。この絵自体は孔子(儒教)老子(道教)釈迦(仏教)が甕の中の酢を舐めて、同じく酸っぱいと感じる、三教一致を表しています。


まとめ⑦‐1【六角堂は博多商人、豊後屋栄蔵(萬歳楼 袖吉)が施主 名古屋の宮大工、伊藤平左衛門が施工しました。屋根は行基葺、堂の正面を広くした変形六角形、内部は六角形の回転式の厨子があり六体の仏蔵が安置されています。また仙厓他の書画を彫刻している。】


まとめ⑦‐2【六角堂は屋根は平瓦と丸瓦を組み合わせた行基葺、随所に亀の意匠が施されているが萬歳楼(ばんざいろう・まんざいろう)が好きだった為の建築者の記録がある、屋根上には霊獣の贔屓が乗っている。正面扉の間口は他の扉より大きく、土台も含め一辺だけ長い変形六角形になっている。仏龕の位置も中央より後方に位置する。中の仏龕(輪蔵)は六角形の回転式になっていて、これを回すと諦経の功徳が得られます。現在は毎月28日と特別な日に六面の内三面開けて拝観する事ができます。】


まとめ⑦‐3【行基葺とは平瓦の継ぎ目部分に丸瓦をおき、丸瓦の前方を大きく尻の部分を小さくして組合わせたもの、雨漏りが防げる。】


尾道 玉乗り狛犬  (六角堂前面にある狛犬の向かって左)


尾道の玉乗り狛犬、台座には右側の狛犬には 尾道 栄原屋 藤吉 左側の玉乗り狛犬には 尾道 栄原屋 貞国(?)と彫られています。仏殿に狛犬というのも珍しいのですが、広島発祥の尾道玉乗りもこの辺りでは珍しいのではないでしょうか、制作年代も必ずしも仏殿と一緒ではないかもしれませんが六角堂とセットになっている理由はなにかあるはずです。


狛犬台座 尾道 栄原屋(栗原屋?)貞国(吉?)


向かって左に鎮座します、狛犬の台座に刻まれた施主の名前、正直読めませんが、尾道の商人のようです。


尾道 玉乗り狛犬 (向かって右)


左の狛犬は玉に乗ってるのにこちらは乗っていません。しかも飼い主に「ふせっお座り!」と言われているようです。もしかしたら玉が壊れてないまま修復されたのかも知れません。狛犬の人生もいろいろあります。左と比べ作風が違うようですが両足は折れたままで、顔部と耳が補修、小さな台座が後乗せされています。倒壊して破損したのを補修しているようです。


右狛犬の台座


狛犬の台座に注目する人なんていないかもしれませんが、尾道 栄原屋(栗原屋?)藤吉と書いています、藤吉はちゃんと読めます。誰が興味あんねん!というような内容になりましたが、この項を読んだ方は全国に何百人かいると噂の狛犬マニアでしょう。


ここには明治期に櫛田神社にあった神護寺から移転してきた旨は書いてありません。太閤町割り後の古地図を見ると櫛田神社の境内に神護寺があります。東長寺の末寺、神護寺の社僧が櫛田神社を運営していました。廃仏毀釈で廃寺になる前は六角堂は神護寺の境内にありました、出典は筑前古寺巡礼 天本孝志著からです。


仙厓さんの絵をどうしても入れたかったことから施主の萬歳楼は書画に通じ仙厓と懇意だったと推測できます。賛は亀井昭陽(亀井南冥の息子・亀井塾)、曇栄宗曄(亀井南冥の弟)以上の事からわかるのは、亀井家は当時迫害された儒教・徂徠学で修猷館派・朱子学と敵対関係。江戸時代において朱子学は幕府が統制するのに便利な学問であったようです。曇栄は崇福寺住職で仙厓は聖福寺の住職です。それが東長寺に建立された六角堂の地蔵菩薩の扉絵にあえて違和感のあるこの絵を採用する事は、かなり深い意味があるように思えます。江戸時代において朱子学は幕府が統制するのに便利な学問であったようです。


萬歳楼法橋壽〇〇


六角堂の正面向かって右に謎の五輪の塔があります。ちゃんとした覆屋もあり、いわく有げに建っています。これは文献でさがしても出てこないので自力で解説します。まちがえても諸説ありでお許しください。


前面に萬歳楼法橋〇〇、法橋と言うからには偉いお坊さんか書画で高位の人物です。萬歳楼は薬・漆商人でありますが、確認できるのは灸治論という上下巻付録の三冊の本を天保14(1843)年に出していてます。もしかしたらこの六角堂を寄進したことで法橋に推薦されたのかもしれません。


萬歳楼袖彦の墓?


なにか最初はわかりませんでしたが萬歳楼袖彦の遺髪塔のようです。薬・油・漆等の商いをしていたようですが。本業は薬屋さんで著書に書いてある住所が筑紫博多町薬舗百花堂袖彦で主な著書は灸治論、農家撰種録さくにんたねかがみ、四国霊験奇応記(文政8年)他には高野山に句碑があります。


裏面にはこの塔の由緒が書かれています。漢文は読めませんが雰囲気で読みますとこの六角堂の施主、萬歳楼袖彦の遺髪塔のようで亡くなったのは安政二年十一月三日で妙典寺に葬られたようです。おそらくはご遺体は妙典寺の墓地にあり、遺髪はここに供養塔としてある。と言う事は六角堂の施主ご本人様登場!という事です。(諸説あります・)更に孫の骨も安置した。嫡子惟昌 安政二年 とすると表に刻まれた文字は【萬歳楼法橋が遺髪】だと思います。


まとめ⑧【法橋とは法印・法眼・法橋と3番目の僧の位である。中世以降は絵師・医師・仏師・連歌師等にも与えられた。萬歳楼も法橋の位をもらっていた。】


国書データベース

リンク 興味のある方はコピーして検索してください。

kokusho.nijl.ac.jp


皆さんもう萬歳楼袖彦に興味津々ですよね!それでは国書のデータベースに萬歳楼袖彦の灸治論がありますので読みましょう!


福岡藩二代目藩主 黒田忠之(1602~1654)の墓


高樹院殿傑春宗英大禅定門 承応三年二月十二日


このお寺を再建した福岡藩二代目藩主、黒田忠之の墓と殉死した5人のお話です。この時代以降は殉死は幕府から禁止されています。またこれとは別に殉死した山伏秀栄の墓もあるのですが、山伏がなぜ黒田忠之が亡くなって殉死したのかと言いますと、歴史秘話が文献にありましたので、この後でご紹介します。忠之の五輪塔は日本で二番目に大きく、一番は高野山の二代将軍徳川秀忠の正室(継室)お江の墓です。こうやって見ると亡くなってからも人間の命は等しく平等ではなく格差社会と言えるでしょう。


五輪塔は上から①空輪(宝珠)キャ②風輪(半月)カ③火輪(三角形)ラ④水輪(円形)バ⑤地輪(方形)ア平安時代末期より供養塔・墓として用いられるようになりました。


古文書を含めあらゆる資料に殉死者の名前は出ていますがどこを探しても配置や役職が書いてありません。これを解明したら私が貝原益軒を越えるかもしれません(?)


実際墓を見ると、消えかけていますが1~2文字だけ微かに読めます


貝原益軒を始めとする地誌にはずらっと戒名と殉死した日が書いています。どの墓が誰とは書いていません


龍華院殿春庭水永喜田中五郎兵衛栄清 三月二十三日 殉死が一番遅く家老(?)        


春嶺院殿花心淨蓮武田助之進義成   二月十二日  


修徳院殿道壽宗清長濱九郎右衛門重勝  二月十二日   


実相院殿一如眞空深見五郎右衛門重昌  二月十三日 栄姫に従って黒田家に来た


陽桃院殿長壽正仙尾上仁左衛門勝義   二月十三日  




今回配置図を割り出しました、携帯で見られている方は①~③が左列、④~⑤が右列になります。


       


   殉死者墓配置図        黒田忠之の墓


  ①龍華院殿春庭水永喜田中五郎兵衛栄清 ④春嶺院殿花心淨蓮武田助之進義成


  ②修徳院殿道壽宗清長濱九郎右衛門重勝 ⑤陽桃院殿長壽正仙尾上仁左衛門勝義   


  ③実相院殿一如眞空深見五郎右衛門重昌




一人だけ後から殉死している方は家格の高い家臣(家老?)で諸々の行事を終えて殉死したのかもしれません。深見五郎については長政の継室に従い高遠藩より黒田家の家臣となり、子孫は鋳物師をやり、現代では深見興産をやってるようです。その頃の殉死は忠義にあつい家臣の名誉だったのかはわかりませんが、次々に殉死した家臣の情報を聞いて我も我もとなった可能性もあります(昭和のアイドルでもあったような気が?)。推測ですが五人の中で殉死が一番後の田中五郎兵衛栄清は家臣の中でも高位の方で、葬儀とかの一切をやり終えて覚悟の殉死ではないでしょうか。武士の鑑ではありますが、徳川4代将軍家綱は1663年に殉死を禁止します。幕藩体制では特定の個人ではなく、藩に家臣がつき運営をするほうが都合が良いのです。


黒田家も6代目継高までが孝高・長政の血統で7代治高からは全く別系統になります。家臣団も藩の継続を願い、徳川にできるだけ縁の深い人物をさがした事でしょう。


殉死した山伏秀栄の墓 明嚴院秀栄


さて問題の黒田忠之公の右隣にある山伏秀栄の墓ですが、何故ここに家臣でもない山伏の立派な五輪塔があるのか?謎を解き明かしましょう!下段の石城志のデータベースで東長寺の項目を見てください。かいつまんでいいますと、遊興におぼれていた秀栄が他の山伏から咎められ、殺されそうになったのを狩猟で通りかかった黒田忠之が金銀を与え助けてやり、それを恩義に思った秀栄が忠之が亡くなった後に東長寺に行き雨風の中ひれ伏していました。住職が話を聞いて諫めるのも聞かず、殉死しました。


光之はこれに感動して立派な墓を東長寺に建てて、秀栄の息子に150石を土地を与え、山伏の長に取り立てました(修験道総司)。150石が知行地みたいな感じでしたら年棒500万円くらいでしょうか。


これから見ても光之は大変孝行息子であったと言えます。データベースは福岡藩の地誌で著者は医者が本業の津田元願・津田元貫です。山伏秀栄の秘話は多めに書かれています。江戸中期に書かれたので忠義に厚い物語が受けるので強調したかったのかもしれません。以上の話は石城志をベースにしました。


リンク コピーして検索してください

books.google.co.jp 


現代語に訳した石城志のデータベースです。東長寺の項に山伏秀栄の秘話が載っています。


さてつぎは3代目光之のお話です、


黒田光之(1628~1707)


藩主在籍期間1654~1688


倹約や財政方の家臣を登用し財政難を克服しようとした。文治を好み忠之時代に冷遇された貝原益軒を重用しました。黒田家の歴史や地誌を後世に残し、現在の福岡の寺院や神社の縁起、社伝の多くは貝原益軒の筑前国續風土記から転載されています。


NHKの大河ドラマではしきりと「戦の無い世の中をつくるのじゃ!」と戦国時代の主人公に言わせますが(なぜか秀吉には言わせない)、この時代でようやく戦のない世の中が定着します。忠之は大坂の陣や島原の乱での出陣がありました。また忠之は長政時代の寵臣を大リストラしましたが財政は逼迫していました。光之は財政問題を抱えたまま藩主を引き継ぎました。


3代福岡藩主 黒田光之の墓(五輪塔)


黒田忠之のお墓は大博通りからも巨大な五輪塔が見え、見る方は多いです。黒田光之、黒田治高の墓は少し境内の奥なので訪れる人は少し少ないかもしれません。西洋からの旅行者は日本のワビサビが好きなのか奥の方まで写真を撮りにきて満足そうな顔をしています。


8代福岡藩主 黒田治高(1754~1782)竜雲院徳厳道俊


藩主在籍期間1782~1782


讃岐多度津藩主京極高慶の4男で約半年で福岡城で亡くなりました。領内の巡見や山笠の見物をした等、さすがに功績はあまり残せなかったようです。さてやっとお墓の説明は終わりました。


五重塔 平成23年建立(2011年)


78トンの奈良の吉野檜、高知の四万十檜の赤身材を使用、釘を使用していない。岐阜の耐寒性にすぐれた美濃瓦使用17850枚


相輪は青銅鋳物製、高さ8メートル、黒田藤、輪宝、五三の桐の寺紋。心柱のある伝統工法とグラスファイバーを利用し免震ゴムで耐震性が高い。


仏舎利を相輪の下部にを安置しています。筑前續風土記には空海は仏舎利を80個持って帰り一個を東長寺に授けたとあります。


基壇、沓石は岡山の万成御影石、基壇は佐賀の天山御影石、総仕様石材30トン。内部は鳥山玲画伯の日本画、大日如来や両界曼荼羅の仏画が描かれています。


五重塔初層(一階)荘厳画」を内陣まで入り間近に拝観いただける企画があり、応募して内陣を見れる機会がありました。この荘厳画はご本尊の大日如来や日本の四季、花鳥などが岩絵の具や金箔などで色鮮やかに描かれております。故平山郁夫画伯に師事した鳥山玲画伯の筆によるものです。内陣の美しさは息をのむほどです。なおこの五重塔の素晴らしさは木造でできており、朱の色も映え、桜の咲く頃は絶景の撮影ポイントになります。なんでもこの近辺は防火法で木造建築はできなったそうですが特別な許可が下りたそうです。


大師堂


弘法大師空海像は秘仏となり現在は本堂に移されていて大師堂も通常は非公開になっています。108の珠の数珠をまわすと功徳が得られます。


本殿 屋根は平安時代のイメージで伽藍は唐招提寺をイメージしています、昭和に建立されました。


本尊は重要文化財の千手観音像(秘仏)、弘法大師像(秘仏)、不動明王立像、弘法大師像と不動明王像は弘法大師自作


福岡大仏 10.8m 光背込み16.1m 重さ30トン日本最大級の木造坐像


壁面には5300の小仏があり、法界定印を結んだ両手の上に現在は輪宝を載せている。


大仏台座内の地獄極楽めぐりで仏の輪をさがそう。


空海修行の地 御厨人屈・神明屈


空海が修行した時代はもっと海抜が低く海と空しか見えない場所でした。


貝原益軒アーカイブ | 図書館 | メディアセンター | 研究所・付置施設 | 中村学園大学・中村学園大学短期大学部

福岡にある栄養系、教育系、商学・経済学系の学科を有す大学・短大。管理栄養士、小学校・幼稚園教諭、保育士などの専門職やビジネスの現場で活躍できる人材を育成します。「食の中村」として地域連携にも努めます。

リンク

www.nakamura-u.ac.jp


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貝原益軒のアーカイブです、古文書の知識がなくても読めます。






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