第25話 花嫁の朝
朝日が顔を見せる前、空が濃い青に染まる早朝。
「……」
皇来にある館の私室、そのベランダにて。
置かれていた白い椅子に深く腰を落ち着けた私は、朝と夜が混ざった空を無言で見上げていた。傍にあるテーブルの上には、弥生が淹れた紅茶の入ったティーポットと、白い湯気が立ちこめるティーカップが一つずつ。
こんな朝早くに我儘を言ってしまって申し訳ない。そんな気持ちを抱きつつ、私はありがたくティーカップに口をつけた。
結局、昨晩は一睡もできなかった。明日は大事な日だし、早く眠らないといけない。そう考えて早めにベッドへ入ったのだけれど、早く寝なくてはと思うほど頭は眠気から遠ざかる。そのくせ、眠っていられる時間がなくなった時間帯になると、一気に眠気が襲ってくる。寝不足で頭がぼんやりとしている私は、気を抜けば眠ってしまいそうになっていた。
寝付くことができなかった理由は、明白。
それは──今日が、婚姻の儀を行う日だからだ。婚約状態ではなく、名実共に、大志さんと夫婦になる日。
普通ならば祝福を受ける日であり、私も喜びを覚える日である。しかし、私の心にあるのは喜びではなく、寧ろ、強い憂鬱だった。今の気分を表すならば、さながら刑罰の執行を待つ罪人。今の今まで逃げ続けてきたけれど、遂に独り身ではなくなることが、とても嫌だった。
私は大志さんを愛しているわけではない。
この結婚は愛のあるものではなく、あくまでも家同士の繋がりを強くするための、いわば政略結婚だ。運命だの、恋だの、そんなロマンチックなものは一切ない。親同士が決めたことであり、そこに幸福など一切考慮されていないのだ。
……いや、今回に限っては、自分にも非があるか。
嫌気が差しつつも自覚した。大志さんとの縁談を持ってきたのは父だが、受け入れたのは自分自身なのだ。父は嫌ならば断わっても良いと選択肢を与えてくれてはいたけれど、最愛の人を亡くし、自棄になっていた私はヤケクソ気味に引き受けてしまったのだ。今思えば感情に任せるべきではなかったのだが……当時は、荒れに荒れていた。冷静な判断なんて、する余裕はなかったのだ。
「……明臣さん」
無意識に、私は最愛の人の名を呟いた。
既に彼はこの世界から去っている。どれだけ祈ろうと、どれだけ願おうと、切望しようと、会うことは叶わない。けれども、胸の内には彼に対する想いが、未だに大きく残っている。この気持ちは、未来永劫消えることはないだろう。例え、大志さんと夫婦になったとしても。
いっそ、この想いを抱えたまま、何処か遠くへ行きたい。
危険な欲求が生まれ、それは許されない、と、もう一人の自分が抗い始めた時。
「失礼いたします、お嬢様」
背後から声がかけられ、私は振り返った。
そこには弥生が立っており、彼女は両手にサンドイッチなどの軽食を乗せたトレイを持っていた。少し早いけれど、朝食を持って来てくれたらしい。
弥生はテーブルの上にそれらを並べる。
「今日は大切な日ですからね。少しでもいいので、胃に何か入れておきましょう」
「ありがとう。あとで、いただくね」
礼を言いつつ、私はテーブルに並べられた軽食を眺める。
正直なことを言えば、食べられる気分ではなかった。寝不足で調子が悪いこともあるけれど、何より、食事を楽しむ精神状態ではないのだ。冗談ではなく、執行前日の死刑囚が食べ物に手をつけられない理由が理解できる。食べようと思っても、喉に通らない。それは、食べる前からわかる。
けど、折角弥生が朝早くから作ってくれたのだ。今すぐではなくとも、あとでしっかりと食べよう。
「気分が、優れないようですね」
黙って軽食を見つめていると、唐突に、弥生がそんなことを言った。顔に出ていたか、と自分自身に苦笑しつつ、私は頷いた。
「ちょっとね」
「それは、婚姻の儀が関係して?」
「うん。そうだね」
肯定する。
こういう時は『大丈夫、心配しないで』と答えるのが一番いいのだろう。従者に余計な心配をさせないのが、主人の鑑というものなのかもしれない。
だが、弥生は私が小さい頃から知っている存在。昔から、どうしても、彼女には甘えてしまう。心根が弱っている今、隠し事をするなんて、不可能だった。
「私、多分幸せにはなれない」
気づけば、口にしていた。
そして、青い空を見上げ、続ける。
「私は……明臣さんが良い。大志さんには悪いけど、好きにはなれない。だって、私の心には他の人を好きになるような余白はもうないから。これから先も……明臣さん以外を好きになることなんて、ないと思う」
きっと、明臣さんが最初で最後の恋だったのだ。無論、人生は何が起こるかわからないので、証明することはできない。ただ現状、彼以上に魅力的な、心が奪われるような人と出会っていないことは確かだ。
「勿論、大志さんにはそんなこと言わないけどね」
「……」
弥生は黙って話を聞いていた。私が今、自分の話を聞いてほしいことをわかっているのだ。相槌や反応はいらない。ただ、耳を傾けていてほしい。心の声を聴いてほしい。その気持ちを、弥生はしっかりと汲み取っている。
優秀な侍女に感謝しつつ、答えることのできない質問をした。
「ねぇ、弥生……明臣さんは、許してくれるかな。私が、幸せじゃない結婚をしてしまうこと」
「お嬢様……」
ティーカップを両手で持ち、その手に力を加える。水面の揺れているのを見て初めて、自分の両手が震えていることがわかった。
嗚呼、嫌だな。
心の声がそのまま、口から零れそうになった──時。
「お嬢様」
再び、弥生が優しい微笑みで私の名前を呼び、告げた。
「ご安心ください。明臣様は、お嬢様の幸福を願っておられます。そして、それは私たちも同じ。そのために、最大限の努力をさせていただきます」
「え? あ、ありがとう? でも、それって──
どういうこと? と私が尋ねる前に、弥生は『失礼いたします』と言い残してベランダと部屋を後にした。
最後の言葉は一体、どういうことなのだろう。何を意味しているのだろう。
ベランダに一人残された私は頭を悩ませつつ、弥生が用意した軽食に手を伸ばした。
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