「死にたいね。」

岩橋藍璃

「死にたいね」

「死にたいね」

 夜のコンビニの外壁に寄り添い、彼女はそうつぶやいた。先ほど買ったばかりのホットコーヒーを、寒そうに両手で包み込んでいる。その指は驚くほど細かった。

「どうして?」と尋ねると、かすかにほほ笑んだ。

「何でもないよ。ただ、このまま生きていて何になるんだろうって思っただけ」

「考えたくなくても、自分が生きている意味みたいなことを考えちゃって、答えが分からなくて死にたくなる。こんなに辛い思いをして、何のために生きているんだろうって」

 彼女は大きくため息をついた。冬の夜の冷気が、彼女の息を白く濁らせる。

「こんなこと考えるのは人間だけだよね。こんなこと考えたくもなかった。もっと動物みたいに、子孫繁栄のために交尾して、その日生きるために生活して、人間もそれだけでよかったのに……」

 彼女は空を見上げた。東京は夜景がうるさくて、星は一つも見えない。

「ねえ……私、あなたのこと好きだったよ」

 知っていると言うように頷いたが、彼女の視線は空を向いている。まるで僕のことなど見えていないようだった。

「私たちが動物だったら、出会った頃に、何も考えずに子供を作っていたと思う。でも人間だからやらない」

「子供がいたら生きる理由も生まれるのかな。……でもダメだ。ほしいとは思えない。好きな人の子供はほしいけど、私の遺伝子が混ざったら、どうにも愛せる自信がない」

 彼女は俯いた。だらんと垂れた髪が、ホットコーヒーに入りそうだ。かける言葉がでてこず、夜風に揺れる彼女の毛先を眺めることしかできなかった。

 何か言わねばと、僕が口を開きかけた時、彼女がパッと顔を上げた。明らかに困っている僕の顔を見て、意地悪に笑った。

「私があなたを好きになったのはね、私もあなたも、お互いのことを酷く理解している。それなりに分かっている。どういうことを不快に思うか知っていて、何をどれくらい許せるかを知っている。だから、なの。それだけなの」

 僕は彼女の発言に同意できなかった。僕は彼女をわかってやれているだろうか?彼女は僕を、わかっているのだろうか?僕の思索など気にもせず、彼女は言葉を続ける。

「きっと共に永く生きることになってもうまくやっていける。そう思ったの。なんてバカなんだろうね。ずっと一緒にいたいだけなら、友達でいいはず。友達のほうがいいはず。それを分かっていても、あなたが私でない誰かと結婚したと聞いて、腸が引きずりだされたような苦痛を感じた。でも同時に、体が軽くなったというような解放感もあるの」

 彼女はまた小さく俯いた。垂れた髪の隙間から、赤く柔らかい唇が見える。僕はどんな顔をしていいかわからなかった。

「執着、だったんだろうね」

 風が吹いた。無機質な都会の夜風に、ほんのりと彼女の匂いがする。

「私は社会で、何者にもなれなかった。小さい頃から何の夢もなく、何かになることもできなかったし、唯一無二の「私」になることもできなかった。」

「あなたにとっても、何者にもなれなかった。ただ私という人と一時仲良くしていただけ、それだけで終わってしまった。」

 顔を上げ、髪をかき上げながらそう話す彼女は、どこか決意したような顔をしていた。僕は相変わらず曇った表情をしていたことだろう。彼女はあえて僕の顔を見ないようにしているらしい。いくら彼女の目を見ても、少しも目が合わない。彼女は大きく深呼吸をした。

「だから私、さいごくらいは何かになるつもりだよ。何でもいいからみんなの印象に残ることをする。とりあえず、それが明日の目標だ。」

 前向きにそう話す彼女に、僕は「明日のプレゼン、がんばれよ」と声をかけた。やっと彼女にかける言葉が見つかった気がした。

 彼女はやっと僕の目をみてくれた。そして、いつものように笑顔を浮かべていた。




 翌日、彼女は自殺した。彼女がプレゼンをする予定だった会議室で、首を吊って死んでいた。

 「みんなの印象に残ることをする」とは、このことだったのだろうか。僕は彼女の決意に気づけなかった。

 僕が彼女のことを酷く理解しているというのは、彼女の過大評価だと僕は今でも思っている。

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