老齢の依頼人

「──なるほど、状況はわかった」


 吸いかけのタバコを灰皿に押し付けるようにして潰すと、月岡はゆっくりと紫煙を吐き出した。ハンドルをしっかりと掴み、アクセルをぐっと踏む。スピードが徐々に上がっていく。


「で、依頼人はどんな相談をしてたんだ? ニ年も掛けているなんて通常ありえないんだろ?」


 月岡の隣、助手席には吉良が座っていた。ずれ落ちそうになるメガネを上げると、持ってきたファイルを開く。


「声が、聞こえると言っていました。赤ちゃんの声。それがずっと続いていると」


 二人は依頼人の家へと向かっていた。県外から毎月依頼人は通ってくる。これまで日時の変更も、遅刻も一回もなかった。その自宅へと今、高速を飛ばして向かっていた。


 速度制限を超過していたのが吉良には気に掛かったが、現役の警官がやっていること、そしてもう時間がないことで大丈夫なのだろうと言い聞かせる。依頼人からのメッセージは明らかに異常だった。


「簡単に信じることはできないが、子どもを亡くしたばかりとかだったのか?」


「いえ、高齢の女性です。たしか今年で86になるとか」


 月岡が噴き出した。


「86? 嘘だろ? それで毎月毎月通ってきてたのか?」


「ええ。ちょうど昨日も来られましたよ。沙夜子さんから今回の件で呼び出されたんですが、さすがにこの方──椿つばきあんさんと言う方なのですが、椿さんの依頼は断ることができなくて。しっかりされている方なんです。毎月第一水曜日に遅れることなく、休むことなく時間通りにピッタリと来て、帰っていく」


「なるほど。よほどの事態だな」


 黒光りする車は右車線を常に走り、軽自動車やトラック、バスなど前方車をどんどん抜かしていく。信号にも何にも捕まることがないためスムーズに進んでいった。


 吉良と月岡が餓鬼憑きの原因を探るために隣県へと足を伸ばすなかでも、取り憑かれた犠牲者はどんどんと増え続けていた。


 鬼救寺の沙夜子は一時しのぎにしか過ぎないとは言え、取り憑いたあやかしを対処するために残り、結界陣の本家とも言える京からの救援を頼り治療を継続している。


「だから妙なんですよ。水子霊、僕は専門外なので詳しくはないですが、母親に取り憑くような話はよく聞くじゃないですか。でも、もちろん数年前に子どもを産んだ事実はないですし、本人の話では生まれつき子どもの産めない身体だということで、子どもを産んだ経験がない。なのに数年前から急に子どもの声が聞こえるようになったという」


「……あやかしの仕業か?」


「可能性はある、と思って依頼を引き受けてきた面もあります」


「聞いてる限りだと、一筋縄ではいかなそうな気もするが……それでもニ年も掛かっているのはなぜだ?」


「残念ですが僕の力不足もあります。ただ本人に聞いても心当たりが何もない、というのも理由としては挙げられます」


 車窓からは鬱蒼と生い茂る森が見えた。緑豊かな木々の中に少しずつ色付き始めた木々も現れる。今はまだ日が高いために森の木々も明るく見えるが、夜闇に包まれれば雰囲気が一変するだろう。


 吉良は、森の至る所で餓鬼に取り憑かれた人達が彷徨い歩く様子を想像した。


 実際に内田紗奈は深夜遅くにどこかへ行っている。餓鬼に憑かれるところが南柳市内のどこかにあるというのか。


「心当たりがない、ね。でも、本人からしたらなんでもそうだろ? 今回の件だって誰に聞いても理由はわからねぇーんだ。だからこんなに苦労する羽目になる」


「そうですね。だけど、どこか違うんですよね。今回のケースは背景に何が起こっているかはまだわかっていないんですが、表に出てきている面、つまり現象は具体的なんです。恐ろしいくらいに。沙夜子さんの結界陣で姿が現れたように、あやかしが引き起こしていることは間違いない。でも、椿さんの場合は違う。なんというか、全体的に靄が掛かっているというか。そう、曖昧なんです。怪異はあるはずなのに、その形があまり見えてこない。話を聴いても問い掛けても深い霧の中にいるような感じです。出口どころか入口もわからないと言えばいいのか」


 ちょうど森の中に迷い込んだよう、と吉良は思った。椿の話を聴いていると、方向感覚がズレていくような感覚がある。進んでいるようで足踏みしていたり、あるいは後退していたり、ぐるぐると同じところを回っているような。


 月岡はまたタバコに手を伸ばして、しかし止めた。代わりなのかどうなのかわからないが、窓を開閉する。


「それだと、まるで化かされているみたいな言い方だな」


「そう、ですか?」


 月岡の言葉の意図を上手く理解できなくて、吉良は横顔を見た。男らしい、という表現が似合いそうな強面だが端正な顔立ちが、今の天気のように曇って見えた。


「そう言えば……」


「なんだ?」


「あの、気に障るようだったらすみません」


「なんだよ、そういうのがめんどくさいんだ! さっさと言え!」


「は、はい。……あの、病院で確か狐がどうのこうのって」


「ああ」


 と言ったきり、車内には沈黙が訪れた。やはり触れてはいけないことだったのか、とまた窓の外を眺めると、雨が降り始めていた。目では捉えにくい細雨が窓に点々と水滴を付けていく。ワイパーが一度、上がった。


「狐はな。侮辱の言葉だよ。あいつらは、本部の連中はな、そう言ってバカにしてるだけだ。気にしたってしょうがねぇ」


 我慢できなくなったのか、月岡は結局タバコを取り出すと火をつけて吸い始めた。タバコの匂いが密閉空間に広がっていく。吉良はひっそりと呼吸した。


「なあ、先生。あんたは専門家だろ? だったらぜひ、考えを聞かせてもらいたい。ニセモノの専門家は殺しても構わないかどうかってことについて」

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