食の異常
後の記録によると、それはいつもと何ら変わらない日常から始まったとされている。
「すみません、つまり──端的に言うと現在、何も食べ物を受け付けないと、そういうことですか?」
相談室にしている一階奥の書斎でソファに深く腰掛けながら、
「……そう……です」
たった4文字答えて頷くだけでひどく体力を使うのか、その女性はほとんど聞き取れないほどのか細い声で肯定した。
相談者の名前は
「わかりました。ひとまず──」
吉良が、白坂の様子と症状から最初に連想したのは食の異常だ。相談者は症状が現れるよりも先にサプリメントを常用していたらしく、
そうだとしたら──。
ひとまず、あやかしに理解があって信頼できる病院を紹介し、すぐに受診を促したところで相談者には帰ってもらった。一人残った吉良はコーヒーテーブルに置いた食器をそのままにして、壁際に並べたもはや要塞のようなとパートナーからも揶揄される本棚の中から該当の本を取り出して、テーブルへと置いた。その全てがあやかしに関する図書だ。
──やっぱりそうだよね。
『あやかしとの共生社会のあり方』と書かれた一般向けのベーシックな本の中にもそれは書かれている。餓鬼と呼ばれるあやかしだ。「人に取り憑き食を奪う」と書かれている。
餓鬼は食糧難だった時代に数多く産み出されたあやかしだ。発生原因はわかりやすく単線で飢餓に苦しんだ人々の恨みから生まれた、とされている。時代を経て飽食の時代になってからはその数を減らしているものの、三年前にようやく「あやかし保護法」が制定された以降も全国的に取り憑かれた例が散見されている。餓鬼は欲動や衝動をコントロールすることが困難で、己の性質のままに生きざるを得ないからだ。
パタンっと優しく本を閉じる。
「やっぱり沙夜子さんに相談するしかないか」
左腕に着けた簡素な腕時計に「
書斎を出て2階のリビングへ移動する間に芳ばしいキリマンジャロのコーヒーの香りと、子守唄が降ってきた。リビングではいつものようにパートナーがまだ生まれて一月にも満たない子どもを寝かしつけながらソファにゆったりと腰掛けていた。
「お疲れ様」
穏やかな
「ありがとう」
目礼をして小さな我が子の成長の早いくしゃくしゃの髪の毛を撫でた。母親に似たかわいい瞳がうっすらと開いたと思ったら眠気に負けて垂れていく。
途端に快活なメロディが弾けた。
「もしも──」
『吉良! 悪いけど至急こっちへ来て!!』
*
快眠を妨げられて泣き喚く我が子の声がまだ耳に残っていた。遅くなりそうというメッセージをパートナーの
電話の主は今すぐ来てと簡単に言うが、面談や相談ケースの検討、報告書の作成、と仕事は山積みだった。確かに
結局、この日予定していた面談だけは断ることができずに、ファミリータイプの中古の軽自動車を目的地まで走らせる頃には街並みは夕陽に染まっていた。なにせ面談者は隣県に住む高齢の女性だ。それも数年前の面接開始から何かのジンクスのように毎月第一水曜日に欠かさず通ってくる。他の仕事は調整できても、このカウンセリングを断ることは忍びなかった。
血の色みたいな赤い夕陽が、
元々体が強い方ではない。さらに精神力も強いわけではない。出産という人生に何度もない大きな出来事に際し、吉良はいつも通り動揺して助産師の指示とパートナーの叫びに近い訴えの間を右往左往することしかできず、出産につきものの出血を見るだけで卒倒しそうにもなった。
眼鏡を上げてなんとはなしにバックミラーを見ると、なんとも冴えない顔がちらりと映った。具合が悪そうな青白い顔に、眠そうな目。自分でも思うが、覇気の欠片も感じられない。
自然とため息が漏れ出る。昔からそうなのだ。トラブルに巻き込まれても我慢するか逃げるかだけ。自ら立ち向かっていくことができない。
だからなのか、吉良はこれから久しぶりに会うことになる二年も下だった高校の元後輩の強気な顔を浮かべて重苦しい気分になっていた。
両側四車線から二車線、それから一車線へと道路の幅が狭くなっていくにつれて、人の気配も車の気配も消えていく。以前はこの道にももう少し家屋が立っていたものだが、とだいたい一年前くらいの記憶と照らし合わせながらさらにゆるやかな坂道をひた走ること、十数分。小高い丘の上に目的地の姿が現れた。
「綺麗なままだ」
吉良はそう呟くと、懐かしさに少しだけ頬を緩める。
寺だ。それも小さな。寺の名は
過去に一度崩壊して新築しただけあって、門もそこから続く本堂も明るい雰囲気を醸し出している。もっともすでに時刻は夜の時間帯に入ってきており、薄暗闇にぽっかりと浮かぶその姿は寺院独特の畏怖の気持ちを呼び起こすのだが。
車を停めると同時に吉良は左腕につけた腕時計を見た。時間は六時を少し過ぎたあたり。メッセージが一件送られてきていた。
【お土産待ってます】
吉良は苦笑した。遠くとは言え同じ市内なのだから何をお土産なんて、と思ったが、窓の外に目を向けて考えを変えた。
本堂の前には
鬼灯は、魔除けの効果があるとされている。真偽はもちろん定かではないしどちらかというと吉良は信じてはいなかったが、親としては生まれたばかりの子どもの健康を願うと験担ぎでもいいから信じてみたくなるのは自然なこと。それに同じく『鬼』の字がつく鬼救寺に植えられた鬼灯ならば、何かしらのご利益はありそうだとも感じてしまう。
後でもらえないか聞いてみようと決意を固めつつ、ドアを開ける。シャ、シャ、シャ、とわざわざ本場、
寺の管理人でもある柳田沙夜子は、確か車を保持していない。それに主張の強いこの車は絶対にと言い切れるほど彼女の趣味ではなかった。──と、なれば当然誰かが先に来ていることになる。
突然の来客の可能性もある。だけどそれ以上に考えられることは関係者──つまり沙夜子が焦ったような甲高い声で呼びつけた何らかの出来事の関係者である可能性の方が高かった。
京からは遠いこの
痩身のあの依頼人と関係する誰か、と吉良は当たりをつけて本堂までの道を進んだ。依頼人はまだ23と言っていたし、心配した親がこちらへ相談に来たのかもしれない。あるいは、恋人か。当事者以外の人間から話を聞けるのはありがたい。本人では自覚できない多くの情報、特に生育歴が事細かに聞けるかもしれない。
本堂への扉を開くと、沙夜子の物と男物の靴が一足。奥を覗くとすでに襖は開かれており、男が座布団に座って沙夜子と対峙していた。
張り付くようなピリピリした空気が伝わり、吉良の背中に鳥肌が立つ。緊迫感の漂う雰囲気がのんびりとしていた自身の予想が全く外れたことを教えてくれた。
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