1-3
「わからんだろう! イリーの無責任な言葉のせいで魔王様が体調を崩されたらどうする!」
遅れてクトロスはイリーに反抗してくる。いつものことなので、イリーは特に気にすることもない。
「それに魔王様。植物の水やりなど私たちがやります。貴方様がわざわざやらないでも……」
「クトロス。何度も言っているがな、出来るだけ自分のことは自分でやりたいのだ。 その意志をお前は奪うというのか?」
「……いいえ、そういう訳では……」
それでもクトロスは納得しきれないかのように何か言いたそうにしている。魔王さまははたきを置くと、ゆっくりした足取りで魔王さまが座るに相応しい、座り心地と見た目を拘り抜いた椅子へと座り込む。 足を組み、机の上で指を絡ませると微笑んだ。
「さて、報告だったな?」
その言葉が出るとクトロスとイリーは、さっきの和やかな空気とは一変、真剣な表情をして即座に机の前へと移動する。
「はっ。本日、人間の虐殺に向かった場所は東に位置するロロトンという国です。虐殺した人数は――」
「あーよいよい。細かい報告はいらんと言ってるだろう。俺が聞きたいのは一つ。……ちゃんと絶望を与えられたかどうか、だ。」
「それは勿論しっかりと。それが私たち従者の存在意義ですので」
「イリーは?」
「もちろんです」
にかりと笑う。 最後に見た小さな兄妹の兄の眼差しが脳裏に浮かぶ。
「世界の滅亡の方はどうだ? 進行していたか」
「それはもう! 寒くて寒くて仕方ないですよ! 人間たちもみーんなガリガリで栄養不足! 世界の終わりも近いですねえ」
クトロスが答える前に明るく元気に話すイリー。 まるで世界が終わることに対してなんとも思っていないような態度だ。
「勇気ある者はいたか?」
「いません! だーれも、自分のことで精一杯!」
クロトスは自分も喋りたそうにしているが、イリーは自重を知らない。
「そうか……。 二人とも、よくやった。 さてイリー、何か気になっていることがあるな?」
壁に掛けてある時計をちらちらとと気にしていることを魔王さまは見逃さない。 もうそろそろマフィンは焼き上がっている頃だ。 魔王さまにこの事を伝えるのも良いタイミングだろう。
なんたって焼きたての熱々だ。このために私は使命を早く切り上げて帰ってきたのだ。
「魔王さま、知ってます? 今日はスターストがマフィンを焼いてるんですよ。十五時十五分に焼き上がる予定だと言っていました」
時計を見ると十五時十分を針が示している。
我慢できず魔王さまにマフィンのことを伝える。 お菓子は焼き上がりが一番おいしい。 それなのにスターストはお菓子を作ることも焼き上がる時間も魔王さまに伝えることはしないのだ。
「だから時計を見てソワソワしていたのか」
魔王さまは軽く微笑み時計を一瞥した後、言葉を続ける。
「クトロス、他に報告することはあるか?」
「いいえ、特に問題事もなくしっかりと終えました」
「それじゃあ、さっさと着替えて焼きたてのマフィンを食べてくるといい。これで報告は終わりだ」
「魔王さまも一緒に食べに行きませんか?」
「俺はいいよ。後でお茶会をするだろう? その時で構わない」
「えー! でも魔王さま、焼きたてのマフィンは生地がふわっふわなんですよ! それはもう、これ以上ないってくらい幸せを感じるくらいの――」
「魔王様は断っているだろうイリー!」
「えーでもーほんとうにおいし――」
「うるさい!」
するとクトロスはイリーの耳を引っ掴んで、扉のほうへと引っ張った。 人間ではないけれど、痛覚はあるのでイリーは「あたたた」と騒ぎながらクトロスに引っ張られてゆく。 その様を魔王さまは微笑ましそうににこにこと見ていた。
「イリー、お前はマフィンの一つも我慢出来ないのか! 恥ずかしい」
魔王さまの個室を出るとすかさずクトロスが大きな声で怒る。 そんな声の大きさでは扉向こうにいる魔王さまにだって聞こえているだろうに我慢は出来ないらしい。
「いだだだだ! だってこのために早く帰ってきたんじゃない!」
耳を引っ張られたお返しにイリーはクトロスの足を思いっきり踏んでやった。毎日欠かさず磨いている立派な靴をだ。
「うわっ、イリー!」
驚いて隙が出来た瞬間イリーはクトロスの声を無視して駆け出す。
「熱々のマフィンが待ってますのでー!」
大丈夫、あの顔はいつもの怒ってる顔だ。本気で怒っている訳ではないから、大したことはない。
ふわりふわり、と結われている青みがかった黒髪を揺らしながらイリーは走り去った。
自室へと辿り着くとイリーは服を脱ぎ捨てながらクローゼットへと向かう。一分一秒が惜しいのである。 だが、スターストの作ってくれた大切なはずの洋服を床やベッドに脱ぎ捨ててしまうのはいつものことである。
今日はワンピースの気分。人間の前に出るときは必ず正装の礼服であるが、城ではどんな服装をしていようが自由だ。けれど色は決まっている。闇色か碧色。終わりと死を表す色。人間たちはこの二色を不吉な色として身に纏うことがないが、イリーは好んでいた。この二色はイリーたちを表す色だから。
何種類もあるワンピースの中から一つを選び抜き、体に付着している血をタオルで拭ったあと、ワンピースに足を通す。
ついでに靴下や靴も合わせて変えて、姿鏡の前に立つ。
碧みのある闇色の髪を碧いリボンで両端に高く結い上げ、鮮やかな碧を宿した吊り目の瞳。身長は少女らしい一六二センチ。体重は五一キロ。先ほど着たばかりの闇色のワンピースには碧色でお菓子の刺繍が縫われている。可愛いらしいワンピースに合わせた一〇センチヒールのパンプスもバッチリ似合っている。
うん、なんて可愛らしい美少女だろう。
さすがはイリーである。
鏡に映る自分があまりにも完璧で自然と笑みが浮かぶ。決め顔だってしちゃう。
さて、忘れていたけれど、こんなにも猶予に自分の姿を見ている場合ではない。
わたしの目的は焼きたてのマフィンだ!
バタン! と大きな音を立てて雑に扉を閉めると廊下を走り出す。
廊下を走っているのがクトロスかスターストに見られたら怒られてしまうが、そんなことは気にしていられない。 この広い城のなかをちんたらと歩いてはいられない。
キッチンへと辿り着き勢いよく入る。 すると、途端に甘い匂いが部屋を充満していて嗅覚を刺激した。
これはマフィンの匂いだ!
キッチンにはエプロン姿のスターストが立っている。天板に乗っているいくつもの黄金色に焼けたマフィンをお皿に移しているところのようだ。
「ああ、イリー――」
「マフィン!」
スターストへ挨拶する時間すら惜しいイリーはお皿に乗っているマフィンの前まで行くとすぐにわし掴みをする。
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