天使の子
尋道あさな
戸羽美歌の苦難
綺麗だ。芸術だ。まるで精巧な人形だ。
現代に舞い降りた天使。
この世のものとは思えない美貌。
繊細な指先は旋律を奏でるために神が与えたものだろう。
――なんて馬鹿馬鹿しい!
戸羽美歌(とばよしか)は今すぐにでも鞄を壁に投げ付けて、教室中の机と椅子をすべて蹴り飛ばし、目の前の気持ち悪い集団を散らして暴れ回りたいくらいだった。
これはもう宗教だ。間違いない、宗教だ。
彼らはとりつかれている。
洗脳されているのである。
つらつらと並べられたおべんちゃら(行き過ぎた賛辞)は当然のごとく美歌に与えられたものではなく、美歌の幼馴染みに与えられたものだった。
当の本人は面倒そうに欠伸をして、のんびりと美歌を眺めている。
そんなことをする無駄な時間があるなら、今すぐにこの信者たちを追い払ってくれ!――と美歌は切実に思う。
しかし、幼馴染みはそうしない。
美歌が何度お願いしても「めんどうくさい」と言い放ち、自ら動こうとしない。
ああ、なんて神様は無慈悲なのだろう。
こんなに善良で害のない、真面目を体現したような私(美歌)をどうして助けてはくれないのだろう。
信者は語る。
美歌の幼馴染みがどれだけ素晴らしい存在なのかを、どれだけ美しく尊い人であるかを一心不乱に語る。
正直なところ、美歌はもう聞き飽きた。
知っているのだ。美歌は己の幼馴染みがそんな存在ではないことを知っている。
人間として素晴らしくもないし、尊ばれるような存在でもない。彼は間違いなくこの世の者で、天使でもなければ人形でもない。
奏でる旋律は確かに美しいが、奏でている際の思考は美しくない。
何を考えて楽器を奏でているかと聞けば彼は「夕飯のメニュー」と答える。
どんな曲でもどんな状況でも、そんなちっぽけでどうでも良い思考しか――彼は働かせていないのだ。
そういう人間なのだ。
周りからどんなに褒められようが、どんなに尊ばれようが、彼は何にも考えていないしそもそも興味がない。
自称信者が教団を作っても、勝手に教祖にされても、何度もコンクールで優勝しても、世界的に有名な楽団から「一度会ってみたい」などと言われても。
すべて、興味がないのだ。
先祖返りという言葉がある。
リトアニア共和国出身の祖母がいる彼は、正真正銘天然ものの見事なプラチナブロンドを持つ。
この学校にいる生徒で、天然で色素が薄いといえば生徒会の方々だろう。
その方々を除けば、校内の生徒の中では彼ひとりと言うことになる。
そして、まことに畏れ多いが有名な生徒会の皆さま方よりも彼の顔は整っており、見事な左右対称という美の究極にまで彼は及ぶ。
更に言えばそんな彼が音楽の世界に足を踏み入れ、尚且つ才能があるというのだから神様はとても理不尽だ。
――花崎透旋(はなさきとうせん)
高校二年、吹奏楽部、美化委員会。
肩書きこそ普通ではあるが、信者を抱える教祖である。
彼のご両親は「“透”き通った心を持ち、人生において“旋”風を巻き起こすような素晴らしい人間になるように」と、いっそわがままなくらいの願いを込めて命名したらしい。
そして、透き通った心は持たないまでも、周囲に旋風を起こすくらいには彼は美しく育った。
“透”明な“旋”律を奏でる、素晴らしい教祖さまに。
透旋(とうせん)は昔から、多くを語らない。幼馴染みの美歌には例外だが、かなりの人見知りで人と話さない。
しかしながら美歌は思う。
――透旋。いい加減にしろよ、と。
美歌と透旋の付き合いはじめを思い出そうとすると、必然的に出会からなので幼稚園時代まで遡る。
鼻を垂らしていたあの頃だ。
美歌は鼻を垂らしていなかったが、透旋は垂らしていた。鼻水を大量に垂らして、ジト目ながらに美歌を見つめていた。
「よしかちゃん。おれ、よしかちゃんとマカロニだったら……たぶん、よしかちゃんのほうがすきだ」
おおっと。
遡っていたら余計なことを思い出してしまった。
美歌は慌てて思い出を仕舞い込む。
こんなことはどうでもいいのだ。
出会いを思い出したいのだ。
「よしか?おなまえ、よしかっていうの?おれ、とうせん」
そうそう、これだ。出会いだ。
「よしかちゃん、いいにおいがする。けっこんしよう」
――しまった。
遡ってもあんまり意味がなかった。
美歌はとりあえず出会いをすっ飛ばすことにした。
小学生時代。
鼻水は垂らさなくなったが、透旋は相変わらず何を考えているかわからないボーッとした目付きで、美歌のことをひたすら見つめていた。
「よしかちゃん。おれ、よしかちゃんとタンバリンなら……たぶん、よしかちゃんのほうがすきだ」
――あの頃は若かった。うん。
中学生時代。
「俺、美歌ちゃんのこと……ヴァイオリンよりずっと好きだ」
――ああ、うん……。
現在。
「俺、美歌ちゃんがいるなら……音楽なんて捨ててもいい」
透旋はいつも、美歌を何かを比べては、美歌の方が好きなのだとずっと言い続けてきた。
そして、美歌はただの一度も――透旋の想いを受け入れたことがない。
好きだとは言われても付き合いたいとは言われていない。透旋はいつも美歌を好きだと言いながら、その先を望まない。
だから美歌はこう言うしかない。
「ああ、そう、ありがとう」と。
中学生時代から透旋の周囲は変わった。それはもう激変した。
小学生時代の後半も徐々に変化を感じさせたが、中学生時代とは比べるべくもない。
透旋はまるで神のように扱われ、俗世間での付き合いを否定されてきた。知らないところで境界線が作られ、知らないところで不文律が作られ、知らないところで崇められた。
美歌の立場はこうである。
神に選ばれし人間の使徒、人間と神との唯一の架け橋。
まったく馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿しくてどうしようもない。
いっそ、誰かが透旋に憧れて恋慕の感情を抱いてくれればこんなことには――ならなかったかも知れないのに。
行き過ぎた美貌というのは、人の許容範囲をあっさりと外れるらしい。
恋愛対象としても、友人対象としても。
透旋の周囲にいるのは、信者か傍観者のどちらかだ。神になど話し掛けられないと思うか、触らぬ神に祟(たた)りなしと思うか。
人間離れした外見、多くを語らない性格。
透旋はあまりにも――マイペース過ぎたのだ。
他人に合わせることができれば、或いは本人が社交的であれば。もっと違う人生を歩めたのではと美歌は思う。
透旋のご両親は美歌に「透旋にとって身近な存在でいてあげて」と言った。うっかりするとご両親でさえ、透旋に見惚れて崇めたくなってしまうと言う。
気持ちはわかる。気持ちは。
しかし、美歌は透旋を見て綺麗な顔してるなこんちくしょうとは思っても、見惚れて崇めたくなるようなことは一切ない。
小さい頃から透旋を見ていてそんな気持ちにはなれない。ご両親だってそうだろうに、と美歌は思うが、そうではないらしい。
まったく難儀な存在だ。
花崎透旋という男は。
「戸羽さん、花崎様に供物(くもつ)が届いて……」
「申し訳ありませんが、供えた人たちに全部返して下さい。供えられても受け取れないって全員に伝えておいて貰えます?」
「戸羽さま!花崎様の髪の毛をお守りにしていた罰当たりな生徒を見つけました!どう致しますか?」
「……別に何もしなくて良いです。お守りは生徒会の皆さま方に許可を貰ってから焼却処分して下さい」
「戸羽美歌さん!花崎様は本日部活動にご参加を頂けますでしょうか!」
「今日はコンクールの為にヴァイオリンの先生が家に来るとか何とか……多分、参加は無理だと思いますが」
――透旋。いい加減にしろよ、と。
高校に入って一年と約半年。
美歌はほぼ毎日と言っていいほど、透旋の代わりに生徒たちへの対応を続けてきた。
まともな生徒たちはあまり近付きたがらない麗しの生徒会の皆さま方にも、透旋の代わりに接してきた。
すべては透旋のため、余計な軋轢(あつれき)を招かないため、美歌自身の平穏な生活のため、ご両親たってのお願いのため。
ずっとずっと、美歌は頑張ってきた。
透旋はあまり人と話したがらないから、と透旋を思って頑張ってきた。
けれども我慢もそろそろ限界だ。
透旋がテレビに出たのだ。
番組自体は大きくないが、その中でも最大の尺で透旋が特集されたのだ。
若きヴァイオリニスト、花崎透旋のドキュメンタリー。
番組を構成した人は、とてもとても困っただろう。透旋は殆ど話さなかったのだから。コメントもろくにしていなかった。
しかし、効果は絶大であった。
以前にも増して透旋の信者は透旋こそが世界に羽ばたく存在だと確信し、そのうち世界を掌握する存在になりうる――と、馬鹿馬鹿しくて涙が出るほどの可能性を見出だしている。
大人はそんな馬鹿みたいなことは言わないが、それでも透旋に可能性を見出だしている。
美貌、才能、家柄。
創業当時は翻訳を売りにしていたという透旋の父の会社は、海外での書籍を輸入して許可を得て翻訳して販売する――今や、大手出版会社になっている。
大人は透旋に素晴らしい可能性を見出だして、姑息にも息子や娘を使って透旋に近付こうとする。その娘や息子たちがこぞって透旋に洗脳されてしまい、大人たちは仕方なく私に透旋への道筋を求めた。
透旋(神)へ向かうことは許されない。
だから、戸羽美歌(使徒)へ。
透旋がテレビに出てから、一ヶ月。
美歌はついに、堪忍袋の緒が切れた。
「透旋!いい加減にしてよ!もうこんな生活うんざり……!」
バァンッ!と今まで蓄積された怒りを放出するように、美歌は自分の机を叩いた。
透旋へのお願いや報告、ご機嫌窺いや招待などが美歌に告げられていたとき。
ふいに透旋を見ると、彼はすっかり眠っていて――あまつさえ、幸せそうにふにゃりと笑っていた。
その寝顔を天使みたいだなんだと言う奴らもたくさんいたが、美歌は「天使って神の使いなのよ!あんたたち神だって透旋を崇めている癖に、そんなことも知らないの?馬鹿じゃないの!」と苛立ちしか覚えない。
突然に机を叩いて立ち上がった美歌へ、周囲の困惑が集中する。
透旋は眠気眼(ねむけまなこ)で美歌を見たが、すぐに美歌の怒りに気付いて立ち上がった。
「美歌ちゃん……?」
「もう、嫌。嫌なの、嫌なのよ。なんで私が、いっつも私が!」
「美歌ちゃん、落ち着いて。俺、美歌ちゃんに怒られると……」
「怒らせてるのは誰よ!あんたが何にも言わないから、あんたが自分でなんとかしようとしないから、私が、私がやるしかなくて……!」
ずっと、美歌は我慢してきた。
高校では部活も諦めて、委員会にだって入らなかった。
中学の時に部活や委員をしていたら透旋のことで何度も何度も呼び出されて、まともに部活も委員もできなかったからだ。
部活は途中で止め、中学二年の時点で既に何の委員にもならなくなった。
教師も生徒も美歌に任せる。
透旋のことはすべて美歌に任せてしまう。
透旋は相変わらずマイペースで、携帯にだってご両親と美歌の名前しか登録していない。登録されていない番号からは、電話を受け付けないようにしている。
多忙だからと言って、ご両親でさえ――美歌に透旋のことを聞くことが多いのだ。
異常だ。何もかも。
透旋を取り巻く環境も人も、すべてが異常だった。
「もう、やだ……もう我慢できない……」
返して。
私の、十数年間。
私が過ごす筈だった、普通の人生を。
「透旋。私、透旋と――出逢う前に、戻りたい……」
堪らず嗚咽がもれた。
ひっく、としゃくりあげながら涙を溢れさせて泣く美歌を見て、透旋は顔色を真っ青なものに変える。
――約十五年。
堪えてきた美歌の堪忍袋はついに緒が切れる。
その日、美歌の携帯電話から透旋の名前が消えた。
そして、翌日の土曜日。
美歌の家にあった透旋のものすべてが、透旋の家の玄関の前に、段ボールごとおいてあった。
日曜日を迎えても、美歌は部屋に閉じこもったまま、家にきた透旋をついに受け入れることはなかったのである。
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