第30話 #30


 目が覚めた。部屋はまだ真っ暗で、枕元にある加湿器がしいしいと音を立てているのだけが聞こえてくるくらい静かだ。窓の外からは車が通る音や鳥のさえずりも聞こえない。もぞもぞとベッドの中から手を伸ばし頭の上に置いてあるスマホの画面をつけると、時計は4時半を少し過ぎた頃だった。まだ眠りについてから2時間くらいしか経っていないのに、これ以上眠れる気が全くしなかった。ゆっくりと体を起こしてみると、普段よりも目がぱっちりと開き、頭の回転も普段よりしてそうだった。ただ、それと同時にやたらとそわそわと心の中で何かが蠢いているようでどうにも落ち着かなかった。


 「そういえばお風呂入ってないまま寝ちゃってたな……」


意外にも軽い体を軽快に動かし、先生を起こさないようになるべく物音を立てずに階段を下りていく。ひんやりとした空気が私の体の体温を下げているように思えて、私の足を一層お風呂場へと急がせる。手元に持った下着が落ちそうになりながらそこへ向かい、他所行き用のベージュのセーターとお気に入りの黒いスカートを脱いでいく。そういえば下着もお気に入りのをつけていながらも洗濯をし損ねたので、少し多めに洗剤と柔軟剤を入れて洗濯機の電源を入れた。お風呂場のドアは閉めてしまうとかなりの防音性があるので、少しくらい大きな音を立てていても2階で寝ている先生を起こすことはないだろう。


衣類を全て脱ぐと、早くお湯を浴びてくれと自分の体に急かされているくらい体がぶるっと震え、お風呂場に入った。先生の使っているリネンの匂いのするシャンプーの残り香がほんのりと残っていた。つい数時間前に先生はここで今日の疲れを癒してたんだ。って、何考えてんだ、私。いつものことだ。洗面所だってお手洗いだって、このお風呂場だって共用だし、毎日今と同じように過ごしている。それなのに、今は何故だろう。余計なことばかり考えてしまう。やっぱり先生は、私が帰ってくるまで起きていてくれたんだじゃないかな。


 「何なのよ……。もう……。勝手にそういうこと考えたりしない!

変に期待なんてしない!」


自分の心に言い聞かせるように強めに声を出し、それと同じくらい勢いのある水でシャンプーとボディソープを洗い流した。さっきまで香っていたリネンはどこかへ行ってしまい、私の使っているバラの香りのするシャンプーの匂いが辺り一面に広がった。


すっかり温まった体を保温しながら、体についた水滴をバスタオルで吸い取るように押さえていく。このタオルにも先生のにおいがふわっと香った。あまりにもいい匂いに思えたそれを私はしばらく顔に押しつけた。あぁ、この時間……。いいかも。案外、好きかも。いやいやいや!


 「何言ってんだ! 私は変態か!」


やっぱり先生は危なすぎる。その匂いだけで私の意識がどうにかなってしまう。我に返った私は慌てて全身の水滴を拭き取り、部屋着に着替えて朝のルーティンに取り掛かる。やっぱり今日の私はどこかおかしい。昨日にお酒を飲み過ぎたのだろうか。いや、でもその後には炭酸のジュースもいっぱい飲んだし、それなりに運動もできた。時間差で酔いが来ることなんてこれまで無かったはずなのに。


 「おかしいなぁ……。無自覚の病気の初期症状だったりしてな」


作業場の隣にあるリビングの特等席であるテーブルの左端、フワフワのベッドの手前にあるスペースにすっぽりはまるように腰を下ろし、ドライヤーのスイッチを入れ、勢いよく髪を乾かしていく。それと同時にメイクの下地を整えていくという同時進行。朝はいかに効率よく自分を動かすことが出来るかでその日の頭の回転具合が分かる。今日の私はやっぱり冴えているのだろう。どんどん準備が整っていく。まだまだ出かけるには早過ぎる時間なのに。先生は起きてすらいないのに。そう思っていたら、ドライヤーの音に混じりながら階段を下りてくる足音が聞こえてきた。しまった。ドライヤーの音で起こしてしまったかな。


 「おはよう。相変わらず早起きだね、雫さん。休みの日なのに」

 「お、おはようございます! ごめんなさい、音で起こしちゃいましたよね!」

 「ううん。そんなことないよ。それに、さすがにもうちょっと寝ようかなって思っててトイレに起きたんだよね。お腹痛くてさ」

 「そうだったんですね! お腹、冷やしちゃダメですよ」

 「あはは。ありがとう。シャツ、ズボンに入れてもっかい寝るよ」


えへへと笑っている先生は、どこからどう見ても私より歳上には見えない。普段も若く見える先生だけれど、このヘラッとした笑顔と、ダボダボの全身グレーカラーのスウェット姿と、寝癖によってボサボサでくしゃくしゃになった髪の毛を見ていたら、大学生が夜更かしをしてゲームをしていたような姿にしか見えない。ゆっくりのしのしと歩きながらトイレの方へ歩いていく背中がドアを開けた頃に私の髪の毛が乾いた。伸ばしているつもりはなかったけれど、気がつけば私の髪の毛は鎖骨ぐらいにまで伸びていて髪を乾かすのにも徐々に時間がかかるようになっていた。その髪を後ろで束ねて洗顔料や乳液をつけていると、トイレから出てきた先生がニヤニヤしながら私を見ていた。


 「な、何ですか? 先生。その顔は……?」

 「いや。普段とは違う、オフの時の雫さんって久しぶりに見たなぁって思ってさ。なんか家族みたいに思えて」

 「か、家族……ですか?」

 「あぁ、ごめんごめん。変なこと言って。今日はその髪型で行ってくれるの?」

 「いえ。またあとでコテで巻いたりしようと思ってましたけど、何でですか?」

 「そっかぁ。そのポニーテール、可愛いなぁって思ったから」

 「な、何をっ……! こっ、これは外出時にはしませんよ!」

 「あはは。じゃあ今それを見れてる僕はラッキーだね。今日はよろしく。雫さん」

 「は、はいっ……! お願いします! もう、馬鹿にして……!」

 「ん? なんか言った?」

 「言ってませんよ! 早く眠っててください! おやすみなさい!」

 「はーい。おやすみ。また後でねー」


            *


 「お待たせ。雫さん。あれ、ポニーテールじゃん」

 「二度目ですがおはようございます。さっき、先生があんな風に言ってくださったので今日はポニーテールで行動することにします」

 「ふーん……」

 「なんですか、ふーんって」


椅子に座っている私の周りをゆっくりと一周回りながら私をじっと見つめる先生の目つきは、仕事の時と同じくらい鋭いものがあった。その真剣な目と視線が合い、私は反射的に視線を外した。先生の身に纏っている香りがあからさまに私を誘惑する。何だこの状況。


 「やっぱりその髪型、可愛い」

 「はっ……!」


次に目が合う時には、先生はいつものようにへらへらと笑って優しい笑顔を私に向けていた。私は自分の中の感情がついていかない。声にならない声を自分の口の中で悶えさせた。


 「からかってるのなら、すぐに下ろします……!」

 「あぁ、やめてやめて。からかってないよ。本心だから」

 「次言ったら下ろしますからね?」 

 「ほんとのことしか言ってないのに」

 「先生の言葉は、もう、言葉が出てこないのでいいです……! ほら、先生! 準備ができてるなら行きましょうよ」

 「あぁ、行こう行こう。久々の休日お出かけだね」


心の中に積もっていくモヤモヤしたものを吐き出したくて私は立ち上がったのと同時に先生の方を振り向いた。先生の垂れ目とじっと目が合う。私は逆に目に力がつい入ってしまう。そしてそのままの状態で先生に言葉を届けてしまう。


 「今日の先生は普段よりもずっとカッコいいですよ」

 「え……?」


思いもよらぬことを聞いた。そんな風に顔に書いてあるような気がした先生の顔は、私としては少し予想外だった。何やら恥ずかしい沈黙が生まれ、私はたまらず玄関を勢いよく開けた。これから出かける私たちを迎えに来てくれたように暖かい日差しが私を照らした。


 「ほら、先生! 今日は私が運転しますから」

 「う、うん。やっぱり今日の雫さんは不思議だ」

 「不思議って何ですか。私はいつだって私です」


先生が豆鉄砲を食らったのをこの時初めて見たような気がした。鳩よりは可愛いよなと自分で自分を納得させると笑いが少しずつ込み上げてきた。。仕返しが成功したように思えて嬉しかったのか、私は気分が高まったまま先生を助手席に乗せてアクセルを踏み込んだ。1曲目に再生されたのは、私がここ最近で一番聴いているアッポテンポの曲だった。その曲が今の私を後押ししてくれているように思えた。がんばれ、今日の私。隣に座る先生は、いつの間にか普段通りのヘラヘラ顔に戻っていて、また少し笑えた。

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