第22話 #22


            ✳︎


 『雫ちゃん……』

 『雫……』

 『しんどい……よな……。ごめん、力になれなくて』


家の扉を開けると、目の前には色んな懐かしい人がいた。特に幼馴染の瑠璃の涙を流している顔を見ていると、私もつられて胸が苦しくなった。


 『ごめん。みんな。ちょっと今は1人にさせてほしい……。せっかく家まで来てくれたのに。多分、当分学校には行けないや。じゃあね』


玄関で立ち尽くしているみんなから逃げるように背を向けて扉を閉める。閉じる瞬間に視界が真っ暗になり、次に景色が見える頃にはいつも寝ている部屋の視界になっていた。もぞもぞと毛布から手を伸ばしスマホを取る。画面を開くと、2時15分だった。また夢を見た。私は最近よく夢を見る。それも、あの頃の夢を。私が一番辛かった時期の記憶だ。



________それは突然の出来事だった。


いつものように18時まで部活でグラウンドを走り回り、ジャージから制服へ着替えスマホに手を伸ばすと、そこには知らない電話番号からの着信履歴が5件ほど残っていた。気持ち悪さと一緒に少し怖さを感じ、インターネットでその電話番号を検索すると、それは市内にある大きな病院の電話番号だった。病院? 最近病院なんか行っていないけどな。と疑問に思いながら電話をかけ直すと、2コールぐらいの短い間隔でそこと電話が繋がった。


 『あ、あの、すみません。さっき何回か電話をもらっていた碓氷雫という者なんですが……』

 『う、碓氷さんっ! すぐにこちらの病院へ来れますか!? ご両親様がとても危険な状態です……!』


私が自分の名前を告げると、病院の方が慌てた様子でそう言った。私の頭がその言葉を理解するのに時間がかかった。ご両親? 2人とも? とても危険な状態? どういうこと? 私は全ての疑問を頭の中に詰め込んだまま学校から自転車を全速力で漕いで病院へ向かった。病院のロビーへ行くと、まるで県大会でも開催されるのかと思うほどの多くの人がいた。病院って、こんなに人が集まる所だったっけ? そんなことを考えながら受付の方へ行き、おそるおそる私が名前を言うと、それを聞いていた1人の綺麗な看護師が私の元へ近づいてきた。その目は涙を流すことを拒んでいるかのように滲んでいた。


 『碓氷雫さんね?』

 『は、はい! あの、私と父と母は……』

 『こちらへどうぞ……』


その人に導かれるがまま私は後ろをついていった。すれ違う看護師の人たちも慌ただしく走っていく。ただ、その数が異様だった。病院に来ることがそもそも少なかった私だけれど、流石にこのざわめきと人の数には違和感を感じずにはいられなかった。胸の中にずしりと重い何かを抱えたような気持ちのまま看護師の後を歩いていくと、その人はドアの前で今にも泣きそうな顔を私に向けて立っている。


 『黙ってあなたをここまで連れてきてごめんなさい。心の準備が出来たら雫さん。あなたがここのドアを開けてください』

 『は、はい……』


開ける前からこのドアの向こうにはどんな光景が私を待ち受けているのかはある程度分かった気がしている。それなのに、腕が動かない。息がしにくい。足に力が入りにくくなって今にも腰が砕けそうになってしまって慌てて手すりを掴んで踏ん張った。目の前にいる慌てた看護師が私を抱きしめるようにして私の体を支えてくれた。ひどく体温が低くなっている私とは正反対のように温かい体だった。


 『大丈夫。あなたのご両親はまだ生きてる。希望を無くしちゃダメよ。あなたが倒れないように私が支える。だから、倒れちゃ、ダメ』

 『あ、ありがとう、ございます……。大丈夫です。覚悟、決めました。でもドアを開ける力が入らないから、先生が開けてください』

 『……分かった。ドア、開けるね……』


その光景を私は今でも鮮明に思い出せる。ベッドの上にいたのは包帯で全身をぐるぐる巻きにされている2人だった。顔も判別出来ないくらいに包帯が巻かれているのに、私はこの2人が自分の両親だということがすぐに分かった。にんにくのような特徴的な鼻の形をしている父さんと、目の下にある2つのホクロがある母さん。私は2人の顔をその目で見た瞬間、心の中で何かが音を立てて壊れた気がした。


 『昼間の大通り。警察に追われていた一台の車両が通行人を巻き込みながら暴走した。もちろん通行人は大勢いてね、その中にいたあなたの御両親がその大事故に巻き込まれたの。今は何とか呼吸が出来ているけれど、こうなってしまうともう目が覚めることは難しいと思う』


これは悪い夢なのだろう。私の家族に限ってそんな凄惨な事故に巻き込まれるはずがない。それとも何かのドッキリだろうか。趣味が悪過ぎる。こんなに人を悲しくさせることを思いつくのはイタズラ好きな父さんだろう。ほら、今にも笑いを堪えきれなくて目を覚ますよ。息、してんじゃん。お腹動いてるし。母さんだって同じように呼吸してるし。この先生が言ってることもデタラメだろう。何やってんの、みんなして。


 『先生、私にウソは通じません。本当のことを言ってください』

 『私はウソなんか……!』

 『これは、父さんが考えたドッキリでしょ? ねぇ、そうでしょ!?』

 『雫さん……』

 『先生……。そうって言ってくださいよ、こんな分かりやすいドッキリ、引っかかるわけないじゃん……!』


少しずつ呼吸が荒くなる。肺の上に気持ちの悪いモヤモヤした何かがあると思うと、次の瞬間、私は盛大に吐いた。母さんたちに背を向けて床に学食で出た食べ物が汚い色をして私の体から飛び出してきた。


 『う、うぅ……。うわあぁ!!』


涙と鼻水も同じように出てきた私の顔はひどく汚れている。汚い臭いも自分で分かるくらいだ。酷い臭いも身に纏っているはずだ。そんな私の体を、この先生は何も言わずにそっと包み込むように優しく抱きしめてくれた。抱きしめられるのはいつぶりだろうか。それも、こんなに人の体温を感じたのは本当に久しぶりだ。心拍数を刻む無機質な機械音だけが部屋にテンポよく鳴っているなか、私は人生で一番泣いた。まず涙を流すことがほとんどなかった私が、自分でもこんなに涙を流すんだと思うぐらい涙を流し続けた。赤ちゃんのように泣き叫ぶ私を抱きしめながら背中を優しく摩ってくれる先生の手のひらを感じながら私は一晩中涙を流し続けた。


 それから3日後に父さんの心臓が止まり、後を追いかけるようにその2日後に母さんの心臓が止まった。涙も枯れたように出なくなり、人としての感情がごっそりと無くなったような状態のまま、バタバタと慌ただしく葬儀が行われた。正直、私はその時の記憶があまりない。たくさんの人たちが2人のお葬式に来てくれたことや、私と同じくらい涙を流してくれていた人たちの姿は覚えているけれど、それ以上は思い出せない。ニュースの取材に来ていたスーツを着た男の人や女の人にたくさんマイクを向けられたことは覚えているけれど、何を聞かれたか、自分がその人たちに何を言ったのかは全くと言っていいほど覚えていない。魂が抜けてしまい、体の中が空っぽになったような状態のまま時間だけが当たり前のように過ぎていった。


            ✳︎


 ピンポーン。


 四十九日も終わり来客が極端に減った頃、久しぶりに来客を知らせる音がリビングに響く。ソファからもぞもぞと体を起こし重い腰を上げ、ゾンビのように足を引き摺りながら歩きインターホンの対応ボタンを押すと、そこにはどこかで見覚えのある女の人がカメラのレンズを覗き込むようにして映っていた。


 『は、はい……。碓氷です』

 『あ、雫さん。お久しぶり。南です。南総合病院の南です』

 『……。あぁ、お久しぶりです……』


思い出した。泣き崩れて吐いてぐちゃぐちゃになった私を優しく抱きしめてくれたあの先生だ。会うのはお葬式以来だった。というか、そもそも人と話すのはいつぶりだろう。久々に強く脈を打つ心臓に少しの痛みを感じ、そこを摩りながら玄関のドアを開けた。午前9時の眩しい日差し。まるで私を消し去ろうかとしているのかと思えるほどの強烈な光を私の全身に降り注いだ。

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