第3話 #3


 「今日はありがとうございました。先生も雫さんも、お世話になりました。雫さん、とっても美味しい料理をありがとう。食後のアイスもすっごく美味しかった。本当に心が楽になった気がする」

 「ううん。京子ちゃんの体が少しでも楽になったのなら良かったよ」

 「先生も提案してくれてありがとう。すごく気持ちのいいお風呂にも入らせてもらって。今日はもう、ぐっすり眠れる気しかしないよ」


京子ちゃんの顔からはホワホワとしたオーラが滲み出ているのが目で確認出来そうなほどリラックス出来ていて充実した表情になっている。うん、施術も食事も上手くいったみたいだ。これなら失恋したショックを乗り越えられるだろう。実際、僕も雫さんが作ってくれた天津チャーハンを食べて体内は完全にホワホワしている。ホワホワって表現、正しいかな?


 「うんうん。効果があって良かったよ。夜は一層気温が下がって冷えるからね。湯冷めしないように体を温めて寝るんだよ」

 「はーい。やっぱり私、先生と雫さんのいるあの店が好きだな」

 「ふふ。嬉しい言葉をありがとう。またメッセージで経過報告待ってるね。僕らの方からも、京子ちゃんの体調がどうか定期的に聞くからよろしくね」

 「うん。分かりました」

 「じゃあ今日はゆっくり休んでね」

 「はーい。今日は本当にありがとう。雫さんもありがとうね! 作ってくれた天津飯、すっごく美味しかった! 絶対、また作ってね」


車の外から助手席を覗く京子ちゃんは、そこに座る雫さんに、ニンマリと満面の笑顔を向けた。雫さんの方を見ると、彼女は京子ちゃんから視線を外し窓の外を向いて軽く頭を下げた。


 「天津飯じゃありません。天津チャーハンです。あなたが名前を覚えてくれたらまた作ります。おやすみなさい」

 「あはは、ごめんごめん。天津チャーハンね! おやすみなさーい! ほんとにありがとうー!」


京子ちゃんを自宅まで送り届け、雫さんを乗せた僕の車のバックミラーにはぶんぶんと手を振ってくれている笑顔の京子ちゃんの姿が写っていた。彼女の晴れやかな表情が見えて安心したのか、ぼくは大きく息を吐いてからアクセルペダルを徐々に踏み込んだ。道路の突き当たりを右折すると、彼女の家は完全に見えなくなった。車内にはしっとりとしたバラードを歌うロックバンドのボーカルの声だけが響く。


 「京子ちゃん、元気そうな顔になってましたね」


歌を遮るように雫さんが窓の外を見ながらそう言った。本人を前にしている時、あんなに塩っぽかった彼女だけれど、やっぱり雫さんは雫さんで京子ちゃんが元気になってくれて安心しているようだ。彼女のこういうところを見れるのは多分、僕だけだ。うん、非常に微笑ましい。


 「そうだね。あれだけ笑顔が戻ってたら心配はいらなそうだよね。まぁ、多分その7割ぐらいは雫さんの作った天津チャーハンのおかげだと思うけど」

 「先生、それは言い過ぎです。さすがに」

 「そう? でも雫さんさ、完成したチャーハン味見してた時、これは美味しいって思った表情してたよ」

 「そ、そんな表情してないです……!」

 「ふーん? 僕の勘違いかなぁ」

 「はい。きっとそうです。あと、私が作ったのは天津チャーハンです」

 「はは、そうだったね。ごめんごめん」


助手席では声を荒げたりツンツンしている雫さんだけれど、鼻の頭を数回指で撫でているのが横目で見えた。それが何とも雫さんらしいなと思えた。車内にはバンドのバラード曲が終わり、僕のお気に入りであるアップテンポな曲が流れ始めた。雫さんはその後、言葉を発さずにただ真っ直ぐ前だけを見つめ、背筋も真っ直ぐぴんと伸ばしていた。座席が少し倒れているのに、それにもたれずに姿勢を正しているところがちょっぴり笑えた。。


 「あ、そうだ。雫さん、今日もありがとうね。時間外。僕の独断だったし、それこそ最近時間外になることが多くなっちゃって申し訳ないね」

 「いえ。先生のお役にも立てましたし、京子ちゃんの心も救うことが出来たと考えれば、今日はご一緒できて私も良かったです。ただ、手当はちゃんといただきますからね」

 「はは。分かってるよ。それに、今日は雫さんがいなきゃまだ仕事が終わっていなかった。感謝してるよ」

 「分かればいいです。それに、やっぱり先生は先生だなって再認識した1日でもあったので」

 「ん? どういうこと?」

 「優しさの塊みたいな人だということですよ!」

 「……うんん? 僕はそんなに優しい人間じゃないよ」


声を張り上げてシャウトしているボーカルよりも大きな声を出して車内に響かせる雫さんの顔は笑っていても、何かを含んでいるようにも見える不思議な表情に見えた。僕はある程度、他人が何を考えているのかは分かっていると思っているけれど、一番自分の近くにいるこの雫さんはこうやって何を考えているか分からない時がたまにある。まぁ人の心の中を知りたいとは思わないけれど、一緒に仕事をしている相棒のような存在で見ている僕からしたら、もう少し感情が分かってもいいのかなと思ったりはする。まぁそれもたまにだけれど。


 「優しい人は必ずそうやって言うらしいですよ」

 「え? そうなの? じゃあ僕は優しい人間なのか」

 「そう言ってるじゃないですか」

 「自分じゃ思わないけどなぁ。それを言うなら、雫さんの方が優しい人間だと常日頃思ってるけど」

 「私だって優しい人間じゃないですよ。てか、褒め合いはやめませんか。何か背中がむず痒くなってきます」

 「はは。そうだね。そろそろやめようか。まぁ何にせよ、明日からも頼れる助手としてよろしく頼むね、雫さん」

 「言われなくても分かってます。先生の方こそ今日は自分の部屋で休んでくださいね。昨日はリビングのテーブルで突っ伏していたので。よくあの体勢で爆睡出来ますよね」

 「あ、そうだったね。だからか。今だから言うけど、顎から頬にかけてすごいジンジンするんだよね。特に左側」

 「絶対それ、そこで寝てたせいですよ。先生、常に左腕を下にして寝てましたから」

 「参ったな。さすが頼れる助手だ。何もかもお見通しだ」


あははと笑う彼女の声がボーカルの声と共鳴するように車の中で響く。普段は笑う回数の少ない雫さんだけれど、今日は京子ちゃんのおかげか、彼女の笑顔を普段よりもよく見る。普段は眉間に皺を寄せていることが多い彼女だから、こうして彼女の砕けた表情を見ると、全身が安心するように落ち着く。そうこうしている間に車はあっという間に僕らの家の前に到着した。今日も1人、疲れている人を元気にすることができた。大袈裟に言っていただけかもしれないけれど、死にかけていた人を救うことが出来た。1日をかけて救った人が1人だけだし、割には合わない仕事をしているかもしれないけれど、僕は今日、クライアントの心の底からの笑顔を見ることが出来て心底幸せだし、明日もクライアントの疲れた心身を癒したい。その思いが、明日の僕を動かす原動力になっているのは確かだ。


 「ただいま」

 「おかえりなさい、先生」


出かけていた時はいつも帰還報告をする。誰もいない家のドアを開けると、隣にいる雫さんがいつも僕の声を受け止めてくれるように反応する。頼れる僕の助手がいてくれるおかげで僕は今日も生きることが出来ている。京子ちゃんほど大袈裟には言わないけれど。

 雫さんに言われた通り、今日は自分の部屋で眠ろう。心の中でそう決めて、僕は仕事着から部屋着へと仕事の電源をオフにするみたいに着替えた。そういえばこのスウェットを着て、もうすぐ6年ぐらいになりそうだ。あぁ、そろそろ新しい部屋着が欲しいな。頼れる助手と一緒に買いに行ったら良いやつを選んでくれるかな。そんなことを考えながら僕はのっそりと、だけども着実に眠る準備を進めていった。2階に上がっていった頼れる助手はそんな僕とは正反対で、ガチャガチャと色んな物音を立てて自分の時間を過ごしていた。何だか少し笑えた。

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