第30話 動きのキレ



 からくも恐鰐竜デイノスの牙から逃れたシルティは、レヴィンを抱きかかえたまま、ひとまず充分に安全だと思えるまで入り江から離れることにした。

 一度、森の奥深くまで踏み入る。

 恐鰐竜デイノスに対しては森の中が安全地帯になる、というわけではない。森の木々が彼らの障害物足りえるはずもないからだ。シルティが小さな草薮を掻き分けるように、竜は木々を容易くし折りながら進めるだろう。

 重要なのは、森の中という環境ではなく、シンプルに距離を取ること。恐鰐竜デイノスは完全に潜水できる規模の大きな水場に定住する、とシルティは聞いていた。あの入り江付近はあの個体の住処なのだろう。そこからあまり離れることはない、はず。

 であれば、森の中を経由し、入り江から離れた位置から海岸線に戻るべきだ、とシルティは判断した。


 と、その時。

 早速というべきか、右後方頭上にかすかな気配を感じた。


 シルティは腕の中のレヴィンを気遣いつつ、横っ飛びに回避行動に移る。鈍器が空を斬る音を耳にしつつ、空中で姿勢を制御。襲撃者の姿を真正面にしっかりと捉える。

 案の定、蒼猩猩あおショウジョウ。これで、累計十一匹目だ。


「もう来た。今日は随分と早いなぁ」


 まだ森の浅い位置だというのに、蒼猩猩からの襲撃。縄張り巡回中のオスとかち合ってしまったのだろうか。

 蒼猩猩は前傾姿勢で牙を剥き出しにし、ぐるるると唸っている。まぁ音は聞こえないのだが。

 これまでの十匹でなんとなくわかってきた。どうやら蒼猩猩は奇襲を回避されると動きを一旦を止め、獲物の出方を窺う習性があるようだ。

 短期間に繰り返し襲われたおかげか、シルティは今では安定して蒼猩猩の奇襲を察知および回避できるようになっているが、魔法『停留領域』を十全に生かした奇襲は本来そうそう回避できるものではない。蒼猩猩たちも、奇襲を避けられた経験は少ないはずだ。ゆえに、強く警戒するのだろう。

 正直、奇襲の勢いのまま休む間もなく攻め立てられる方がシルティとしてはつらいので、この習性は助かる。


「レヴィン、下がってて」


 蒼猩猩がこちらを警戒している間に、シルティはレヴィンを背後へひょいと軽く放り投げた。レヴィンは空中で身体をくねらせ、四肢から綺麗に着地。身体は大きくともさすがは猫の仲間、空中立位反射はばっちり働いているようだ。そのまま、ぴょんぴょんと跳ねるようにシルティと蒼猩猩から少し距離を取った。

 シルティはレヴィンが安全圏に退避するのを気配で察しつつ、脚を広げ、腰を低く、背中を丸め、右手を顎付近に添え、左手を前に出す。


(う。我ながら不細工な構え……おっぱいが邪魔すぎる……)


 シルティは内心で自らに悪態を吐く。

 徒手空拳対人技術など久しぶりすぎて、どうにも構えがぎこちなかった。

 だが、木刀がない。せめて折れた木刀の片割れでも手の内にあれば、まだ使えなくもなかったのだが。

 恐鰐竜デイノスの襲撃を察知した瞬間のシルティに余裕などなかった。レヴィンを掬い上げるだけで精いっぱいで、折れた木刀の亡骸も、背負い籠も、あの瞬間に身に付けていなかったものは全て放り出して逃げるしかなかったのだ。

 残ったのは、腰のベルトに括りつけていた塩の小袋と、〈玄耀げんよう〉のみである。


 取りに戻れば、もしかしたら木刀の亡骸くらいは残っているかもしれない。だが、背負い籠には背ロースと前肢を収納していたから、おそらく恐鰐竜デイノスに丸ごと食われただろう。当然、その他の籠に収納していた財産も恐鰐竜デイノスの腹の中だ。

 まな板や木の椀は、作って一日すら保たずに廃品となってしまった。

 まあ、塩と〈玄耀〉、特に手間暇をかけた二品が残ったのは不幸中の幸いか。

 特に、〈玄耀〉が無事だったのはめちゃくちゃ嬉しい。もし〈玄耀〉を失っていたら、シルティはしばらく本気で凹んでいた。


 構えの違和感に悩みつつ、眼前の蒼猩猩を睨む。

 周囲には大小さまざまな枝が落ちているが、拾う選択肢はない。得物に強化を乗せるためには、それを自分の身体の延長と見做せる必要がある。とてもではないが、シルティには無理だ。

 素手で、この敵を、どう殺すか。


 人類種の中には、素手でを放つことができる者もいる。

 さすがに、魔物を狩る際に素手で挑むようなネジの外れた異常者は滅多にいないが、技術として、素手で斬撃を実現させることは可能だ。

 己の肉体こそ至高の武具であると信じてやまない一部の拳法家たちは、自らの肉体を執拗なまでに虐め抜き、鍛え上げられた自慢の肉体を生命力の作用により強化しつつ、さらに自らの四肢はあらゆる刃に勝ると骨の髄まで狂信して、身体強化の上に武具強化を重ねて無理矢理に混在させるような、そんなきわまった執念の果てに、ついには手刀や足刀で紛れもない正真正銘の斬撃を成立させるのである。

 達人ともなれば、裸腕で刀剣と鍔迫り合いをし、手刀で人体を縦にずんばらりんと両断することも容易いという。


 が、残念ながらシルティはそこまで極まってはいなかった。


 現状では斬撃は実現できない。

 だが、蒼猩猩はシルティより頭二つ分ほど大柄で、分厚い毛皮と強靭な筋肉で鎧っている。どう考えても打撃は効果が薄い。ただでさえ魔物は肉体の再生力が高いのだ。よほどでなければ打撲は致命傷にならない。

 であれば、絞め落とすしかないだろう。

 羚羊を殺した手順とほとんど同じだ。窒息で気絶させ、再生力を落としてから、〈玄耀〉で首を切って止めを刺す。

 正直、蒼猩猩と至近距離で掴み合うのは避けたいが、他に手段がない。


(……よしッ。覚悟を決めろ、シルティ)


 蒼猩猩から決して視線を逸らさずに、シルティはにんまりと笑いながら、自身の内臓へ強く意識を向けた。

 はらわたで生み出した生命力に、頭で生み出した意志を練り合わせ、頸の真下、心臓に流し込み、肋骨を押し広げるほどの強い鼓動の熱で練り合わせた生命力を、湧き立ったそれを四肢へ送り出す。

 そんな明確なに、自身を委ねる。

 血潮よりも遥かに熱量を持つ灼熱の気合いが、全身を巡り、満たしていく。

 素足が硬い地面を掴む感触が、この上なく頼もしい。

 額の薄い皮膚のすぐ下で、耳の穴の奥深くで、血管がズグンズグンと脈動する感覚が、とても心地よかった。


 息を静かに吸い。

 止めて。

 跳び出す。


 シルティが蒼猩猩の目前に現れた。

 強引に突き破られた空気が荒れ狂い、いびつにとどろく。

 鍛え上げられた肉体と精密極まる足運び、そして膨大な生命力の作用によってようやく実現される、瞬間移動じみた馬鹿げた飛び込みだ。

 確かに存在した距離を省略し、場面を切り替えたかのように肉薄したシルティに、蒼猩猩の意識は全く追従できていない。


 恐鰐竜デイノスを目撃したせいか、どうにも気持ちが昂っている自覚がシルティにはあった。

 おかげで生命力もほとばしっており、いつもより身体のが良い。良すぎるぐらいだ。


 シルティはさらに一歩踏み込み、硬直したままの蒼猩猩の顔面へ向け、左手を放った。屈曲していた肘が伸びるにつれて直線軌道を辿る、最速の拳。

 蒼猩猩の鼻筋に突き刺さり、柔らかい鼻骨を陥没させた。

 蒼猩猩が悲鳴を上げて顔を両手で覆った隙に、シルティは速やかに背後へと回り込み、尾の付け根を踏み台にして跳び上がる。

 跳躍で高さを合わせ、両脚を胴体に回してがっしりとしがみ付き、腕を差し込んで首に回した。


(ぬぐう!! ふっとい首だなッ!!)


 嚼人グラトンのそれを遥かに上回る、凄まじい太さの頸部だ。シルティの太腿よりも太いのではないだろうか。

 ここまで太いと、頸動脈洞を圧迫するお上品で綺麗な裸絞めなど望むべくもない。

 シルティは前腕を蒼猩猩の喉に押し当て、喉頭こうとうを乱暴に圧迫した。

 全身の筋力を総動員し、蒼猩猩の気道を橈骨とうこつでゴリュリと潰す。


(うぐぅ!! かったい首だなぁッ!!)


 あわよくば頸椎を折ってやろうと思っていたシルティだったが、これは無理だと即断した。

 木刀であれば一刀両断できた首が、素手では途方もなく強靭に思える。

 とはいえ、絞まってはいるようだ。腕を通してゼェヒュゥという擦れた振動が伝わってくる。

 これを継続すればいずれは窒息し、気絶するだろう。先立って鼻を潰しているというのも大きい。鼻腔から逆流する血液は呼吸を著しく妨げる。

 植物、菌類、魚、獣、鳥。生物である以上――竜ですら、窒息による死からは逃れられない。


 気道を圧迫された蒼猩猩は、喉を潰されるという初の苦しみに困惑しつつ、ガラガラにひび割れた絶叫を轟かせ、無礼にも背中に纏わり付いてきた獲物へ自慢の太い尾を叩き付けた。


「ぐぶッ!!」


 目から火花が散るような凄まじい衝撃に、シルティの胸が潰れ、肺の中身が全て押し出される。

 これまでは蒼猩猩に尾を使わせる前に仕留めてきたのでいまいち実感がなかったが、極太な見た目通りの凄まじい筋力だ。しかも悪い事に、蒼猩猩の背中にしがみ付いていなければならない今、衝撃を逃がす術がない。

 急いで空気を取り込み、振り落とされないよう腕力を振り絞る。その背中に、再度の衝撃。折角吸い込んだ空気が出ていく。


「ぐッ!! ぶぇッ!! んぶッ!!」


 さらに、三度目の叩き付け。四度目。五度目。


いったい、だろがッ!!」


 繰り返される明確な被弾が呼び水となり、シルティの蛮族の血が突沸する。

 猛る戦意に励起され、眼球が爛々と輝き、全身に夥しい生命力が滾った。

 ギチミチと、万力のような力を籠め、蒼猩猩の気道を圧し潰す。

 尾の叩き付けではシルティを剥がせないと判断したのか、蒼猩猩は長い前肢を駆使し、届く範囲を手当たり次第に掻き毟り始めた。

 首に巻き付けられたシルティの腕、胴を締め付けるシルティの脚、耳のすぐ後ろにあるシルティの頭部。

 分厚い扁爪ひらづめが革鎧や鎧下を削り、破り、皮膚と肉をこそぎ落としていく。


 それでも、シルティは剥がれない。

 蒼猩猩は粘度の高い唾液を撒き散らしながら、尾をシルティへ執拗に叩きつけたり、背中から周囲の木へ体当たりをしたりと、全身を振り回すようにして散々に暴れ回っていたが、やがて立っていることもできなくなったのか、ぐにゃりと崩れるように地面にうずくまり、空気を求めて喘ぎ始めた。

 そして、その喘ぎも、すぐに止まる。

 シルティは蒼猩猩が動かなくなってからも執拗に絞め続け、完全に失神させたことを確信してから、ようやく腕から力を抜く。


「はっ、はぁっ、はぁ、ひ、ふっ、へぅ……。んぐあぁ……しんど……かった……」


 シルティの腕や脚、そして顔面には、蒼猩猩の扁爪で削られた帯状の傷が無数に走っており、一部は骨までもが露出していた。左の耳に至っては完全に千切れてしまっている。背中は革鎧どころか鎧下までズタボロになり、素肌が見えていて、打撲と擦過傷さっかしょうが無い箇所を探す方が難しいといった有様。

 ひとつひとつの傷は深くはないが、数がべらぼうに多い。全身が血塗れだ。

 ゼェハァと荒い呼吸を繰り返しながら、シルティは疲れ切った身体に鞭を打ち、〈玄耀〉で蒼猩猩の首筋を裂いた。

 切開した首筋から鮮紅色の血が勢いよく噴出し始める。もはや頭に充分な血は巡らない。蒼猩猩は気絶から醒めることなく失血死するだろう。


 シルティは噴き出す蒼猩猩の血液を手で掬い、二度三度と口へ運ぶ。

 嚼人グラトンでなくとも魔物の生き血には大量の生命力が含まれている。魔法『完全摂食』の効果も相まって急場の生命力補給にはもってこいだ。

 充分に血を飲んでから目を閉じ、己の健康な肉体を脳裏に描く。負傷箇所を意識して、

 弱いから肉体を損なったのだ。自らの弱さを憎み、もっと強い身体になりたいと渇望しつつ、生命力を過剰に巡らせる。

 大きく息を吸い、長々と吐き出す。

 すると、ヂュクヂュクと奇妙な音を立てて傷口の肉が盛り上がり、露出していた赤や白が埋まり始めた。

 千切れてどっかに行ってしまった左耳すら、そう時間を必要とせずに形成される。


「んンッ。あー、あー。あー」


 声を出して聴覚を確認。元通りだ。

 こうした意識的な再生の促進は、武具強化と並ぶ戦士の必須技能である。

 熟練の戦士ともなれば殺し合いの最中に失った四肢を生やすことすらあるが、シルティはその域にはまだまだ程遠い。今後の課題である。

 戦いが終わったことを理解したレヴィンが寄ってきて、血まみれになったシルティを心配そうに観察し、額を擦り付けてきた。

 シルティは笑いながら、レヴィンの顎下をくすぐってやる。


「……さすがに、素手は、無謀だったかな……」


 今の戦いは、かなりまずかった。

 シルティにとって自信のある自らの強みの中で、特に一つを挙げるとするならば、それは動きのである。

 キレとは、単なる動作の速度や敏捷性のことではない。自らの肉体が生み出す膨大なエネルギーの、瞬時かつ精密な制御能力のこと。指の動き、四肢の動き、重心の動き。ありとあらゆる動作の、静止状態から最高速度への刹那の到達、および、最高速度から静止状態への刹那の移行のことだ。

 全力疾走した状態から急停止し、完全に身体を反転させ、逆方向に走り出し、再び最高速度走に到達するという、およそ考える限り最大の加減速を必要とする動作ですら、シルティはまばたき一つの間に熟す事ができる。

 常人の眼球運動では全く追い切れないそれは、鍛え上げられた筋骨、磨き上げられた身体操作能力、生まれ持った低重心の肉体、そして練り上げられた生命力が揃って初めて可能となる、だ。

 僅かな反応すら許さずに真正面から蒼猩猩の眼前まで接近する。巨鷲おおワシの襲撃を目視してから余裕を持って斬り伏せる。四肢を使って敏捷に方向転換する羚羊に後発で追いつく。それらは全て、単なる筋力や反射神経だけではなく、このキレがあってこその産物といえるだろう。


 翻って、今の戦いはどうだったか。

 肉薄からの目潰しの一撃は良い。だがその後は、ほぼ単なる力比べだった。状況的に他に手がなかったとはいえ、しがみ付くような取っ組み合いではシルティの強みが活かせない。むしろ苦手な部類だ。

 指と腕が無様に震えている。握力も腕力も使い果たしていた。あとほんの少しでも蒼猩猩が暴れ回っていたら、シルティは振り落とされていたかもしれない。そうなれば、殺し合いの結果はわからなかった。

 十六歳の嚼人グラトンの女性にしてはそれなりの身体能力を持っているという自負があるシルティだが、単純な出力でも、持久力でも、野生の魔物にはやはり及ばないのだ。


 現状のままではまずい。

 鋭い牙や鉤爪、角を持たない嚼人グラトンである以上、武器が無ければどうしても決定力に欠ける。


「くっそう、やっぱあのフランベルジュみたいな角、取っておきたかったなぁ……」


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