【書籍化】蛮族娘の異大陸漂流記

霜月十日

第1話 漂着



 生物。

 この世界に存在する、生命現象を示す自然物の総称。動物・植物・菌類など。

 外部からなんらかを体内に取り込み、肉体に備わった代謝機能により生命力へと変換して活用する。成長し、繁殖を行なって、自らの子孫を残そうとするものたち。


 魔物。

 この世界に生息する生物のうち、魔法と呼ばれる超常をその身に宿す種を指す呼称。


 魔法。

 魔物を魔物たらしめている、種特有の能力。

 自らの肉体構造を装置とし、自らの生命力を動力源として、特定の超常現象を引き起こす理外の能力のこと。


 嚼人グラトン

 四肢動物の一種で、魔物に分類される。

 幼年期を除き、基本的に後肢だけを使って直立し歩行する。

 頭部の見事なたてがみ――つまり頭髪と、まぶたふちに生える睫毛、目の上で弧を描く眉毛、鼻の穴に密生する鼻毛、の四か所を除いて、他の部分には体毛が一切生えておらず、肌が露出しているのが特徴的。

 頭部は卵型に近く、耳は頭の横にあり、鼻が前に突き出していて、歯牙は比較的短い。四肢は細長く、それぞれに五本の指が生えており、鉤爪ではなく扁爪ひらづめを備える。尾は完全にない。

 優れた知性を備えていることに加えて発達した声帯を持つため、明確な言語を操ることができ、多くの場合大規模な群れを作って文明を構築する。

 別名、究極の雑食動物。

 彼らは、どんな場所にでも住み付き、、飢える事がない。

 世界でも最も繁栄した生物の一つに数えられている。





 とある小さな入り江の砂浜、波打ち際に、一人の嚼人グラトンがうつ伏せに倒れていた。

 なにやら木材を胸に抱いている。まさしく濡れ鼠といった姿だが、胴が規則的に上下しており、呼吸はあるようだ。

 不幸にも海原へ放り出された者が、幸運にも陸地に漂着した、といった様相である。


「……ぅ、……ん……」


 それが、呻き声と共に身じろぎをした。

 薄っすらと目を開け、そのままぼんやりと視線を彷徨わせる。


(!)


 次の瞬間、意識がはっきりしたのか、彼女は凄まじい勢いで跳び起きた。

 状況を理解するよりも早く、戦闘に備える。獣のような警戒心を露わに、鋭い視線を周囲に飛ばしながら、両手を速やかに左の太腿へ。


 その手が、虚しくも空振からぶった。


「んえッ!?」


 ぎょっとしながら間抜けな声を上げ、彼女は自らの左腰に目を向ける。


 彼女の視界に、無残に剣帯けんたいが映った。つまり、あるべきものがなかった。

 寝るとき以外はほぼ常にそこに吊るしている、彼女のが、なかった。


「んあぁっ!?」


 彼女は大慌てで視線を再び巡らせ、入り江を必死に探し回ったが……やがて己と流木以外はこの砂浜に漂着しているものがないことを理解すると、表情が完全に抜け抜けた。

 カクンと、膝から崩れ落ちる。


「……嘘、でしょ」




 砂浜に膝と両手を付いて失意に暮れる彼女の名は、シルティ・フェリスといった。名がシルティ、家名がフェリスである。

 ここより遥か遠方、とある狩猟採集民族の集落むら出身。今年で十六歳になった少女だ。


 シルティの故郷の集落は、周囲を深い森に囲まれており、同時に険しい山に寄り添っている。生きる災害として名高い六肢動物(またの名を竜)を始めとする、世にも強大な魔物たちの坩堝るつぼだった。

 そんな環境で、平和に存続する採集民族とは。

 つまるところ、強さをなによりも尊ぶという暴力的道徳が深く根付いた、極め付きの蛮族である。


 シルティの父親であるヤレック・フェリスは、近隣でも並ぶ者のいない英傑と名高い戦士だった。

 夜空と虹の粉を重ねたような美しい太刀を振るい、竜の備える強靭な鱗ですらその一刀のもとに斬り裂き、なんでもないことのように呵呵かかと笑う益荒男ますらおである。

 強く偉大な父に憧れを抱いたシルティは、蛮族の道徳の下で鍛錬に明け暮れて、この上なく健全に育った。

 幼少の頃から自らの意思で執拗に苛め抜かれた肉体は、年齢に似合わぬ身体能力と技量を併せ持ち、溢れ出るような生命力を内包する。

 年齢が七つを数える頃には父ヤレックに連れられて狩りに赴き、その教えを受けるようになった。


 集落には、十二歳を迎えた子供の中で特に技量に優れると認められた者は、伴侶探しを兼ねて見識を広める遍歴の旅に出るという慣習がある。

 毎年該当者が選出されるわけではない。ある水準を超えた者だけに許される、名誉の旅路だ。

 幼少期から訓練に明け暮れていたシルティは、実に五年ぶりの技量優秀者として認められ、迷わず故郷の集落を出た。

 街から街へと流れながら、早くも四年。今では幼児の頃から培ってきた暴力によって狩りなどを行ない、日々の糧を得る生活だ。

 何度も何度も死にかけたが、シルティはより逞しく、より強くなった。



 そんな彼女がなぜ、今、海水まみれで砂浜に倒れ伏していたのかと言うと。

 なんのことはない。そろそろ別の大陸にも向かってみようと乗り込んだ船が沈没したのだ。航路の途中で、牙鯨きばクジラという巨大な海棲動物に襲われて。


 巨大な船が力づくで圧潰させられる音を内部から聞く、という非常に貴重な体験ののち、気が付けばシルティは広大な海原に浮かんでいた。圧死しなかったのはただの偶然だ。奇跡と言うほかない。


 シルティは海原に漂い空を仰ぎながら、船に乗る前、『この航路は完全に安全ではない。三十年か四十年に一度ぐらいは牙鯨が船を襲うことがあるらしい。それでもいいか』と確認されたことを思い出した。

 いやいやまさかそんな珍事が自らの身に降りかかるわけないだろう、とシルティは楽観的に考えていたのだが。そのまさかである。

 今更ながら冷静に考えれば、おそらく、牙鯨はもっと頻繁に船を襲っているのだろう。だが、その全てを陸地のものが把握できるはずもない。海原で襲われた者たちの一部でも陸地まで無事に生還し、牙鯨にやられたと証言できるのが、三十年か四十年に一度、という話なのだろう。


 牙鯨の咀嚼からの生き残りは、シルティを除いて五人。船乗りが三人と、シルティのような乗客が二人だ。

 シルティの蛮族的観点からすると、彼らはまるで幼子のようにか弱く見えた。

 船の上では頼もしかった屈強な船乗りたちですら、水に浮かんでいては悲しくなるほどに弱い。凶暴な肉食魚にでも襲われれば確実に死ぬ。

 自分が守らねばならないと、シルティは気合いを滾らせた。

 『強者たるもの、すべからく弱者を守るべき』は蛮族の戦士の常識である。

 シルティ達蛮族は、自分よりか弱いものが傍らにいれば、それだけで少しばかり強くなる生態の動物だ。


 シルティは船の残骸から浮きになりそうな破片を見繕い、生き残りたちに配って励ましながら、航路と日数から逆算し、おそらく陸地が近いであろう南へ向かって泳ぐことにした。

 太陽や星空から方角を割り出すのは、シルティや船乗りにとっては簡単なことである。

 途中で鮫が襲ってきた時には、全身全霊を振り絞ってこれを迎撃し、水面下で激しく揉み合った末に鮫の頭をズンバラリンと縦に割り、生き残りたちを見事に守り切ってみせた。

 慣れない水中での取っ組み合いは楽しくも死ぬほど疲れた、というかまじめに死を覚悟したが、死ぬ気になれば意外となんとかなるものである。


 不幸中の僅かな幸いは、生き残った人々が全て『嚼人グラトン』だったことだろう。


 嚼人グラトンは、『究極の雑食動物』と呼ばれる魔物だ。

 誇張でも比喩でもなく、、すこぶる健康に生きていける。

 それこそが、嚼人グラトンという魔物がその身に宿す、種族特有の『魔法』。

 『完全摂食かんぜんせっしょく』と呼ばれる、である。


 嚼人グラトンは、肉でも植物でも、土石どせきでも金属でも、腐肉でも毒物でも溶岩でも、経口摂取して体内に取り込んだありとあらゆる全てを、完全に安全に分解し、、一切無害に、かつ速やかに吸収する。

 味覚自体は非常に鋭敏なものを備えているので、個人個人によって食べ物の好き嫌いはあるのだが、種族的に言えば嚼人グラトンが摂食して吸収できない物質はこの世界に存在しない、とされていた。

 口腔に入るサイズであれば、至金アダマンタイトのような不滅に近い『超常金属』ですら問題なく咀嚼し、分解してかてとする雑食動物の極致。

 それが、この世界に広く生息する嚼人グラトンという魔物である。


 要するに。

 海上に身一つで取り残されたとしても、少なくとも嚼人グラトンが餓死することはないのだ。

 周囲にほぼ無限に存在する海水をぐびぐび飲んでいれば、それだけで健康に生きていられる。

 海水など決して美味しいものではないが、気にしていられる状況ではなかった。沈没船の生き残りたちは海水をぐびぐびと飲みながら、ひたすらに泳いだ。

 もちろんシルティが潰した鮫も分けて食べた。結構美味しかった。


 しかし、食事面での心配はないとはいえ、海に浮かびながらではまともな睡眠を取れるはずもない。

 いくら経口で生命力を補給できても、眠らなければ疲労は溜まり、精神は摩耗する。

 シルティはただでさえ体力が有り余っていたし、漂流生活を送るうちに、浮きに体重を預け仮眠を取るコツを習得して多少は休めるようになったのだが、他の生き残りたちはそうもいかなかった。

 乗客二人に比べれば船乗り三人は泳ぎが巧かったが、体力はどうにもならない。

 次々と限界に達し、一人、二人と海中へ沈んでいく。


 七日目を迎える頃には、生き残りはシルティ一人となった。


 救えなかった無力感に苛まれながらも孤独の中で気力を振り絞り、泳ぎ続け、十二度目の朝日を見たことまではシルティも覚えている。

 そこからは……いつ、気を失ったかもわからない。

 薄っすらと残る記憶と感覚としては、十日や二十日どころではなく、もっと遥かに長く漂っていたような気もする。断続的に気絶と半覚醒を繰り返していた。正確な漂流期間を知るすべは無さそうだ。

 そんな状況からこうして陸地まで流れ着いたのは、正真正銘の奇跡と言っていいだろう。


 だが。

 そんな幸運に恵まれたシルティは、生還を歓喜することなく、深く深く項垂れていた。

 就寝時以外は常に剣帯に吊るしていた、命よりも大切に思っていたシルティ愛用の太刀が……ない。


(どこで失くした……思い出せ、私……)


 九日目までは腰にあった。

 九日目に再び鮫に襲われ、太刀で斬り殺したから、これは確実だ。立ち泳ぎしながら鞘に納めたのも覚えている。

 それ以降となると。

 駄目だ。

 思い出せない。

 いやそもそも、思い出したところで、今は大して意味がない。

 場所がわかったところで、今のシルティでは引き揚げられない。


「だぁあぁ……やっちゃったぁあぁ……」


 シルティは悔恨の唸り声を漏らしながら、砂浜に頭を勢いよく打ち付けた。

 ズドン、凄まじい重低音が鳴り響く。シルティはそのまま蹲り、頭を抱えて盛大に身悶え始めた。


 シルティが失くしてしまったのは単なる太刀ではない。

 稀少な稀少な超常金属『輝黒鉄ガルヴォルン』を鍛え上げて作られた、筆舌に尽くしがたい価値ある一振りだった。

 優美な先反りの弧を描く刀身は素材由来の漆黒色を宿しており、光の差し込む角度によって表面に無数の色彩が浮かび上がる。遊色効果に似たその輝きは、まるで磨き上げられたブラック・オパールのように美しかった。

 身幅は驚くほど広く。重ねは笑えるほどに分厚く。柄もまたそれに見合う長大なもの。冗談のような威容を誇る大振りの太刀。決して折れず、決して曲がらず、あらゆる魔物の体表をすぱりと斬り裂いてきた、シルティの愛刀。

 銘を、〈虹石火にじのせっか〉という。

 単純に太刀としても至極の一振りであり、近接武器としてはほとんど極限といってもいい逸品である。正直に言えば、今のシルティには分不相応過ぎる刀だ。素材が素材なため金銭的な価値も計り知れない。千倍の重さの金塊でも到底吊り合いはしないだろう。実際、これの存在を知った強盗の類に狙われ、返り討ちにした過去は数えきれない。

 だが、シルティにとって、あれの価値はそんなところにはなかった。


 〈虹石火〉は、かつてはシルティの父ヤレックが振るっていた太刀である。

 ヤレックの前には、ヤレックの父であるボリス・フェリスが振るっていた。

 さらにその前には、ボリスの父であるテオドル・フェリスが振るっていた。

 遡れるだけでも六代前まで、直系がこれを愛用していたと伝えられている。


 つまるところ、それはフェリス家に代々伝わるただ一つの家宝。

 正真正銘、文字通りの伝家の宝刀なのである。

 それを、失くしてしまった。


「あああぁあぁ……もぉおぉぉ……」


 ほとんど死が確定していたような海上漂流から生還した喜びよりも、家宝を失ってしまった喪心の方が、今のシルティにとってはずっと大きかった。

 船に乗る前から、革製の剣帯にガタが来ていたのはわかっていたのだ。そろそろ新調しようと考えていたが、手持ちが心許なかったので後回しにしてしまった。まさか、船が沈没し、しかも千切れるとは。

 どれだけ後悔してもし切れない。

 シルティは、豪快に泣いた。


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