まけきらい稲荷

 猪肉を堪能したら篠山散策だ。二階町通りをブラブラしてからお城の西側の御徒子町武家屋敷群に。ここは藩政時代の武家屋敷が十軒以上も残ってるところなんだ。でもさぁ、武家屋敷と言うには小さくない?


「身分が低い下級武士の家だったみたいだな」


 そっかそっか、御徒士は武士の中でも馬に乗れない身分だものね。御徒士町武家屋敷群を南下したら、今度は河原町妻入商家群だ。ここは江戸時代の篠山のメインストリートだったみたい。ここも良く残ってるな。土産物屋やカフェもあって、アリスたちもお茶をした。栗羊羹が美味しい。河原町から次に目指したのは、


「王子山稲荷だったよな」


 これはアリスのリクエスト。広めの路地みたいなところを歩いて行ったら赤い鳥居が見えてきた。そこから参道の階段だけど、さすがはお稲荷さんで赤い鳥居のトンネルみたいになってるよ。階段も急じゃないからあっさり登ると本殿だ。


 感想は・・・小さいけどよく整備されてるぐらいかな。正直なところどこにでもあるような神社だけど、ここにわざわざ立ち寄った理由は、篠山の伝承の舞台だからだ。


「ここはまけきらい稲荷って呼ばれてるのか。その由来がこれか」


 伝承の概略は、将軍の上覧相撲で篠山藩の力士の成績が振るわないのに殿様が切歯扼腕していたら、ある年の上覧相撲で国元から参加した力士たちが大活躍して溜飲を下げたぐらいかな。ここも強かった理由があって、力士たちは実はお稲荷様の化身だったってオチなんだよ。


「作り話だよね」


 半分はそうだけど、半分は実話だと思ってる。と言うのもこの伝承だけど登場人物がかなり具体的なところがあるんだ。とくに篠山藩のお殿様がそうだ。青山忠裕は実在の人物で伝承通りに老中まで勤め上げてるんだよ。


 伝承は忠裕が老中であった時になってるけど、この時期もわかってる。忠裕は文化元年(一八〇四年)に老中になり、辞任したのは天保六年(一八三五年)だからこの間に特定される事になる。


「それでも三十年ぐらいの幅があるよね」


 そうなんだけど、将軍の上覧相撲は毎年あった訳じゃなく、


 ・寛政三年(一七九一年)

 ・寛政六年(一七九四年)

 ・享和二年(一八〇二年)

 ・文政六年(一八二三年)

 ・文政十三年(一八三〇年)

 ・天保十四年(一八四三年」

 ・嘉永二年(一八四九年)


 この七回しか行われていない。忠裕の老中在位が一八〇四年から一八三五年だから、


「なるほど文政六年、文政十三年の二回が該当するわけか」


 そうなるはずだけど伝承はそうでない。なんと文政三年(一八二〇年)となってるんだよね。


「記録に残されていない上覧相撲があったとか」


 その可能性は低いと思う。当時の大名はお抱え力士がいて、上覧相撲は各藩対抗戦の様相もあったそう。だから春秋の本場所より真剣勝負であったともされ、上覧相撲は江戸っ子の注目の的だったともされてるんだ。だから記録に残されていない上覧相撲があった可能性はまず無いと考えてる。


「やっぱり作り話なのか」


 ここは二つぐらい考え方があるかな。まずだけど伝承では毎年のように上覧相撲があったとしてるけど、現実は七回しか行われていない。だから伝承の舞台は上覧相撲ではなく回向院の本場所であった可能性だ。


「もう一つは年代の誤りか」


 どっちかと言うと上覧相撲でなかった可能性の方が高いと思ってる。そうじゃないと忠裕がお抱え力士の成績不振に切歯扼腕する話が成立しにくいじゃない。それとだけど、文政三年ともなれば力士のプロ化は進んでいたはず。


 伝承では篠山から出て来た草相撲の力士が活躍するのだけど、そんな素人力士が上覧相撲にいきなり出場出来たかの疑問があるのよね。上覧相撲は本場所以上の存在の真剣勝負だったとされるし、江戸っ子の注目の一大イベントなんだよ。


 伝承では回向院で上覧相撲が行われたとなってるけど、これもそうじゃない。今みたいに天皇が国技館に出向いていた訳じゃない。江戸城内の吹上で開催されてるんだよね。相撲界にとってもトビキリのイベントだから、出場する力士も部屋所属のプロ力士、それも選り抜きだった気がするのよ。


「それは回向院の本場所だってそうだろう」


 とも言い切れない。当時の相撲は現在のような部屋制もあったけど、それよりお抱え力士が幅を利かせていたのよね。力士の所属意識も部屋より藩だし、取り組みだってお抱え藩が違えば同部屋同士でもあったぐらい。


 そのために相撲興行も藩の発言力が強かったのよ。そうなったのは本場所興行をやるにも、勧進元は藩から出場許可を取らないといけなかったからのはず。老中でもあった忠裕が出場させたいと口を挟めば余裕で可能だったはず。


「やっぱり実話か」


 そうでない気がする。伝承が起こったのは文政三年の春場所なんだけど、とりあえず優勝力士は柏戸と玉垣となっている。だけど残された記録は六日目までしかなくて、六日目で打ち切りになったのか、七日目以降の記録が失われたのかは不明なんだよ。


「伝承にある王地山平左衛門、波賀野山源之丞、飛の山三四郎、黒田山兵衛、小田中清五郎、須知山道観、曽地山左近、頼尊又四郎の出場記録は?」


 これも残されてるのは幕内、十両だけで幕下以下の記録は無いのよね。幕内や十両だってすべて網羅されているかは不明だ。だから完全否定は出来ないけど、伝承を上覧相撲にしている点が怪し過ぎると思ってる。


「どういうこと?」


 今とは情報伝達が違い過ぎるって事だよ。当時の江戸相撲は大人気だったそうだけど、草深い篠山で相撲通がどれぐらい居たかになるじゃない。ましてや上覧相撲なんて存在すら知られていないとしても良いと思う。


「そっか、そっか、文政三年の時点で前回の上覧相撲は十八年前だものな」


 伝承にはいくつか決定的な誤りがある。


 ・上覧相撲は文政三年に行われていない

 ・上覧相撲は回向院で行われず江戸城内で行われている


 こんなもの上覧相撲がどんなものか知っている人がいればわかる事なのに、篠山では未だに訂正も疑問も持たずに残されているのよね。つまりこの話を聞かされても篠山では鵜呑みにするぐらいしか相撲の知識はなかったと言えるじゃない。


「そうなるとすべてウソ」


 そうなる。ウソだけどこの伝承を篠山に誰かがが流布したのは間違いない。伝承では力士たちは上覧相撲が終われば力士たちはすぐさま帰国してしまい。ねぎらおうとした忠裕は呼び戻すために使者を追いかけさせてるんだ。使者は江戸から篠山まで追いかけてるのだけど、


「なるほど、伝承の本当の始まりは忠裕の使者が篠山城に着いてから始まるのか」


 伝承では使者は力士たちを探し回るのだけど、これは実話のはず。それもかなり鳴り物入りで行ったはず。そうなれば城下で持ちきりの話題になるじゃない。十分に話題になったところでお稲荷さんの話を出したぐらい。


 そんな事が出来るのは忠裕しかいないじゃない。忠裕はバカ殿じゃない。老中を三十年以上も勤めてるし、藩政も優れている人物なんだよ。


「平たく言えば名君なのか」


 それで良いと思う。忠裕の業績は端折るけどかなりのキレ者として良いはず。だから何らかの意図をもってこのシナリオを書き、家臣たちに実行させたはず。


「その理由は?」


 それがわからないの。考えられるのは藩内で何らかの問題が発生していて、その目を逸らすためぐらいはあったはず。ある種の爽快譚みたいなものだから、これで何らかの悪評、不評を吹き飛ばそうとしたくらい。


「宗教問題はどうだろう。なんらかの理由でお稲荷さん信仰を広めようとしたとか」


 その線は無いとは言えない。こういう話に神仏を結び付けるのは常套手段だけど、お稲荷さんを持ちだしたのは不自然なのよね。だってさ、お稲荷さんが相撲を取るってかなり変わってる話だもの。


 お稲荷さんは稲の神様で、ここから商売繁盛の神様にもなってる。さらにお稲荷さんと言えば狐だけど、狐はお稲荷さんの使い神って位置づけだったはず。その辺の細かいところは融通無碍なのが日本の神様だけど、お稲荷さんが格闘技とか、戦いの神のイメージがるかと言えば遠すぎる気がする。持ち出すのだったら、


「八幡さんだよね」


 別に仏教の不動明王でも、帝釈天だってかまわないもの。さらに言えば、藩内のお稲荷さんをそうざらえしている感じすらあるじゃない。だから藩内にお稲荷さん信仰を広げたいとの意図があったと言えない事もない。


 ただね、お稲荷さん信仰の促進にしては忠裕がやったとされる事がショボイのよ。だってだよ、やったのは絵馬と幟の寄進だけになってるもの。お稲荷さん信仰を広げる意図があったのなら、本殿の建て替えぐらいしそうなものじゃない。


「だよな。そうなるとお稲荷さんはダシってことか」


 そんな気がする。だけどそこですべてのムックは行き止まりになっちゃうのよね。


「う~ん、その頃になにかあったかの記録はないのか。でもだよ、たとえばだけど・・・」


 なるほど。それはあるかもしれない。忠裕って人は三男で生まれて兄の急死で家督を継いでいるんだ。それはそれで良いのだけど、家督を継いでから寺社奉行、若年寄、大坂城代、京都所司代と幕閣の要職を歴任し老中にもなり、隠居するまで老中だった人なのよ。


 江戸の大名と言えば参勤交代だけど、それだけ幕閣の要職を歴任し続ければ、いわゆるお国入りをしていない可能性が高いよね。つまりは藩主になってから、ずっと江戸で暮らし続けた人だった気がする。


 そうなると篠山の本国はずっと藩主が不在になってしまう。そういう状態で起こりそうなものと言えば、江戸屋敷と国元との対立みたいなものだ。それは篠山で藩主としての忠裕の存在感の薄さが原因となっていれば、


「藩主の存在感のアピールとして流布されたんじゃないの」


 健一もやるね。そういう可能性もあるけど、どう考えても相撲のエピソードじゃ無理がありそうな気がしないでもない。これ以上はわかんないな。


「よくそこまで調べたね」


 たまたまなんだけど、興味を引いたんだよ。荒唐無稽の話かと思えば、必ずしもそうじゃなさそうってところがあるじゃない。これだけのシナリオを書き、実行させた忠裕はシナリオライターだけではなく、監督としても才能があったんじゃないかって。


「いつもながらの職業病だね」


 そういうけど、この伝承を活かすシナリオを書く事だってあるかもしれないじゃない。そんな引き出しを増やし続けるのがシナリオライターの仕事だ。

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