人狼聖女

小花ソルト(一話四千字内を標準に執筆中)

序章    その聖女、すでに堕ちて

 舗装も満足にされていないその一本道は、鬱蒼と茂る森へと続き、何十年か前に作られた轍は、小石や雑草で埋まっていた。


 馬が怖がって立ち往生するのを、巧みな手綱さばきで落ち着かせながら、馭者ぎょしゃの男が額の汗を破れた袖で拭った。


「どうしたよ、相棒。今までどんな道でも俺たち二人で乗り越えてきたじゃないか」


 馬は首を振って嫌がっている。


 男は後ろの荷台に静かに乗っている少女に振り向いた。茶色い髪が多いこの地域では大変珍しい、薄紅色の不思議な髪色の美少女であった。


「悪いな、姉ちゃん。敷物の一つも用意してりゃあ、大事なお尻が痛まずに済んだのになぁ」


「乗り心地は悪くありませんよ」


 鈴のように可憐な、虫も殺せないような可愛い声だった。そっと上げた小さな顔は、白地の陶器と花びらで錬成されたような、曇りの一点もない穏やかな美貌を携えている。首から下は大変肉付きが良く、薄い聖衣越しにメリハリのあるボディラインがくっきりと映えている。


(なーんでこんなべっぴんを魔王城まで捨てに行くんだか。娼館にでも売りとばしゃあ、けっこうな金になっただろうに)


 男は適当な相槌を打ちながら、前方を眺めた。悪趣味な画家が木炭で描き殴ったかのような、根元から枝葉の先まで真っ黒に染まった森に入る。気の滅入る重々しさがじっとりと肌を圧してゆく。


(酒場の噂じゃあ、将来を期待されてた優秀な『聖女』サマだったそうじゃねーか。なんか、えーっと……魔王の侵略を結界とかで防ぐお役目があったとかって聞いたんだが……ただの薄い服着た小娘じゃねえかよ)


 初めてこの少女に会ったのは今朝方。誰にも言えない大きな仕事だからと指名されて、維持費に税金ばかりかかる聖堂とやらに馬を走らせてみれば、何やら偉そうな面持ちの方々と、この少女が道沿いに立っていたのだ。


 行き先は、誰しもが忌避する魔王城の位置する、崖の下。男はもちろん断ったのだが、とんでもない額が書かれた小切手を渡されてしまい、心の底から断れなくなってしまったのだった。


 崖の下にある建物だから、森を見上げても、その屋根らしき物は見えない。誰も寄りたがらないその城は、崖近くまでなら馬車で近づけることが判明している。それ以上近づいたらしいと噂の『勇者』たちは、現在どうなっているのか未だにわからないと云う。


(な〜んだ、ただ湿っぽくて黒っぽくて肌寒くて気が滅入るだけの、普通の森じゃねーか。怖がって損したぜ。こんな場所を往復するだけで、あんな大金が入るんなら、俺が専属になっちまおーっと)


 馬は嫌がっていななきを上げるが、思いきり鞭を打って黙らせた。


 すっかり余裕が出てきた男は、馬車のすぐ目の前を、熊と見間違えるほど巨大な蜘蛛が横切ったのを見逃さなかった。


「な、なんだありゃあ!!?」


 さらにもう一匹、横切っていく。ふさふさの体毛に覆われた八本の足の先の、鋭い爪が地面を蹴って走り去っていく。


 思わず少女の方を振り向いた男だったが、荷車の上の少女は、両手を胸の前に組んで、静かに祈りを捧げているだけ。何も目撃していないようだった。


(ハァ〜、なんて所に来ちまったんだ。こんな仕事、もう金輪際請け負わねーぞ)


 昔に刻まれた轍から車の車輪が外れてしまい、荷車が大きく揺れた。


「うぉわ! 大丈夫か姉ちゃん!」


 振り返ると、そこには、


「うっふふふふふ……」


 猫背になってクスクス笑っている、少女の姿が。


「もうじき、もうじき会える、あの御方に……うふふ、うふふふふ……」


 なにやらブツブツ言いながら、ニヤニヤと口角を釣り上げている。


 男は見なかったことにし、前を向いて馬車を進めていった。



 薄暗く肌寒い森の奥深くで、白い蝶が舞い始める。


「そうなのですか……ここからは異界なのですね」


 少女の独り言が、ここに来て急激に増えていた。馭者はとうに会話をあきらめており、黙って馬を走らせていた。


 やがて見えてきたのは、大きくひらけた曇り空と、巨大な何かで分断されてしまったかのような切り立った崖だった。馭者は馬をずいぶん手前で停めると、椅子から降りた。


「着いたぜ、姉ちゃん。悪く思わないでくれ、これも仕事なんだ。さあ下りてくれや」


 少女の髪は長く、それを白い花飾りで一つにまとめて、背中ではなくて肩から胸の前に流していた。背中の大きく開いた聖衣から、白い肌がよく映える。


 その綺麗な背中から浮き出た背骨と、形の良い肩甲骨に、馭者は生唾を飲み込んだ。


「あなたを恨んではおりません。ここまでの御足労と付き添い、誠に感謝しております」


 少女はゆっくりと立ち上がり、スリットの大きく開いた長いスカートを揺らして、ゆっくりと大地に足を付けた。


 このままここに捨て置くには、あまりにももったいなく思わせる美貌が、馭者に振り返って会釈する。


「……本当に、すまねぇな。あんたを世話してた聖堂から、あんたを魔王城手前で置き去りにしろって命令が出てるんだ。あんなでかい組織には、誰も逆らえねーよ」


 彼女は微笑みながら、首を横に振った。


「あなたが謝ることは何もありませんよ。聖女の名を騙り、大衆の皆様をたばかった罪は、私自らが選び、背負った宿命。私はこの呪われた土地に留まり、一生をかけて罪を償ってまいりましょう」


 祈りの形に組まれた両手の、その向こうには、形の良いふくらみが。


「それでは、ごきげんよう」


 きびすを返した少女は、男には隙だらけに見えた。黄ばんだ歯が、にちゃりと輝く。


「なあ、姉ちゃんよ、これからどうするよ」


 ずかずかと少女に接近してゆく。


「禁欲的な生活もいいもんだが、なーんもイイ思いせずにこのまま野垂れ死にたくはねーだろ?」


 伸ばした太い腕が、少女の腕を掴もうとした、その刹那――


 少女が恐ろしい眼光とともに振り向いた。可憐な体に五色の色鮮やかな紋様が浮き上がり、そのうちの『赤い』紋様が輝きだした。


 男の頭髪が蝋燭の芯よりも激しく燃え上がる。


「ギャアアアア!!! 熱い熱い熱い!!!」


「私に触れてよいのは魔王様だけだ!」 


 獣とも少女とも区別できぬ濁声だみごえが響き渡る。森中から奇妙な造形の鳥たちが一斉に大空へと飛び立った。


「ひい! ひえええ!! 化け物ー!!!」


 男は焦げて嫌な臭いを発する頭髪と、真っ赤になった頭皮に腰砕けになり、命からがら馬車にたどり着くと、馬の尻の皮がむけて二度と懐いてくれなくなるほど鞭打って逃げだしたのだった。



 少女の貌が穏やかに戻り、ほっと息をつきながら、風になびく前髪を手で少し整えた。


「ああ、ようやく魔王様に逢える……ここまで本当に長かった」


 少女は長い睫毛を震わせて、長い長い旅路に想いを馳せながら、少しずつ崖へと歩いて行った。


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