第15話 【チーター太郎編】
【チーター太郎編】
昔々あるところに、おばあさんとおばあさんが住んでいました。
ひとりのおばあさんの名前はルオニ。
もうひとりのおばあさんの名前はレタ。
ルオニは弓の名手で、レタは優れた絵描きでした。
ふたりが出会ったのは、ずっと昔。
これまで大した喧嘩もせず、山の奥の小さな村で穏やかに、愛し合って暮らしてきました。
しかしルオニには最近、少しばかり悩みがありました。
「むむむ……」
「ルオニ。どうしたの?」
朝からそうやってルオニが、粗末な家の、しかし長年暮らしたオフィスで腕を組んで悩んでいると、レタがすかさず訊ねてきます。
「そんなに山に入るのがおっくうになった? もう、ルオニもおばあちゃんだものねえ」
「いや、いや」
レタがそう言うのに、ルオニは首を横に振りました。
「そんなことはない。確かに、風のように走ることはできなくなった。目も耳も、山向こうの鼠の歩くのを捉えられなくなった。しかし、私が山に入れなくなるのは死ぬときだけだ」
「死ぬとか簡単に言わないの」
「はい……」
「山に入れなくなったら、それはそれで別のことをしてみんなと生きていけばいいんだから」
ルオニは山へ行くことにしました。
形勢の不利を悟って逃げたのです。
逃げた先で、山道を行きながらルオニは考えました。
何も持たずに帰るのも具合が悪いので、芝刈りか竹取りでもして帰ろう、と。
さっそうたる足取りで、ルオニは山の深くへと分け入っていきました。
すると――、
がさっ!!
「誰だ!」
草むらから、ものすごい音がしたのです。
これは厄介だぞ――ルオニは、たらりと冷や汗をかきました。
今の音は、とても大きな動物のものでした。
しかも、とても近い。
これではせっかく背負ってきた弓矢も、射る前に飛び掛かかられてしまうかもしれません。
「……大人しくするなら、出てこい。しないというなら、私の矢がお前を貫いてしまう前に、尻尾を巻いて逃げるのだな」
ルオニはひとまず矢をつがえると、きりりと弓を引いて、いつでも迎え撃てるようにしました。
すると、草むらの中から声がします。
「ワン」
「なんだ、犬……すなわち人間の友か……」
「違う」
「ウワーッ!!!!!!! 虎みたいなやつが出てきた!!!!!!!」
ルオニは思わず指を離しそうになりましたが、こうして人の言葉を離す相手にいきなり飛び掛かるようでは、かえってこちらが獣と変わりません。
咄嗟に地面にひっくり返って、あらぬ方へその矢を飛ばしました。
「あいたたた……。背中を打った……」
「大丈夫か」
「ああ。どこか痛めていないといいんだが……いてて。しばらくはじっとしていた方が良さそうだな」
身体を寝かせようとすると、その虎のような生き物はルオニが休めるように、布団の代わりにその身体を横たえてくれました。
ルオニは少し悩み、
「恩に着る」
その気持ちを、受け取ることにしました。
「お前は何者だ。虎の甥か?」
「チーター、と昔は呼ばれていた」
「チーター。チーター……ふん。聞いたことのない名前だな。人の言葉も喋る。さしずめ、森の霊獣といったところだろう。もうここには長いのか」
「そうだな」
「どのくらいだ」
「ここが海辺だった頃から」
「海辺? はは、随分と思い切ったな。私のひいひいひいばあさんが生まれた頃だって、きっとここは海じゃなかったぞ」
「なら、それよりも前なのだろうな」
ルオニは、少しだけ驚きました。
「そうか。随分と長生きのようだが……そんなにここは住み心地が良いのか?」
「普通だな」
「普通なら、なぜずっとここにいる? 旅に出たりはしないのか?」
「待っているんだ」
「何を?」
チーターは、少しだけ黙りました。
「……さてな。忘れてしまった」
ルオニはその言葉に、老いゆく自分を重ね合わせました。
だから心を許して、チーターに訊ねることにしたのです。
「なあ」
「なんだ」
「面白い話をしてくれないか」
チーターは答えませんでした。
不思議に思って、ルオニは振り向きました。
「…………」
チーターは、絶句していました。
「なんだ。それほど長く生きているなら面白い話のひとつやふたつ、知っているだろうに」
「お前……ひどいな」
「そ、そうか?」
はっきりとチーターにそう言われれば、ルオニは怯んで、
「実は、まあ。そうだ。私はあまり、話すのが得意じゃないんだ。しかしだな……」
それから、事情を話し始めました。
「最近、足も萎えてきて家にいることが多くなった」
「…………」
「おい、ちゃんと相槌を打ってくれ。不安になる」
「……わかった。それで?」
「ありがとう。それで、私はレタという絵描きと長らく共に暮らしているんだが、どうもそのせいで『レタを退屈させているのではないか』と悩むようになった」
ルオニは、不安げに足を擦ります。
「レタは昔から身体が弱かったが、よく人と親しむ性質だった。だから私も惹かれていったんだが……しかし一方で、私はこのとおり、山に入っては弓を引くばかりの朴訥者だ。家にいて、一緒にいて、何か気の利いたことを言って笑わせてやることもできない」
「……そうか」
「そこでだ」
ぽん、とルオニはチーターの脚に手を置きました。
「面白い話を教えてくれ。ここが海辺だった頃から生きているというなら、私のそれほど長くはない先行きの間、尽きることのない語りができるだろう」
「…………」
「おい?」
「……面白い話をしろ、と言われてからする話で、本当に面白いものなど、この世にはない」
「そうなのか?」
ルオニは驚いて、
「難しいものだな」
「……しかし、まあ」
チーターは、渋々と言った調子で、
「覚えている限りで、昔の話ならしてやれる。……どうだ。大して面白くもないかもしれないが」
ルオニが頷けば、語り出しました。
昔々――。
それは、たとえば竜と戦った少年少女の話でした。
それは、たとえばふたりの騎士と、ひとりの王、それからその顛末を紡いだ学者の話でした。
冒険者と呼ばれる荒くれ者と、その仕事の手配師の話。
刑事と探偵、神に出会った聖女の話。
物言わぬ機械と、老科学者と、持ち出された古い理論。
その助手の天才少年と、先生と、隣の席の恋するクラスメイト。
鳥。
ふたりで大きな舞台に向かって汗を流した、仲の良い少年少女。
妖精の国から来た不思議な生き物。
老いてから夢に向かって歩き出した、未来の歌姫。
星の間を飛ぶ、古い古い、名もない舟。
これは聞いた話だけれど――と、医者の妖怪、お嬢様に御曹司。
聖なる剣を抜いた少女。
長い眠りから覚めて、また長い眠りに就いた古の存在。
ずっと一緒に暮らしている、吸血鬼と人狼。
眠りをもたらす催眠術師と、それに恋するアイドル。
死にたくなくて戦った、歴史を本に変えるミステリアス。
その孫の、たくさん笑って生き抜いて、最後は幸せに旅立った魔法使い。
ときどき世界のために変身して戦った、海辺の石拾い。
その心に寄り添おうとした、縁の下の力持ち。
時を保存し、読み込んだ、繰り返される日々の旅人。
旅人の隣で、己の影を継ぎ続けた救世主候補。
長い長い、荒唐無稽な物語。
ルオニは笑いながら、時にじっと聞き入りながら、チーターの話に相槌を打ち続け。
気付けばすっかり、日が暮れかかっていました。
「ああ、面白かった」
すっくとルオニは立ち上がりました。
背中の痛みは、もう消えていたのです。
「恐ろしいことに、これでも全部じゃないんだろう?」
「ああ」
「そうか。じゃあ、また明日、ここに聞きにきてもいいかな。次はその語り方も学ばせてもらいたい」
「構わない……が」
「が?」
「……ひとつ、お前でも簡単にできる『面白い話』を思い付いた」
「お、それは一体なんだ? ぜひ教えてくれ!」
「『あるあるネタ』だ」
あるあるネタ、とルオニは繰り返しました。
あるあるネタだ、とチーターはもう一度言いました。
「『こういうことがある』『こういうときはこうなる』『いつもこうだ』……そういうものを見つけて、共有するんだ。できれば新しい視点から物を言うのがいいが、難しければ、そうでなくても構わない」
「たったそれだけのことが面白いのか? 全く想像が付かないが……」
「面白いんだ。特に身内同士であればあるほど……親しければ親しいほど、面白くなる」
ふうむ、とルオニは腕を組みます。
「なるほど……と言えるほどにはわかっていないが。しかし、あれだけ面白い話をしてもらえたんだ。ここはひとつ、信じてみるよ」
「ああ。それから、これを」
「石?」
「これだけ家を空けて、手ぶらで帰るのもなんだろう。すりつぶせば、絵の具に使える」
ルオニが受け取ったのは、小さな石でした。
夕陽に透かしても、なお真っ青に、美しくキラキラと輝いています。
「まるでさっき話してくれた、海の石拾いのものみたいだな」
「そうだ。だが、もう時が経ったから、危なくはない」
「いいのか? 思い出なんじゃないのか」
「大切にしたまま忘れてしまうよりも、覚えているうちにまた、誰かに大切にしてもらった方がいいんだ」
「そうか」
ルオニは笑いました。
「ありがとう」
ルオニが家に帰ってその石を渡すと、レタは大層喜びました。
その喜びに気を良くして、まずルオニは、今日あった出来事を話すことにしたのです。
今日、山の中で不思議な生き物に会ったんだ。
そこで、長生きのそいつにこんな話をしてもらってな……。
レタは聞き上手で、「まあ」とか「そうなの」とか、そんな言葉を交えてルオニの話をたっぷりと聞きました。
するとルオニも、少しずつその気になってきます。
チーターに教えてもらった『あるあるネタ』――最初の頃は全く思いつきませんでしたが、やがて、きっとこれなら誰でも「こういうことがある」と共感してくれるだろうというものを、ひとつ見つけたのです。
「いやあ、」
ルオニは、思い切って言いました。
「一生というのは、果てしないものだな」
レタはくすりと笑って、
「そう? 私は、ふたりでいたらあっという間だった。幸せな時間って、すぐに過ぎ去ってしまうんだもの」
一瞬、ルオニは呆気に取られて。
どうしてチーターがこの話を面白いと言ったのかわかった気になって、大笑いしたのです。
そうしてふたりは、一生幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
めでたしの後も。
チーターは、まだ、待っていました。
【チーター太郎編 完】
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