妖帝の最愛 前編
夜も深くなってきたというのに、宣耀殿は密やかに慌ただしかった。
とはいえ、美鶴は小夜があちらへこちらへと動き回るのを見ているだけだったが。
(本当に、主上の御子が?)
膨れてもいない下腹に手を添える。
医師の診断を疑うわけではないが、美鶴は未だに信じきれていなかった。
確かに悪阻の症状はあるが、それだけで自分の腹に命が宿っていると言われても実感が湧かない。
初めの夜、確かにあの一夜だけ夫婦の営みはした。
美鶴とてどのようなことをするのか知らなかっただけで、夫婦の営みが子を作るための行為だという事は分かっている。
だから身に覚えがない、というわけではないのだが……。
(でも主上は、妖力が強すぎて子が出来ないはずではなかったのかしら?)
確かにそう聞いたはずだ。だから自分以外に妻がいないのだと。
なのに何故? と思うのは当然のことだろう。
(それに、平民の私が妖帝の子を産むなんて……)
おそらく、歓迎されることではない。
自分はあくまで予知の異能を買われて妻となったのだ。本来の妻としての役目――子を産むという事を望まれているわけではない。
(……主上の御負担になるのではないかしら?)
それが一番の気がかりだった。
身に余る事態にふぅ、とため息を吐くと、丁度
上品な足取りだが、急いでいるのか音がはっきりと聞こえる。静かな夜の中では尚更だ。
力強い足音は男性のものだろう。それが二つこの宣耀殿へ向かってきている。
「美鶴っ!」
訪ねる声もなく御簾が上げられ現れたのは、三か月ぶりに目にする妖帝・弧月だった。
「……しゅ、じょう?」
小夜が知らせたと言っていたので、時雨辺りが詳しい話を聞きに来るのではないかとは思っていた。
だが、弧月自ら来るとは思わないだろう。
美鶴は相も変わらず美しい主を驚きの眼差しで見つめた。
「美鶴、子が出来たと聞いた」
突然現れたことを詫びるでもなく、すぐさま美鶴の側に寄った弧月が問うてくる。
その問いに、まだ実感できていない美鶴はすぐに答えることが出来なかった。
迷惑になるのではないか。望まれていないのではないか。
そんな思いもあって、言葉が出ない。
だが、黙っているわけにもいかないだろう。
美鶴は勇気を振り絞り、こくんと頭を小さく縦に振った。
「っ! ああ、美鶴っ!」
「っ⁉ え?」
途端、抱きしめられた。
あの夜以来の抱擁に、瞬時に美鶴の頬が朱に染まる。
自分以外の体温を感じ、どきどきと鼓動が早まった。
「信じられぬが、俺の子が出来たのだな……ああ、何と言うべきか……とにかく、嬉しく思う」
「うれ、しく?」
耳元で聞こえた言葉が信じられず、思わず繰り返すように呟く。
(嬉しく思うとおっしゃった? ご迷惑ではないの?)
戸惑う美鶴の顔を見て、弧月は抱く腕を緩めた。
「嬉しいに決まっている。俺の子など、諦めていたのだぞ? しかもそなたが身籠ってくれるとは……」
そうして感極まったようにまた強い抱擁となる。
その力の強さから喜びが伝わってきて、美鶴は安堵した。
少なくとも嫌がられてはいないのだと分かったから。
だが……。
「……ですが、ご迷惑にはなりませんか? 主上とは……その、一夜だけですし……主上の御子ではないのではないかと騒ぐ者もいるのでは?」
弧月以外とそのようなことはしていないので他の者の子ということはあり得ないが、何も知らぬ者からすれば疑問に思ってもおかしくはない。
ただでさえ自分は平民である人間なのだ。ここぞとばかりに非難の声を上げる者がいるかもしれない。
「ああ、それなら大丈夫だ」
だが弧月はあっさりと美鶴の不安を否定する。
「美鶴への面会は厳しく制限していたし、唯一会っていた時雨も大した時間はいなかったであろう? それに、常に小夜がそなたの側にいた」
美鶴を守るための措置だったが、このような形で証明になるとはな、と弧月は笑う。
守って貰えているとは思っていたが、それほど気遣ってくれていたことに泣きたくなるほど胸が熱くなる。
自分を必要としてくれて、毎日花を贈ってくれるだけで十分幸せだというのに……。
畏れ多いほど大事にしてくれる弧月に、自分はこれ以上何を返せるのだろう。
「過分なお気遣い、ありがとうございます。ですが私は今以上のことは出来ません。あとはもう何をお返しすればいいのか……」
困り果てる美鶴に、弧月は「何を言う?」と本気で驚いた様子で告げる。
「俺の子を身籠ってくれているではないか。これ以上のことはないだろう?」
「あ……」
まだ実感がなかったせいもあるのだろう。
美鶴は弧月の子を身籠り産むという事が何よりも彼の喜びとなるのだと思っていなかった。
屈託のない弧月の笑みを見て、やっとそれを理解する。
「それに、これでそなたを寵愛しても苦言を口にする者はいないだろう。本当に嬉しく思う」
愛おし気に、艶を取り戻した美鶴の髪を撫でる弧月。
いつも安心を与えてくれる手であったが、彼の口にした言葉への驚きの方が強かった美鶴は安らぐどころではなかった。
「え? あの、寵愛……ですか?」
戸惑う美鶴の顔を柔らかな微笑みで覗き込む弧月は、もはや溢れる思いを隠そうとはしていない。
「ああそうだ、俺はそなたを愛している。この
「っ!」
言葉と共に思いが伝わってくる。戯言ではなく、本気なのだと。
美鶴は戸惑いの中に確かな喜びを感じた。
(ああ、そうなのね。私も、主上に会いたかったのだわ……)
会えなくても花を贈られるだけで十分だと思っていた。
だが久しぶりに弧月に会い、こうして会いたかったと言われて自分の想いも自覚する。
本当は会いたかったのだ。この美しい紅玉の瞳に、自分を映して欲しかったのだ。
仕えることが出来るだけで幸せだと思っていたから、そのような畏れ多い望みを抱くこともなかった。
だが、心の奥底では願っていたのかもしれない。
それほどに、弧月の想いを受け美鶴は喜びに打ち震えた。
だが、次に告げられたことは美鶴の想いを遥かに飛び越えていて戸惑いが戻る。
「頃合いを見て
「え? 弘徽殿、ですか? でもそちらは……」
弘徽殿は帝の住まう清涼殿からほど近く、中宮や皇后となる者が住まう殿だ。女御ですらない更衣の自分が足を踏み入れてよい場所ではない。
「大丈夫だ。美鶴には中宮の位を授ける」
「……」
驚きすぎて口を開けたまま固まってしまう。
今、何と言ったのだろうか。
平民出の自分に、妖帝の中宮――妃としての最高位を授けると言ったのだろうか。
(有り得ない)
有り得なさ過ぎて聞き間違いだとしか思えなかった。
もしくは夢を見ているのだろうか。……そうかもしれない。きっと、身籠ったという辺りから夢を見ていたのだろう。
有り得ないことが続き通しで、美鶴は現実逃避をしてしまう。
だが弧月は容赦なく引き戻した。
「何を呆けている? 俺は本気だぞ?」
「……申し訳ありません。流石にそれは、分不相応すぎます」
あまりのことの大きさに震える。
愛されることを諦め、ただ生きるだけの人生だった。
その生すらも終わりを迎えると思っていたのに、弧月に救われた。
そして気味が悪いと言われてばかりだった自分を必要としてくれた彼のお役に立てれば、それだけで十分幸せな人生なのだ。
それなのに愛しているとまで言ってくれた。彼の子を身籠ったことを喜んでくれた。
既に十分すぎる幸福だというのに、弧月はこれ以上を与えると言う。
流石にもう、幸せを通り越して恐ろしかった。
「……すまぬが、もう決めた。俺の子を身籠った愛しい女を守らせて欲しい。俺の一番近くにいて欲しいのだ」
「主上……」
「弧月と呼べ。そなたには、そう呼んでもらいたい」
「……はい、弧月様」
「ああ……美鶴、愛している」
言葉と共に、甘い吐息が唇に触れる。三か月ぶりの口づけは熱く、触れただけで溶けてしまいそうだった。
だが、それでも美鶴は恐ろしかった。
平民である自分を中宮にするとまで言う弧月。その愛を受け入れる覚悟が持てない。
唇が離れて開いた目に映った紅玉は強い意思が込められていて、つられて自分も強くなれるような気がする。
だがやはり気がするだけなのだ。
「弧月様……お名前の件は承りました。ですが、弘徽殿への引っ越しと中宮の位のことはお待ちいただけないでしょうか?」
「何?」
「申し訳ありません。畏れ多くて、恐ろしいとしか思えないのです。せめてもう少し、覚悟が出来るまでお待ちいただければ、と……」
出来るならば弧月の望みに応えたい。だが、この恐ろしさをそのままにしてただ流されてはいけない気がした。
「だが、近くにいてくれた方が守れるのだ」
それでも食い下がらない弧月に心が揺れる。
やはり彼の願いを聞いた方がいいのだろうか、と。
だが、そこに御簾の向こう側から第三者の声が掛かった。
「主上、お気持ちは分かりますがその辺りでお止めください。美鶴様も懐妊したとなってお心の整理がつかないのでしょう。少しばかり待つことも必要では?」
弧月と共に来ていたらしい時雨が美鶴に助け舟を出してくれる。
側近の進言に、弧月は「そうだな」と納得の声を上げた。
「美鶴、俺はそなた以外の妻を娶るつもりはない。だから弘徽殿への引っ越しも中宮の位も承諾して欲しい。……だが、今はただ体を大事にしてくれ」
「ありがとうございます」
望みはしっかり口にしつつも、美鶴の思いを汲み取ってくれた弧月に感謝する。
最後にもう一度口づけを落とした弧月は、今日の所はこれで、と時雨と共に帰って行った。
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