第38話 システムとしての家康


 夜明け前の一瞬、世界からすべての音が吸い出されたような静寂が訪れた。その静けさを切り裂くように、短い介錯の音が響いたのか、あるいはそれは私の心の中で鳴った音だったのか、今となっては判然としない。ただ確かなのは、豊臣国松という一人の少年の命が、巨大な歴史の帳尻を合わせるために費やされたという事実だけだ。


 国松の遺体は、速やかに、そして驚くほど事務的に処理された。涙を流す暇さえ与えないその手際の良さこそが、徳川家康という男の本質を物語っていた。彼は悲劇さえも、統治のための必要な手続き(プロトコル)として処理してしまうのだ。


 その日の午後、彦根城の大広間には重苦しい空気が澱んでいた。諸大名が居並ぶ中、家康は上座に座り、淡々と今後の幕府の方針を語っていた。彼の声には、勝利の昂揚も、少年を殺した罪悪感も一切含まれていない。まるで精巧に作られた自動人形が、あらかじめプログラムされた言葉を読み上げているかのようだった。


「豊臣家は、これより祭祀を司る象徴として存続する。政(まつりごと)は徳川が引き受けるが、それはあくまで天下万民のためである」


 家康の言葉は完璧だった。誰も反論できない論理の要塞。その完璧さが、私にはひどく空虚に響いた。彼は人間であることをやめ、この国を安定させるための「システム」そのものになろうとしている。いや、すでになっているのかもしれない。


 広間の末席で、私は頭を垂れていた。周囲の視線が突き刺さる。「石田三成の亡霊」「異端の策士」。そんな囁きが聞こえる。だが、私の心はそこにはなかった。私の意識は、城の奥深くにある一室――トマスが使っていた部屋へと飛んでいた。


 評定が終わると、私は家康に呼び止められた。

「如庵」

 家康の声は低く、そして乾いていた。

「国松のことは、残念であったな」

「……はい。しかし、これも天下の安寧のため。あの方も覚悟の上でしたでしょう」

 私は感情を押し殺し、完璧な恭順の言葉を述べた。家康の目が、私の瞳の奥を覗き込むように細められる。彼は私の言葉を信じてはいない。だが、反抗の意思がないことを確認すればそれで十分なのだ。

「お前は賢い男だ。三成のような愚直さはないが、先を見通す目を持っている。……今後も秀頼を支えよ。ただし、分をわきまえてな」

「御意」


 家康が去った後、私は逃げるようにトマスの部屋へと向かった。

 部屋は依然として荒らされたままだったが、家康の兵たちが去った後、奇妙な静けさが戻っていた。散乱した書物、破られた地図。それらはトマスがこの時代で足掻いた痕跡であり、同時に彼がここにはもういないことを示す抜け殻のようでもあった。


 私は部屋の隅にある書き物机に近づいた。引き出しはすべて開けられ、中身はぶちまけられている。だが、私は知っていた。トマスが本当に大事なことを記録するとき、決して目立つ場所には書かないことを。

 私は机の天板の裏側に手を伸ばした。指先に、ガムテープのようなもので貼り付けられた紙の感触があった。


 心臓が早鐘を打つ。私は慎重にそれを剥がし、掌の中で広げた。

 それは、レシートの裏に殴り書きされたような、小さなメモだった。そこには現代の数式――おそらく量子力学に関わるもの――と、彦根城の古井戸を示す座標、そして一節の奇妙な文章が記されていた。


『世界は巨大な鳥籠だ。だが、鳥籠の外に空があることを知っている鳥だけが、壁を透過できる。俺は先に行く。座標は固定した。鍵は“認識”だ』


 文字は震えていたが、そこには確かな意志が宿っていた。

 トマスはやはり、殺されたのではなかった。彼は自らの意思で、この閉塞した時代から脱出したのだ。家康というシステムが支配するこの現実から、別のリアリティへと。


 メモの下には、さらに小さな文字でこう付け加えられていた。

『P.S. 2024年のニュースを覚えているか? 俺たちが行方不明になった日の天気予報は雨だった』


 私はそのメモを握りしめ、震える息を吐いた。

 記憶がフラッシュバックする。そうだ。私たちがこの時代に飛ばされたあの日。土砂降りの雨。そして、車のラジオから流れていたニュースキャスターの声。「本日未明、山間部で土砂崩れが発生し……」


 トマスは、その「あの日」に繋がる道を、あの井戸の中に見つけたのだ。


 私はメモを懐にしまい、立ち上がった。窓の外には、徳川の旗がはためいている。この国はこれから260年の間、平和という名の眠りにつく。それは私たちが望んだ形ではなかったかもしれないが、トマスと私が持ち込んだ未来の知識――農業技術や医療、教育の種――は、確かにこのシステムの根底を支えることになるだろう。


 家康は勝った。彼は完璧なシステムを手に入れた。

 だが、彼は知らない。そのシステムの中に、決して消えない「異物」が混入していることを。そして、その異物こそが、いつかこの鳥籠を内側から食い破る力になることを。


 私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。疲れ切った中年男の顔。だが、その目は死んではいなかった。

「先に行け、トマス」私は呟いた。「俺にはまだ、最後の仕事が残っている」


 家康に、そしてこの時代に、最後の「策」を刻み込むこと。それが終われば、私もまた井戸の縁に立つだろう。

 遠くで一番鶏が鳴いた。新しい、しかしどこか古びた時代の夜明けだった。

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