▲4月23日 再びグリッチの二人(2)

「──なあ、やっぱ愛の力ぁ? 的なやつかなあ? 特別印象深い出来事だったから記憶が呼び覚まされたんだろ?」

「うるさいっ。知るか。ジンベイザメと同じ理屈だ。何を拍子にして思い出すかなんて分からんてことだろ」


「いやでも、絶体絶命レベルで封じられてた記憶のふたをこじ開けたわけだからなー。控え目に言って奇跡に近いファインプレーだと思うんだけど」

「お前、さっきまでの態度と全然違うじゃねーか。ガキみたいな煽りしやがって……」


 確かに。俺はとの会話が嬉しくて多少羽目を外していた。先ほどまでの鷹宮と違って、こういう揶揄からかいも許されるという気安さがそうさせるのだ。十分な自覚を持って俺は浮かれていた。


 鷹宮はそんな俺とは目を合わせずに、立ったまま熱心にコンソールを操作していた。

 いや熱心にというより、ムスっとした様子でと表現した方がよいだろうか。

 鷹宮が最後にチョチョイと右手を上下に揺らすと、これまで再現されていた教室の空間が瞬時に消失し、俺たちはまたあの無機質な〈グリッチ〉空間に戻っていた。


「おお、涼しくなった」


 周りの環境だけでなく、俺の着ている服も学生服から湿ったパーカーとジーンズ姿に戻っていた。

 教室の椅子に座っていたはずの俺は、いつの間にか鷹宮のベッドの上に腰掛けており、その脇には道実が意識を失ったまま横たわっている。

 鷹宮がその道実アバターの才川に対し腕組みをしながら向かい合う。


「これは……中身がな……」


 道実の寝顔に顏を近付けながら鷹宮が呟いた。

 その一言を聞き俺も気持ちが改まる。


「そうだ。それ。分かるのか? 気になってたんだ。ちゃんと中身がいるのかって。いまいち自信がなかったから」


 それから俺は、この周回を開始してからここに至るまでの経緯を鷹宮に説明し始める。



「──まったく、危ない橋を渡ったもんだな。上手くいったから良かったようなものの」

「仕方ないだろ? ただの高校生でしかない俺にしてはよくやったと思うぜ?」


 数えきれない幸運も味方した。

 そうでなければ高校生と社会的地位のある大人──それどころか、シミュレーション上のNPCと上位世界のプレイヤーという圧倒的な差をくつがえして、俺が才川を出し抜くことなどできなかっただろう。


「早くログアウトして決着を付けてこいよ。俺はここに残ってできるだけ才川をこの世界に引き留めておくから」


 そう言って俺はナップサックの中から四角い銀皿のケースを取り出し開いてみせた。ケースの中には1ダース半の注射器が並んでいる。


「それはなんだ? 睡眠薬か?」

「ホントはそういうちゃんとしたやつにしたかったんだけど、なかなか穏便に手に入れる方法が見つからなくてなあ」


 薬を失敬するために無理して医療機関などに忍び込んだ結果、お縄になって〈マハ・アムリタ〉を使えない状況に陥っても困る。代わりに用立てたのが、昔矢部がつるんでいた黒咲商の不良連中が扱うこのヤバい薬だったのである。

 度胸試しと面白半分でこの薬を使った矢部が、最後には会話もできないくらい酷い有り様になっていたのはもう何周も昔のことだが、今思い出しても胸糞が悪い。

 あの連中にも、この薬にも、金輪際近付きたくはなかったのだが、金さえ払えば容易に入手できるという手軽さが他に代えがたく、渋々この方法を選んだのだ(改造スタンガンもそいつらから買ってこの周回に持ち込んだ)。


「そんな怪しいもの使って大丈夫か? もし致死量を超えたら強制的にログアウトして目覚めてしまうぞ」

「ああ、分かってる。なるべく加減を考えて打つけど、保証はできない。だから急げって。才川がここにログインしている限り、上位世界でかち合うことはないんだろ?」


「あ、ああ……」


 俺が危険を冒してまで鷹宮邸に乗り込み、才川と直接対決を図った理由がそれだった。

 シミュレーターから途中でログアウトしても、目覚めた先で才川から逃れられるかは運任せ。そういう賭けに出ざるを得なかったのが前回だ。

 国府祐介の人格と記憶の保持を願ううえでは、おそらくはもう後のないこの状況で、もう一度トライするとしたら、鷹宮の記憶を蘇らせて〈グリッチ〉に到達させることの他に、道実の〈中身〉である才川をこの世界に引き留めておくことが絶対条件だったのである。


「早く行け」


 寝巻姿の鷹宮は、俺にそう急かされてもなかなか踏ん切りが付かないといった様子で、俺とベッドの上の道実(才川)、それに、モニターに映し出される〈マハ・アムリタ〉の青い画面との間で視線を何度も行き来させていた。

 だがやがて、諦めたように頷き、俺と真正面に向かい合う。


「すまん。本当に世話になった。成功したら必ず連絡する。だから──」

「ああ、この世界を頼むぜ」


「いや……、お前だ。ハルキ。必ず記憶を繋げ。間違っても、目覚めた才川とこの〈グリッチ〉の中で戦おうなんてするなよ? ネタが割れたら、こいつはNPCおまえなんてどうにでもできるんだから。無理せず、適当に時間を稼いだら、すぐにそれを使って外に出るんだ」


 鷹宮はそう言って〈マハ・アムリタ〉の画面を指差した。


「ああ、大丈夫だ。むしろ問題はここを出た後かもしれないけどな。一応訊いてみるが、どうなると思う?」


 〈マハ・アムリタ〉はこの世界のシステム開発者である鷹宮ですら、どんな挙動をするのかを正確に知らない隠しファンクションである。

 実際に何度も使っている俺にしたところで、こんな周回が始まったばかりの時期にこれを起動させたことはない。


「分からん……が、外に張り出してる〈コードコメント〉を読む限り、ちゃんとコマンドを選んで扉の外に出さえすれば大丈夫だろう。ハルキの体感としてはすぐに次の周回の、新しい4月1日が始まるはずだ」

「体感……てことは、やっぱりこの周回の、ここから先の鷲尾覇流輝はNPCが引き継ぐ感じなのか」


「たぶんな。たぶん今この瞬間にも〈グリッチ〉の外は本物のハルキなしで動いてる」

「やー、その辺、理解があるつもりなんだが、やっぱり自分のこととして考えると少し薄気味悪いな」


 俺は鷹宮の〈中身〉が抜けた後の〈奈津森≒鷹宮〉の様子を思い出していた。

 あれは傍目に見れば他の人間となんら変わりなく、本物と区別が付かないくらい完璧に再現された〈奈津森≒鷹宮〉だった。

 俺と同じ自我を持つNPCが──自分がそうであるとも知らないまま──この鷹宮邸に放置され、俺の後始末をさせられるのだと考えるのは少々気が咎める。


「しばらくお別れだが……。いや、またすぐ会おう」

「そう祈ってる」


 鷹宮が差し出してきた小さく柔らかな手を握り返す。

 もっと名残惜しむべきだったかもしれないが不思議とそんな気にはならなかった。本当に、またすぐ会えるだろうと思えたからだ。


 それから鷹宮が少し距離を取り、サヨナラと手を振るように僅かに手を上げた。

 反射的に俺も手を振って見送ろうとしたが、そのときには鷹宮の姿は忽然と消えていた。

 ああ、そうだったなと思い出し、俺は上げた右手をそのまま頭にやってポリポリと掻いて誤魔化す。



 ──それから先、俺は少々苦痛で単調な時間に身を置くことになった。

 ほとんど何もない空間で、寝ているオッサンと二人きりで取り残されたからだ。

 いつ目覚めるかも分からない道実の寝顔を観察しつつ、何もない場所でただ時間を潰すというのはなかなかの苦行である。


 腕時計の短針が半周したあたりで道実に動きがあった。

 状況が飲み込めずボンヤリしている道実(才川)の腕に俺は手早く注射針を刺す。

 それで相当ハイになれたのか、道実は顔と身体をだらしなく弛緩させる。

 それぐらいならよかったのだが、あろうことか小便まで垂れ流したことには辟易へきえきさせられた。だが鷹宮から脅し付けを受けていた俺は、そんな状態でも油断せずに道実の手指を押さえ付けながら、続けて三本目の注射を打つ。そのまましばらくすると道実は再び寝息を立て始めた。


 少なくとも現実世界基準で1時間ぐらいは足止めしようと思っていて、その目標はすでに達成されていたのだが、今の俺が鷹宮にしてやれる援護はこれくらいしかないぞと自分を奮い立たせ、不快な尿臭にも耐えながら俺はさらに粘った。

 懸命に眠気を堪えつつ、それからは2時間置きに注射を打つことにした。


 こんな常識外れの無機質な空間でも空腹と眠気は容赦なく襲って来るものだ。

 時間つぶしのために寄ったコンビニで缶コーヒーを買っておいてよかったと思う。カフェインがどうのということではない。まあ、多少はそれも役立っただろうが、ほとんど何もない空間で暇と口寂しさを紛らせるのに、それをチビリチビリとやるのがとても役立ったという話である。


 そうして、用意してきた1ダース半の注射をすべて打ち終えたとき、俺はとうとう身体の限界を感じ、道実をそのままにして〈グリッチ〉の外に出ることにした。

 道実の呼吸はまだちゃんとある。薬の効果が切れればじきに目覚めるだろうが、これだけ短期間にこれだけの量を投与されては、次に目を覚ましたとしても、すぐにはまともに思考することもできないだろう。


 そんなふうに考えている俺自身の意識も相当ヤバくなっていた。眠すぎてほとんど何も考えられない。

 早く寝たいと切実に願いつつ〈マハ・アムリタ〉の画面で〈はい〉を選択する。

 およそ30時間ぶりに現れた鷹宮の私室のドアを懐かしく眺め、そこにヨロヨロと近付いていく。

 施錠を外し、ドアノブを握る。内向きにドアを開け隙間を作ると、俺は入ってきたときと同じく、ほとんど倒れ込むようにしてその隙間に身体を潜り込ませた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る