▲4月23日 雷雨の鷹宮邸(2)
鷹宮邸の広い屋敷の中では、あちこちでスマートフォンらしきライトの光が揺らめいていた。
俺は自分とその明かりとの位置関係に気を配りつつ、道実の重い身体を半分引き
最後は倒れ込むようにして鷹宮の私室へと身を
ドアを開けた瞬間から鷹宮の匂いがした。
依然ギリギリの、予断を許さぬ状況だというのに、その匂いのせいでいかがわしい気分が込み上げる。
いやいや、これは生理的な反応だ。自動的に
そんなふうに考えると、俺が初めて鷹宮に対し特別な感情を抱いたときの自動的な反応のことも許せるような気がしてきた。
それが誰かに仕組まれた感情であるかどうかはさて置き、心がときめくのだから、それを無理矢理否定しても仕方ないではないかという図太い開き直りである。
「誰?」
暗闇の奥から鷹宮の声がした。
彼女の警戒心、と僅かに怯えも感じられる。
スマホの明かりが
前の周回の〈奈津森≒鷹宮〉は、一学期の早々からスマホを買い与えてもらっていたようが、今の昭島色の強い鷹宮は父親に対しそんなおねだりをしそうには思えない。
「俺だ。助けに来た」
道実の身体に
事情を知らない今の鷹宮にはとても通じない台詞だろうが、お約束だ。白馬の王子様参上だぞ。と、これは自分を鼓舞するために心の中で呟いた。
もう一度力を込めて起き上がろうとしたとき屋敷の電気が復旧する。
部屋に明かりが灯るのとともに、ジリリリとがなる火災報知器らしき音がドアの向こうから聞こえてきた。
「お義父様っ!?」
二人で床に寝転び、くんずほぐれつする俺たちの姿を見て鷹宮が声を上げる。
俺はそれには構わず、道実の身体を自分の脇に押しやって立ち上がると、ドアの方を振り返ってサムターンを回した。
「あ、貴方は……!」
「落ち着いて。頼む。それと、こっちに来て足の方を持ってくれ」
鷹宮は口元で、ええっ、と悲鳴のような息を吐きつつも、言われたとおり道実の身体をベッドの上に運ぶのを手伝った。
もしも俺が道実を蹴飛ばす場面を見ていたらまた別の反応をしただろうが、今のこの状況だけを切り取れば、俺が倒れた道実を介抱して運んできたように見えなくもない。
鷹宮にしてみれば、わけが分からないながらも俺に従い養父をベッドまで運ぶ道理はあったということだ。
「お義父様から貴方は悪い人間だと伺いました。私が失くした記憶も、辛いことを思い出すだけだから無理矢理掘り起こすものではない、とも……」
「その話を信じてるのか?」
「…………」
「ほら、衣服を緩めて、呼吸を楽にしてやってくれ」
鷹宮に次の仕事を言い付けてから、自分の方は肩に提げていたナップサックからゲーム機のハードを取り出し、鷹宮の部屋のモニターに繋ぐ作業に取り掛かる。
「何をされているのですか? まず説明をしてください。人を呼びますよ?」
「それは困る。邪魔が入ると君に真実を伝えられない」
「真……実……」
ポツリと呟く鷹宮を見て、俺はそこに昭島の面影を重ねていた。
「夢に見たりすることはないか? 君の、封印された過去の記憶だ」
敢えて多くを語らず、もったいぶった言葉で余白を想像させるようにする。
案の定、〈昭島≒鷹宮〉はそこに劇的なドラマを読み取り、口調を興奮したものに変えた。
「あ、あります。寝ているときに見る夢ではありませんが。今の自分ではない、誰かの記憶のようなヴィジョンを視ることがあります」
そこに忙しなくドアをノックする音が割り込む。
ノックの主は鷹宮が返事を返す間もなくドアを開けようとするが、下ろされた錠がそれを阻んだ。
「失礼します。遥香お嬢様。ご無事ですか?」
女の声がドアの向こうから呼び掛ける。
俺は鷹宮と見つめ合い、ゆっくりと首を横に振る。
「旦那様がこちらにいらしていないでしょうか? どうかお嬢様の声だけでもお聞かせください」
鷹宮がベッドの上から立ち上がり、ドアの近くまで歩いていくのを俺は祈る思いで見送った。
「いらしたわ。……でも、出て行かれました。鍵を掛けて、自分が戻るまでは決して開けるなと言い残して」
部屋の壁に反射して届く鷹宮の声。その張り詰めた声を聞き、俺は緊張を緩める。
ドアの向こうの女が「失礼しました」と言って去ると、鷹宮もホッと溜息をついて振り返った。
「これでいいですか? でも、何かおかしなことをするようならすぐに警察を呼びますからね」
鷹宮はドアの前に陣取り、背中をそこに預けながら、俺に向かってスマホを掲げて見せた。
きっと道実のポケットから拝借したものだろう。なかなか抜け目がない。
俺は頷き、ゲーム機の準備を再開する。
「それで……えっと、さっきの話ですけど、聞いていただけますか?」
「ああ、やりながらですまん。話してくれ」
「……自分が、自分でない気がするのです。確かにヴィジョンはこの屋敷の中なのですけど、私の視界の中に、私がいるのです。お義父様といっしょにいる私……。私、それを遠くから見ていました。憶えているのはヴィジョンだけじゃなくて、そのときの感情もです。なんだか物悲しい気分も一緒に……、流れ込んでくるようでした」
「…………」
「絶対にこのままにしておけない。このまま分からないままにしておくのは嫌なのです……けど……、怖いのです。あのっ……。聞いてらっしゃいます?」
「ああ、聞いてる」
「ご存知なら教えていただけますか? もし、貴方の言うことに従って、記憶を思い出せたなら、ですが……、その結果、私が、私じゃなくなってしまうのではないかと……」
「…………」
配線を終え電源を入れると、俺はナップサックの中から俺の最後の隠し玉である〈マハ・アムリタ〉のパッケージを取り出した。
前回〈マハ・アムリタ〉を起動するときにポケットに忍ばせておき、前の周回から持ち越したもう一枚のゲームディスク。この周回の世界では発売はおろか、まだ開発も生産も終わっていない、この世に存在しないはずのゲームだった。
ディスクが挿入され、モニターにゲーム画面が表示されると、鷹宮が如何にも不満げな声で抗議を始める。
「すみません。物事には段取りがあるのは存じているつもりですが、こんな日に他人の部屋に押し掛けてきて、なさることがテレビゲームというのは……」
「そうだ。段取りだ。全部必要なことだから信じてくれ。こっちに来て座って。それと才川……じゃあなくて道実の手を取って。ちゃんと脈と呼吸があるか見ておいてくれよ?」
俺がそう言うと、鷹宮はギョッとした様子で寄ってきて、ベッドの上に腰を下ろす。その体勢のまま、寝かせてある道実の顔を覗きその手首に触れた。
「大丈夫です。あの、お義父様に一体何を? 病院にお連れしなくても平気なのですか?」
俺は鷹宮がそうしている間にナップサックを背負い直してベッドに上っていた。
そうして混乱している鷹宮に背後から覆いかぶさるようにして座り直す。
モニターを正面に見ながらゲームのコントローラーを握り、そうやって鷹宮を腕の中に閉じ込める。
「えっ⁉ ちょっ、ちょっと、何⁉」
「大丈夫。全部必要なことって言ったろ? 悪いとは思ってる。あとで謝るからちょっとだけ我慢してくれ。あっ、手だ。手ぇ握ってくれ、道実の。……そう。密着しておく必要があるんだ……。たぶん」
当然こんなふうにするのは後ろめたい。
腕の中どころか、両脚の間に鷹宮の身体を挟みこむなんて大胆を通り越して犯罪的。相思相愛の恋人同士でもここまでに至るのはなかなかのハードルだろうと思えるイチャつきプレイだ。
俺の方はまだいいが、鷹宮がいま着ているのは絹のようなスベスベで薄い生地の寝巻である(ネグリジェというのだろうか?)。なるべく意識しないように心掛けても、布越しに伝わってくる彼女の体温は容赦なく俺の理性を痛めつける。
もしこれで何も起きなければ、俺は今度こそ間違いなく警察の厄介になることだろう。少年院送り程度で済めばいいが……。
だが幸い、そういった心配は不要になった。
鼻腔をくすぐる彼女の髪の匂いに意識を持っていかれないようにしながらコントローラーの操作を続けていると、やがてそれが始まったからだ。
世界から色が抜け、ポリゴン調の線描になり、そして部屋の中にあったあらゆるオブジェクトのレンダリングが省かれていく。
〈マハ・アムリタ〉に隠された
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