▲4月6日 孤立

 鷹宮女学院から自宅までは、バスと電車を乗り継いで片道2時間ほど掛かる距離にある。

 一応途中で網に掛からないようにと考えて、繁華街まで徒歩で行き、そこからタクシーを拾って自宅まで一直線に帰るなどという小細工をろうしてみたのだが。

 自宅にはすでに才川の手が回っていた。家の玄関で母親に事情聴取をしている警察官と対面することとなったのだ。


 それから後のことはあまり思い出したくない。

 失敗を糧に何か教訓めいた談話を残すとすれば、未成年だから、初犯だから、何もしていないから、という自分に対する言い訳をして不法侵入というものを甘く見ない方がよいということだ。

 それと、その場から逃げ去ったのもよくない判断だった。侵入時に刃物等の危険物を所持していなかったことを立証することが難しくなるからだ。


 とにかく俺は、その日の夜、自分が当初想像していたよりも倍ほど酷い結果を覚悟しながら、母親とともに警察署を後にすることとなった。自宅では帰宅していた父親も交えての説教と相談を終え、自室に戻ったのは深夜0時を過ぎた後だった。


 俺は今すぐベッドで横になりたい衝動をどうにか堪え、机の引き出しにしまってあったメモ紙を取り出し、そこからスマホにメールアドレスを入力した。

 それは鷹宮道実が普段から使用しているスマホのアドレスで、前の周回中に昭島から入手したものだった。この周回で、才川と直接対峙し、戦うために準備した武器のひとつだ。

 俺の──俺たちの反撃はこの一本のメールから始まるのである。



 ただの高校生の俺にとって、警察を通じた正当な被害届は相当堪えるものであったが、しかし、ある意味においてこれは好ましい材料といえた。

 事ここに至っても、才川が俺に対して振るうことのできる力は常識的な公権力の行使を超えるものではないことが立証されたからである。


 シミュレーターに実装された機能を用いて俺の身柄をさらったり、あるいはもっと短絡的に、俺の存在を消したりできるのであれば、わざわざこんな回りくどい方法で俺を追い込む必要はないはずだ。

 上位世界からの何かしらの介入を窺わせる兆候がなかったことで、ひとまず最初の賭けには勝ったと考えてよいはずである。


 才川目線で考えれば、今の俺はまったく得体の知れない存在だと言える。

 一年周期でリセットされる仮想現実世界の存在でありながら、奴の目の前に現れた俺は明らかに今周回より前の記憶を残しているように振舞っていた。

 奴としては当然気になるだろう。


 自分の研究仲間である国府祐介を罠にはめ、研究成果を横取りしようという犯罪行為の只中にある才川。奴にとって洗脳装置であるこの世界は他に替えの利かないものである。

 その世界に忽然と現れた不確定要素の俺。

 その謎を残し、問題が解決されないままで洗脳作業を進めることには大きな不安を抱えているに違いない。しかし、解決を図ろうにも、上位世界の住人である才川にとってもこの仮想現実の世界はブラックボックスなのだ。


 何が起きているのか知りたくても外からでは観測することができない。

 神とはいえ、下界に留まり、下々に混じって同じ目線で見聞きする以外に真相を解き明かすすべはない。


 俺という存在に関心を抱かせ、才川をこの世界に留め置くこと。それが、俺がまず始めに達成すべき勝利条件なのである──。



 才川に打つメールの件名には少し頭を悩ませた。

 最初は『取引をしよう』とだけ入力していたが、これでは関心を引かない可能性もある。そうだ目的は相手をあおることだったと思い直し、最終的に『遥香は俺の嫁』と打ち直して送信することにした。

 俺たち世代でもギリギリのネットミームだが、まあ、鷹宮道実はこの世界で三十代から四十代の設定だし、一般的な知識はプリセットされているはずだから、俺のこの宣戦布告の意図は伝わるだろう。


 返事がなければないで次は直接電話してやろうと思っていたが、ほどなくして指定したアプリにメッセージが送られてきた。


『お前は何者だ? 何故あの日のことを知っている?』

『愛の力だ』


『ふざけるな』『身内か? 不正ダイバーか?』『どうやって潜り込んだ?』『目的は何だ?』『まさか、あのときのガキもお前だったのか?』

『質問が多いな。だが愛だ。すべて愛で説明できる』


 俺はあえて煙に巻く応答をする。

 俺のねらいや人物像、行動原理を絞らせないようにと考えてのことだったが、その結果、才川が勝手に俺のことを自分と同じ上位世界のプレイヤーだと誤解してくれたのは実に都合が良かった。


 なるほど〈不正ダイバー〉ね。ハッカーみたいなものだろうか。


『遥香のアバターが気に入ったのか?』『あの外見はスクラッチだ。この世界モジュールとは独立に存在する』『条件によってはそのデータを分けてやってもいい』『わざわざ他人の庭に入って来ないで、自分の環境を立てて遊んでろ』


 矢継ぎ早に飛んでくる才川のメッセージ。

 俺が次の短い一文を打ち返すまでにはそれなりの時間を要した。


『お前が削り出したのか?』


 それを受けた才川からの返信にも間があった。


『そうだ。と言いたいところだが違う。モデルデータを切り出して渡すにはライセンスを握っている人間の同意がいる。だから今すぐ渡す訳にはいかない』


 その文面を信じる限り、奴は俺が交渉相手になり得ると判断したのだろう。


 短い時間に俺の頭は信じられないほど高速で思考を巡らせる。この世界や、俺自身を形作るハクジラの神経伝達速度すら凌駕するほどに。

 こちらの正体を悟らせずにどうやって才川を出し抜くかを考えながら、その主演算の裏で俺は、あの〈鷹宮遥香〉の外見を創り出スクラッチしたという人物の正体に当たりを付けていた。


『それは国府祐介のことか?』

『やはり身内か』『それともあいつのフォロワーか?』『何をどこまで知っている?』


『それは教えられない』

『俺の出す条件はこれ以上関わるなということだ』『仮に身内でも、研究のピーピングは重罪だぞ。すぐに出ていけ』


 同僚の研究を横取りしようとしている人間がよく言う。

 だが、まさか生身の脳をハッキングしてライセンスを手に入れようとしている、などというヤバイ話を、俺のような得体の知れない相手に明かす訳もないだろう。深入りは禁物だ。


『そちらの事情に興味はない』『だが、空手形で取引はできないぞ?』

『奴の同意は確実に取り付ける。しかしお前の行動は無自覚にそれを阻害している。望むものを手に入れるためには、お前はここから手を引かなければならない』


『順序がアベコベじゃないか?』『手を引いて欲しいのなら、お前はその理屈を俺に納得させる必要がある』

『時間がいる。三カ月だ』『こちらの準備ができ次第、取引用の別のサーバーの座標を連絡する。まずは直接会って量子脳暗号のキーを交換しよう』


 俺は以前鷹宮との雑談の中で、この仮想世界という場所が上位世界に住むアングラな連中の取引現場として使われているという話を聞いて知っていた。中での出来事がほぼ完全なブラックボックスであるのをいいことに、互いの身元を隠してやり取りするには格好のロケーションというわけだった。


 〈量子脳暗号〉という聞き覚えのない単語が出てきたことには緊張を強いられたが、会話の流れ自体は俺の想定どうりである。

 労せず直接会う約束ができたと、俺はスマホ画面を見つめながらほくそ笑む。


 こうなれば、あとは締めの追い込みだけ。

 俺はハッタリを気取られないように、繊細かつ大胆に次の文面を入力する。


『お前と違ってこっちは手順が複雑なんだ。三日後。こっちの世界で4月23日の夜に落ち合うことにしよう』『それと、面倒だからワシオハルキに対する警察への被害届も取り下げておけよ』


『分かった。お前がどういうを踏んでここにダイブしているのかも是非知りたいものだな』

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