▽8月19日 プールデート(2)

 夏休みのプール浴場は家族客や、学生と思しき若者たちでごった返していた。

 夕方、4時を過ぎた辺りで太陽が陰り始め、生ぬるい風がプールサイドに吹きすさぶようになる。

 それで人の密度は幾分かまばらになってきたが、午後の遅く、2時過ぎに集まった俺たちはまだまだ遊び足りず、客が減ったことをこれ幸いにと、むしろテンションを上げる。ウォータースライダーを好きなだけ周回するなどし、高校生の活力に任せて存分に遊び回っていた。


 空から大きな雨粒が降り注いだのはそんな頃合いだった。

 いや、降り注ぐなんて、そんな生易しい表現ではとても足りない。叩きつけるような、地上のすべてを洗い流そうとするような垂直の急流。それが突然やってきた。


 水に入ることを想定した水着姿の者たちでも、こんな水量にさらされる覚悟はできていない。悲鳴を上げながら屋根のある建物の中へと駆け込んでいく。

 そこに幾つかのそう的な笑い声が混じるのはさすが陽気な若者たちの面目躍如といったところか。

 一緒に来ていた連中の位置関係はおおむね把握していたが、滝のように落ちてくる雨に視界が遮られ、すぐに行方を見失ってしまう。


 俺はちょうど鷹宮と二人きりでビーチパラソルのような小さなテントの中で休んでいるところだった。

 今か今かと待ち構え、鷹宮と離れないように彼女の近くに張り付いていたので、これは当然の展開である。


「どうするー? あっちの、更衣室の方に戻るー?」


 鷹宮はパラソルの中から手を伸ばし、心配そうに瀑布の圧を推し量っていた。


「いや、戻るにしてもなー。少し収まってからにしよう。それにー。今から更衣室に行ったってなー。大混雑だぞーっ?」


 遅まきながら場内放送が鳴り、プールから上がるようにという案内が流れてくる。おぼれていても監視員が発見できず危険だからだと。

 だが、そんな案内などなくとも、まともな神経を持った者なら、とうにプールから上がっているはずだ。こうしてテントの中にいても水の中にいるような息苦しい圧迫感がある。この状況で雨を避けず外にいるのは相当な胆力を必要とするだろう。


 俺はほとんど先の見えない灰色のベールの向こう側にしきりに目を凝らしていた。


「鷹宮、お前も周囲をよく見てくれ! 何かおかしな部分を見つけたら俺に教えるんだ!」


 〈グリッチ〉を探すための観測者は多い方がいい。そう思って隣にいる鷹宮に向かって声を張り上げた。さらに激しさを増す雨音のせいで、叫ぶくらいにしないとろくに声も届かない。


「おかしな部分て何ぃ⁉ 溺れてる人とかぁ?」

「それもだが……、なんでもだ! どんな僅かな違和感でも。周囲と違う感じの場所がないか探してくれ!」


 声を張り上げながら、お前がちゃんと教えておいてくれなかったからだぞと、これは心の中で叫ぶ。


 一周目の鷹宮曰く「見れば分かる」とのことだった。

 仮想世界を構築する生体グリッドコンピューターが起こすレンダリングミス──通称〈クジラの欠伸〉。

 それが最も起こりやすい状況が、人出が多いプールなどの水際でのゲリラ豪雨というシチュエーションであるらしい。レンダリングミスというからには、ひと昔前のゲームに見られる解像度の荒いモザイクのような見た目を想像しているのだが……。


「違和感て……。ねえ! 違和感ってー、のことぉ!?」


 鷹宮の濡れた手がバシバシと俺の背中を叩く。

 俺はほぼ正反対に向き直り、鷹宮が指差した方向、流れるプールの一画に目を凝らした。


 ──アレだ!


 確かに。見た瞬間に分かった。

 そこだけ薄くもやが掛かったように、水面に降りしきる豪雨の〈投影〉が乱れていた。

 何がどう違うと言えばいいか表現に苦しむが、強いて言えば彩度が低い。この天候なので、元よりグレーに染まった世界なのだが、鷹宮が指差したその場所だけはとりわけ色彩というものが感じられない、白と黒の2値だけで描画されているように見えた。


 水面に落ちる雨粒の波紋。しぶきを上げて乱れる水面にそれが

 その空間は、水の上をいずる生き物のように、少しずつ位置や大きさを変えて動いていた。単一の静止画ではとても発見できなかっただろうが、その変化と動きがあったおかげで捉えることができた。


「よし、行くぞ!」


 俺は躊躇ちゅうちょせず鷹宮の手を掴んでいた。

 〈グリッチ〉に向かって一直線に。テントを跳び出そうとしたところで身体がつんのめる。一瞬上半身だけが外に出て身体が水浸しになる。

 これは堪ったものではないと、俺は頭からしたたる雨水を必死で払った。


「ぃいぃ行くって、どこによ⁉」


 怯えた顔の鷹宮。

 ああ、それはそうか。そうなるか。

 だが、ここで彼女が納得するまで説明している余裕はない。いつまであの〈グリッチ〉が出現しているのか分からない。これは一周目ではついに見つけることのできなかった千載一遇のチャンスなのである。


 3月末にはまた鷹宮の状態を観察するために鷹宮道実のアバターに才川の精神が宿り、鷹宮の行動の自由を奪ってしまう可能性が高い。きっと〈マハ・アムリタ〉は使えない。

 つまり、この機を逃せば鷹宮を無事に現実世界に帰すチャンスはもう二度と巡っては来ないのだ。

 俺は気合を込めて鷹宮に向き直る。


「えっ! えっ? えっ? ええぇっ⁉」


 次に俺が取った行動に鷹宮が困惑の声を上げる。

 俺は彼女の太腿の裏に手を回し、下からすくい上げるようにして持ち上げていた。鷹宮の身体がくるりと倒れ込むのに合わせて、もう片方の腕を背中に回ししっかりと支える。

 まさしくこれは、世にいうお姫様抱っこである。


 濡れた肌同士が密着する感触に俺の神経が励起する。その感触を、熱を、少しも漏らさず感じ取ろうとして全身の感覚が何倍にも鋭敏に──身も蓋もない言い方をすればメチャクチャ興奮していた。


 脳から分泌されるアドレナリンが火事場の馬鹿力的に全身の筋肉を賦活ふかつさせたのか。あるいは幾度も彼女を抱き上げる妄想にひたった脳内訓練の賜物たまものか。

 この仮想世界の物理法則において、それがどのように演算されているのかは知りようもないが、野暮なことはいいのだ。大事なのは俺がそうして驚くべき力で鷹宮を抱き上げ、轟々ごうごうと降りしきる雨の中に連れ出したという事実であった。


「ちょっと! ちょっと待って。嘘でしょ⁉ 待って──」


 プールの水面に見える〈グリッチ〉に向かい、助走を付けて、全力で、跳ぶ──!


「待って待って待って待っ!」


 ザブンと身体が水の中に沈み込む感覚。

 鷹宮の身体を離さないように必死で抱え込む。

 ザバリと水面から顔を上げ息を吸い込む。

 いや、吸い込もうとしたのだが、絶え間なく打ち付ける豪雨の中で俺は全力であえぐことになった。


 それがどれほど困難なことか、一度でも体験した者であればそれが分かるだろう。

 上半身は水面の上にあっても、それはほとんど溺れているような状況だ。誇張抜きで死ぬかと思った。視界はないに等しい。息もほとんど吸えない。余計な水を飲まないよう、顔をなるべくうつむかせ、口をすぼめ、身体に残された酸素を頼りに懸命に前へと進む。

 跳び込む直前までそこに見えていたはずの〈グリッチ〉に向かい、腰より下を浸すプールの水を掻き分け、一歩、また一歩と進んでいく。


 すると、ある瞬間から身体にまとわりつく水の抵抗が消えた。

 腰より下だけではない。上半身に叩き付けていた暴力的な雨水も忽然こつぜんと消え去った。


 ──来た。成功だ!


 予めそれを予期していた俺はその瞬間歓喜に沸いた。張り詰めていた緊張が解け、身体に力が入らなくなる。その場にへたり込むようにして鷹宮の身体を下に下ろす。肺いっぱいに空気を満たす。


 すでに足元はプールの底のようなザラザラしたコンクリートの感触ではなかった。何の抵抗も感じないツルツルの、無機質という概念を極限まで凝縮してかたどったような床面である。


 頭の天辺から滴る水滴を両手で拭いつつ周囲を見回す。

 そこは遥か地平の先まで続く何もない空間だった。


 〈マハ・アムリタ〉を使って、俺が何度も体験したあの不思議な空間と同じがするが、あれとは違い、今は部屋を区切る境界すらない。

 〈何もない〉が無限に広がる世界だった。


「一体……なんなのよ」


 膝を折り曲げペタリと床に座りながら、鷹宮がゼイゼイと息を整えていた。

 アップにまとめていた髪紐がほどけ、濡れた黒髪が肩や背中にベッタリと貼り付いている。


「よく見ろ鷹宮。周りを。何か思い出さないか?」

「周りぃ……?」


 顔に掛かった髪をどかし、掌で水滴を拭ってようやく鷹宮も周囲を見回す余裕ができる。その顔が驚きの表情で凍る。


「あ、雨は……? プールは⁉ どうなったの⁉」


 駄目か。

 反応が普通すぎる。

 確かにその疑問はもっともだが、それは何も知らない者にとっての正常な反応だった。

 この世界の外部から来たプレイヤーならば、ここが仮想現実のレンダリングの限界で生じたバグ空間〈グリッチ〉であることに気付いてもいいはずなのに。

 この世界が仮想現実であることを示す確たる証拠を見せれば、上書きされてしまった国府祐介の記憶も呼び覚まされるのではないかと期待していたのだが……。


 一瞬失望し、鷹宮から目を離しかけたそのとき、俺は彼女の表情の変化に気付く。

 彼女の瞳は不思議そうに、ある一点を見つめて止まっていた。

 俺はその視線の先を追うが、そこには白い床面が広がっているだけ。鷹宮と目線の高さを合わせ、角度を変えて見ても、そこに注意を払うべき何かがあるとは思えない。


 ふと立ち上がる気配を感じ首を起こすと、そこにはガラス窓か何かに触れるように左手を広げて立つ鷹宮の姿があった。

 その表情はどこかうつろで……、俺は最初、鷹宮が心神喪失状態になってしまったのかと心配したほどだ。得体の知れない空間を目の当たりにしたことによる、重篤じゅうとくなショックに精神が耐えられなかったのではないかと恐れた。


 だがしかし、鷹宮の開かれた手はその場所に留まらず、上下左右に僅かに揺れ始める。

 そのうち、その目がまん丸に見開かれ、何かに集中し始めたような印象を醸しだす。明らかに何かの意図があって手を動かしている。

 そこでさらに注意を払って観察すると、鷹宮の下げたままの右手はときどき鍵盤を叩くように指がバラバラと動き、右足もかかとを少し浮かせて踏み込む動作を交えていることに気付いた。その姿に俺は、SF映画やアニメで描写されるような三次元空間上に投影されたホログラム状の端末を操作するワンシーンを連想する。


「鷹宮? 何か、見えてるのか?」


 俺が声を掛けると、鷹宮はそのとき初めて俺の存在に気付いたように表情を変えた。


「あ、ああ、ハルキか」


 先ほどまでの不安げな、高くつり上がった発声とは明らかに違う──その抑揚の少ない淡泊な物言いにはよく聞き覚えがあった。

 間違いない。それは、およそ半年ぶりに会うの口調だった。


「思い出したんだな? 鷹宮」

「あ、ああ……、思い出した。お陰で、思い出せたよ……」


 そう言いながら鷹宮は自分の濡れた身体を見返し、妙に気まずそうな顔になる。肩に掛かった髪を手でしごき、水を絞る素振りを見せた。

 そんな妙に艶めかしく女性的な仕草を見て俺は不安になる。


「本当に鷹宮か? いや、国府祐介か? 本当に全部思い出せてるんだろうなあ?」


 確実にしておかなければならない事実確認である。思わず声が大きくなり、肩を揺する手に力が入ったのも仕方のないことだろう。

 だが、俺のその前のめりになった気勢のせいか、鷹宮はまた驚いた表情になる。

 かと思うと一瞬で顔を真っ赤に染め、乱暴に俺の手を振り払った。


「お、思い出してるよ全部。全部、思い出したからだって。察せよ鈍感! 鈍感ハルキ!」


 鷹宮は俺の胸を押して遠ざけると、その場にしゃがみ、自分の膝を両手で抱きかかえ小さく身体を丸めるポーズを取る。


 呆気に取られてその様子を眺める俺。

 少しの間を置いたあと、ようやく気が付いた。

 こいつは恥ずかしがっているのだ。俺に対し、大胆に肌を露出させた水着姿を披露している今の自分のありさまを。


 恨めしそうに俺の顔を見上げる鷹宮の表情を見て俺は安堵……、いや、それよりも、なんて可愛い奴なんだ!──と密かにその感動を噛み締めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る