◇6月8日 教室での告白

 その日の最後の授業が終わり、皆が開放感に沸き立つ至福のひととき。

 俺はおもむろに席を立ち、彼女──鷹宮遥香が座る窓際の席に向かって真っ直ぐに歩き始めた。


「おっ、いくのかハルキ? いよいよか?」


 俺の放つただならぬ気配を察し、矢部がいち早く声を掛けてきた。その声を聞きつけ他の連中もそれに続く。


「マジか? ハルキまで? やめとけやめとけ。玉砕するだけだぞ?」

「これで何人目だー?」

「あ、でもこのクラスからは地味に初めてじゃね?」


「まあ見てろ、真打登場だ。いや、つーか、お前らは帰ってろ。見せもんじゃねー」


 俺がそう応えてシッシッと手で追い払う仕草をすると教室全体からオオッ? というどよめきが起こった。


 そうだ。自信はある。

 これまで散々鷹宮を観察して得た俺の推論だ。

 この時間であれば、周囲の何もかもを拒絶する絶対零度の、硬く厚い氷の壁を打ち壊し、彼女と会話らしい会話ができるという勝算があった。


 すでに多くの生徒が帰り支度を終えて席を立っているというのに、鷹宮はまだノートと教科書を広げたまま、窓際の席で外の様子を眺めている。


 外の、おそらくは校門前に停まったデカイ黒塗りの高級車を見て……溜息を、つく……。


 ほらやっぱり。理由は分からないが、明らかに気乗りしていないのだ。このままあの車に乗って帰宅することに。


 絡んできた上級生を投げ飛ばし(?)窓ガラスを割る騒動があったというのに、あの事件以降、鷹宮にちょっかいを掛けようとする者は逆に増え、あとを絶たなくなった。


 分をわきまえない不届き者の多くは上級生だが、同級生や下級生も含まれる。

 各クラスの割と目立つ奴が──陽キャの代表選抜みたいな連中が──あわよくばと、あるいは度胸試しのような不埒ふらちなノリで鷹宮の前に現れては玉砕するというイベントがなかばルーチン化されていた。


 だが、俺が見る限り、彼らは基本的な戦略を間違えている。

 おそらく席を立って逃げられないようにと考えて、授業の合間の休み時間や昼休みに声を掛けているのだろうが、むしろ狙い目なのは、一見さっさと送迎の車に逃げ込まれてしまいそうな、この時間帯であると俺は踏んでいた。

 俺には彼女が校内に留まる理由を欲しているように見えたのだ。


 俺は鷹宮の前の席の椅子を引き摺って出し、彼女に向かい合うようにして座る。


 鷹宮はそのときになってようやく、俺の存在と、何事かを期待するクラスの雰囲気に気が付いたようだった。

 露骨に迷惑そうな表情になり、机の上に広げていた教材や筆記具を片付け始める。


「俺、鷲尾覇流輝。ハルキって呼んでくれ」


 同じクラスになってすでにひと月近く経つが、おそらく認識されていないことを見越して自己紹介から入る。対する鷹宮は返事一つ返さず、完全に無視を決め込んでいた。まあ、想定どおりの反応だ。


「何か困ってることあるんじゃない? 力になるよ、俺」


 俺がたったそれだけ喋る間に鷹宮は早くも片付けを終え、カバンを閉じる段に入る。


 早い早い早い。

 流石にもう少しゆっくり話をする時間はあると思っていた俺は初っ端から慌てさせられる。


「真っ直ぐ家に帰りたくない理由があるんだろ?」


 その一言で鷹宮が手を止め正面を向いた。

 こちらをまっすぐ見つめる瞳に、俺はその中に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。

 彼女に見つめられたことで、俺の中の何かが励起し、それまでとは違う自分になったような不思議な高揚感があった。

 目の前の美少女に……心を奪われる。


 当然こうやって話し掛ける前から想いを抱いていたわけだが、ドーパミンによってバフの掛かった脳が恐るべき演算速度で解を弾き出し、俺はそのことを改めて思い知ることとなった。

 ああ、俺、この子のことが好きだ──。


 椅子の脚が床を引きずる不快な音。

 心地よい思索のときに割り込んだその音によって俺は現実に引き戻される。気付くと鷹宮は帰り支度をすっかり整えて立ち上がっていた。


 せっかく一瞬こちらの言葉に注意を向けられたと思ったのに、呆然としていたせいでそのチャンスをミスミスふいにしてしまったらしい。

 これではこれまで彼女にちょっかいを掛けていた男たちと同じてつを踏むことになるぞ。そんな焦燥感に駆られて俺も腰を浮かせる。


「まあまあ、座ろう。座ろうか」


 自分でも意識しないままに、俺は鷹宮の肩に両手を掛け、身体の向きを直し、下に向かって押し込んでいた。

 それは鷹宮にとっても不意を衝かれたことであったのか、彼女は意外にも抵抗をみせず、その場にストンと腰を落とす。


 容易に触れ難い空気をまとっていた鷹宮に、こんなにも気安く触れてみせた俺に対し周囲のギャラリーがどよめく。

 奈津森などはヒッと俺の耳にもはっきり届く悲鳴を上げたほどだ。「下手に触ろうとしたら窓の外に投げ飛ばされるかもよ?」などとあおっていた澤井の言葉を真に受けていたのかもしれない。


 だが、そのときの俺は、そんなギャラリーたちの反応を気にしていられる心理状態ではなかった。

 自分がやってしまった大胆な行動に戸惑ったり、後悔したりすることも全部後回しにして……、そのとき意識の全てを埋め尽くし、感じていたことといえばただ一つ──


 肩ちっちぇー!


 ──という謎の感動だった。


 これはどういうことか詳しく説明せねばなるまい。

 俺の、てのひら──両手首の先にある五本の指が付属する主に物をつかむために発達した左右に一対ある人体の部位──それが向かい合う女子生徒の、肩を、掴んだ。

 それぞれ片手で、スッポリと包むようにして指を曲げ、その手が余る。握るというより包む。そして包み持って余りある余白。

 ……そう、この手に包まれた彼女の肩が、俺の手に比してとても、とても小さい、ということだ。


 え? どこをどう詳しく説明したのか分からない。情報量がゼロだって?

 馬鹿な! 今の俺には全宇宙を手にしたという確かな実感があるというのに、この情報の奔流、未曽有の感動が伝わっていないとは!


 だが、そうだ。手にした中身については何も伝えられてはいない。

 この細く華奢な骨格。

 少し力を入れれば折れてしまいそうなほどの繊細な感触。

 そんな陳腐な言葉では表現できない尊さ。

 人語では到底語り得ぬ、宇宙の真理がそこにはあった──。


「大丈夫か?」


 俺を恍惚こうこつの淵から救い上げたのは他ならぬ鷹宮の声だった。

 もしかして、今のは俺のことを気遣った言葉なのかと思い至り、そのせいで再び意識が飛びそうになる。


 教室にいたギャラリーたちもザワついていた。おそらく、あの鷹宮が拒絶や悪態以外の言葉を発したことに対する驚きによって。


「あ、ああ、すまん」


 俺が気を取り直してそう応えたそばから、鷹宮は自分の両肩を掴んでいる俺の腕を、まるで埃を払うかのような無感情な仕草で取り除けた。

 その、実に鷹宮らしい反応を受けて、俺はようやく平常心を取り戻す。


「抱き締めたい」

「はあっ⁉」


 ……嘘だった。

 一体何を言ってるんだ俺は?


「一体何を言ってるんだお前は」


 鷹宮の口調は単純に呆れたようであり、その言葉は辛辣しんらつだったが、かつて彼女が口にした中で、最も彼女の中身が垣間見えた一言でもあった。神が塑造したが如き完璧な容姿の内側に潜む一個の人格が。


「いや、すまん、つい。……でも、好きなんだ。多分これ、マジ惚れだ。本当に……」


 顔が熱い。俺は鷹宮の顔をまともに見ることができなくなる。

 耐えかねて顔を逸らした先には矢部たちの姿があった。

 盛んにはやし立てているようだが何を言っているか分からない。音は確かに俺の耳に届いているはずだが、処理するに値せずと判断し、脳が自動的オートマジカルに情報を遮断しているのだろう。


 サルのように騒いでいる奴らをチクショーと思いながらにらんでいると、その中にポツンとたたずんでいる奈津森と目が合った。

 奈津森がクルリと向きを返し教室から姿を消す。その後を追って澤井と吉野が出ていくのを俺は妙に噛み合わない気持ちで見送った。


「言うことはそれだけか?」


 視線を戻すと鷹宮が表情を硬くしてこちらを見上げていた。


「すまんがこちらにその気はない。返事はそれで十分だろうか?」

「い、いやあ、最初からオーケーもらえるなんて思ってないよ。本当は仲良くなるところから始めたかったんだ。放課後さあ、本当は暇なんだろ? 家に帰りたくないんだったら、時間潰すの付き合うぜって言うつもりで。ほら、どっかの部活に入るとかぁ──」


 鷹宮はそれには何も答えなかった。

 動転した俺が一方的に喋っていたせいで口を挟む隙がなかっただけかもしれないが。それでもまだ席を立たずにいるということは、俺の見出した鷹宮攻略ポイントは割と的を外していなかったのではないかと自信を深める。

 その矢先──。


「遥香様。参りましょう」


 鷹宮とは別の種類の、冷淡に響く女性の声によって賑やかだった教室の中が急に静まる。

 見ると、先ほどまで奈津森たちがいた場所に見慣れない女生徒が立っていた。

 眼鏡を掛け、髪を後ろに引っ詰めて結んだ姿はクラス委員でもやっていそうな真面目な印象である。

 目の前で鷹宮が立ち上がる気配を感じ、俺が再び視線を戻すと、彼女はすでにカバンを手に提げ数歩先に歩き出していた。


「教室には来るなと言っておいただろ」

「はい。ですが、お困りのように見えましたので」


 そんなふうに二人して小声で話しながら教室を出ていく。


「ぉおい、惜しかったなあ」


 一人残された俺に早速矢部が近寄ってきて肩を叩いた。


「なあ、誰だっけ、あれ」


 鷹宮の後ろに付き従うようにして歩く女生徒の背中を見ながら矢部に訊ねる。


「あれ? 知らねー? 五組の昭島あきしま由里亜ゆりあだよ。鷹宮と一緒に転校してきた、目立たない方の転校生。毎日玄関の前で待ってて、鷹宮を車のとこまで送ってくんだ。噂だと鷹宮家の使用人か、使用人の娘じゃないかって」


 なるほど。思い返してみれば確かにいたかもしれない。校門までの僅かな道中、鷹宮から幾分離れた位置を歩く女生徒が。

 鷹宮に見とれていて、もとい、地味過ぎて気付かなかった。

 すると……、鷹宮と放課後に話そうと思ったら、あのお目付け役の昭島という女子をどうにかする必要があるわけか……。


「それよりハルキ、マジ惜しかったって。お前に告られて、あいつ結構動揺してたし」

「動揺⁉ マジ?」


「マジマジちょっと赤くなってたもん。なぁ?」

「ああ、見た。意外と男耐性低いんじゃね?」

「ギャップすげかったわー。俺見ててキュン死にしそうだった」

「俺も俺も」

「押せよぉ? ハルキ。なぁ? 押すよなあ?」


 はあっ⁉ マジかよ?

 そのすげーギャップ萌えの照れ顔って、俺全然見れてないんですけど?

 押すかって?

 んなもんなあ──。


「押すに決まってんだろ。押して押して押しまくりだぜ!」

「「うぉー!」」


 俺は拳を硬く握って突き上げ、クラスの連中はそれに続きときの声のような歓声を上げた。

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