第11話 囚われ人

 目を覚ますとヒルデグントは、冷たい石の上に座っていた。見回すと、薄暗い牢屋の中に居るのだとわかった。

 足首には重い金属の拘束具がつけられ、鎖で石の壁に繋がれている。かつて与えられていた華美な衣服は、粗末なボロ切れになっている。

 そして、状況を思い出した。

 皇太子を振り向かせることは叶わず、国に帰ることも許されなかったヒルデグントは、帝国で行き場を失った。そして、帝国はヒルデグントを臭い物に蓋をするようにここに閉じ込めた。

 この牢屋の中で、残りの人生を醜く老いていくのだ。

 ヒルデグントは自分を嘲笑う。

(まるで、奴隷のよう……)

 思い返せば、ローデンバルト家に養子に入った時から、貴族とは名ばかりで物同然の扱いを受けて来た。ここにたどり着いたのも当然の帰着だったのかもしれない。

持ち物の中で唯一、取り上げられなかったペンダントに指先で触れる。

 家に入ったその日から、自分をまるで本物の家族のように面倒を見てくれた使用人のエリカが、別れに送ってくれたものだった。

 ヒルデグントはペンダントを握ると引いた。細いチェーンが外れる。

 帝国に来る前にヒルデグントは、このペンダントにある細工をしてもらっていた。

 ペンダントの上には装飾に扮したダイヤルがある。

 ヒルデグントはそれを少し引っ張りながらくるくると回した。

 すると丸い金色のペンダントの前蓋が外れて床に落ちた。中には小さな窪みがあり、そこに一つの丸薬が収まっている。

 

「苦しくは、ないのね?」

 ローデンバルト家の屋敷で最後の夜。自室の椅子に座り、エリカと話している時にヒルデグントは聞いた。

 目の前のテーブルに、小皿に乗った白い丸薬がある。

 二人はこれについて話していた。

「……ええ」

 少し離れた位置に立つ使用人のエリカは、哀しそうに視線を沈めていた。

 しかし、意を決したようにこちらを見た。

「ヒルデグント、今からでも遅くないわ。私と一緒に逃げましょ!」

「無理よ。どこへ逃げるつもりなの?」

「分からない……。でも、こんなのおかしいわ。まるであなたを道具みたいに……」

 エリカは顔を覆って泣き崩れてしまい、それ以上は言葉にならなかった。

 ヒルデグントはテーブルの上に置かれた白い丸薬を見た。

 暗いテーブルの色に、真っ白な丸薬がまるで真珠のように見えた。

「もう、いいの。あなたも私から解放されて自由に生きて」

 ヒルデグントは諦めたように微笑んだ。

 彼女がいつも社交の場で見せたように。

 

 ローデンバルト家がヒルデグントを養子に迎え入れたのは、彼女の美貌に利用価値を見込んだからであった。

 ヴァナヘイム共和国では、君主を戴かない反面、各領地の諸侯が政治的優位に立つために常に激しい駆け引きが行われて来た。諸侯の中で立場の低いローデンバルト家は、娘を大国である帝国に嫁がせて、自己犠牲により侵略の危機から国を守ったという事実を作り、国内で発言力を増す算段だった。

 しかし、今でこそ親交を回復しつつあるが、陸続きに繋がるバルド帝国とヴァナヘイム共和国は近年まで領土争いを繰り返して来た。

 婚約者を出すとすれば、帝国に出方によっては人質とされてもおかしくない。そこで、直接の血縁関係のない養子のヒルデグントが選ばれた。

 ローデンバルト氏はもちろんそれをヒルデグントには言わなかったが、彼女は養父の意図を理解していた。

 ヒルデグントにとってこの婚姻が成立しないことは身を滅ぼすことを意味していた。養父はヒルデグントを何が何でも動かざるを得ない環境に投げ込んだのである。

 しかし、失敗した。

 

 震える指先でペンダントの中の丸薬を掴み、手のひらに乗せる。

 それを口に含む。

 水もなしに飲み込んだ丸薬は、引っかかりながら喉をゆっくりと下りて行く。

 あと数分で意識は朦朧として眠りにつく。

(本当に、苦しくないのかしら……?)

 不安に鼓動が増して来た。呼吸も苦しくなって来た気がする。

(エリカ、やっぱり死ぬのは怖いわ)

 

「――っ!?」

 皇族邸宅のベッドの上で、ヒルデグントは目を覚ました。

 部屋は暗い。まだ深夜のようだった。

 壁掛け時計の振り子の秒を刻む音が、静かな部屋に響いている。

「はぁっ……はぁっ」

 まるで溺れていたかのようにヒルデグントは空気を吸う。どうやら呼吸が止まっていたらしい。

 心臓が胸の内から叩くように鼓動している。

 ヒルデグントはベッドの上で上半身を起こすと、膝を抱えた。

 冷たい汗が顔から顎先へと流れて、開いた胸元に落ちる。

 呼吸が整って来ると、ベッドの傍らにあるサイドテーブルの上のペンダントに手を伸ばした。

 ペンダントを握った手を胸に抱えるようにしてわずかに安堵すると、嗚咽が漏れた。

 

 帝都士官学校、講義室。

「ウソ!? 無い、無いわ!」

 ルフィナが慌てた様子で、机の下や自分の荷物を探っている。

「どうした?」

 チカコが聞いた。

「今日使うはずの教材が無くなったの! あれ、高いのに……」

「必要なら私のを使うか?」

「いいえ、きっと大丈夫……」

 チカコの申し出を断ってルフィナは部屋を探し回る。

「……確かに鞄に入れてあったはずなのに!」

 ルフィナはとうとう講義室中を探し回ったが、結局見つからなかった。

「おかしいわ! 今度は絶対に変よ!」

 最近、ルフィナの周囲で教材が無くなるという「不幸」が相次いで起きている。

 始めのうちは単なる不幸と思って泣く泣く諦めていたが、とうとう不審に思い始めていた。

 しかし、誰かの仕業だとしても、ルフィナ自身は身に覚えがなく、犯人に見当もつかない。

「うう……お昼、我慢しようかな」

 一般的な生徒よりも金銭事情の苦しいルフィナは、食費を切り詰めてもう一度、教材を買うつもりらしい。

「前にも似たようなことを言っていなかったか? あまりやり過ぎると訓練の時に倒れてしまうぞ?」

 チカコは心配そうにルフィナの腕を見た。最近、さらに細くなったような気がしていた。

「大丈夫よ。私、夜には売れ残りのパンが食べれるから……」

 ルフィナはチカコの心配を他所に、よろよろと歩きながら講義室を後にする。

 

「おい、待て」

 講義室を出たルフィナを、誰かに呼び止めた。

「レオニート……」

 ルフィナは振り返る。

「……俺が、手を貸そうか?」

 レオニートは暗に自分が金を出そうかと聞いているらしい。

 ルフィナはぶんぶんと首を横に振った。

「ダメよ! アンタにこれ以上、借りは作りたくない。いつ返せるかだって、分からないのよ?」

「そんなことを気にしている場合か。このままだとお前は……」

 レオニートが言わんとしていることは分かった。

 戦闘技術が極端に秀でているわけでもないルフィナは、教養の方でカバーしなくてはならない。が、教材が無いままで講義を受け続ける彼女の勉学の成績は徐々に下がりつつある。

 それでもルフィナはレオニートの申し出を頑なに断った。

「ダメ! 貸しを作ったら、もう対等な関係とは言えないの! 私、アンタとはそうなりたくないっ!」

「お前……」

 婚姻を求める帝国の有力貴族の娘の中に、一人の人間として対等な関係を求めた者は居なかった。

 レオニートはルフィナの言葉に痛く心を打たれてしまった。

「……分かった」

 レオニートは意を決したように、神妙な顔で頷く。

「ならば、別の形で協力させてもらう」

「別の、形?」

 ルフィナは首を傾げた。

 

 週明けにアリサはアルマと士官学校の玄関口にある掲示板の前に立っていた。

 生徒の名前は最上位の者から上に名前が記載されて、そこから下位に向かって名前が連なって行く。そして、ある場所で赤いラインが引かれたところがあり、それより下の成績順位の者は前期終了時に退学とされる。

 当初、アリサの名前は赤いラインの遥か下、最下位にあった。

 しかし、「決闘」では格上のチカコ・オオウノミヤツカサ相手に勝利し、野外訓練ではシエルたちのお陰ではあるが、討伐が最も難しいとされる特異級の魔獣を二体討伐した。

「今考えてみても凄い成果だよね。もう退学圏は出たんじゃない?」

 アルマは我がことのように嬉しそうな顔で言った。

「うん……」

 アリサは順位表に自分の名前を探している。

 リストの頂点には当然のようにシエル・ブランドードの名が記されている。そこからアリサの視線は自分の名前を探して一気に下って行く。

「あれ……?」

 と首を傾げたのはルームメイトのアルマの名前を見つけた時だった。

 当初、アルマの名前は成績上位百人の中に入っていた。だからこそ「強者」の黒の勲章をその胸に付けている。しかし、今見た順位は百五十三。真ん中より下である。

 アルマは「えへへ」と苦笑いをする。

「勉強の方は全然大丈夫なんだけど、この間の集団戦闘の訓練とか魔獣狩りで全然実績が残せなかったから成績がかなり下がっちゃってさ……」

「そんな簡単に下がっちゃうんだ……。帝都士官学校で成績を維持するのって大変だね……」

「そうだよ。だから、常に一番上に居るアリサのお姉さんは本当に凄いと思う!」

 言うと、アルマは身体をほぐすように大きく伸ばした。

「……私も残り一ヶ月に全てをかけなくちゃ! 私、ここでやらなきゃいけないことがたくさんあるし!」

「アルマならきっと大丈夫だよ。頭が良くて強いもん」

「へへ、ありがと」

 照れ笑いを浮かべるアルマはふと思い出したように

「で、アリサの順位は?」

 と聞いた。アリサは慌てて順位表に視線を戻した。

 退学圏を示す二百五十位付近の赤いライン。

 そのわずか下に自分の名前を見つけた。

「え……? なんで……?」

 アリサは呆然と隣のアルマを見る。

「どうしてっ!? あんなに頑張ったのに!!!」

 ようやく危機感が頭に届いたようでアリサはアルマを見る。

「わ、私に言われても……」

 アルマは困惑しながら、アリサの名前の隣に記されている成績を見る。

「あ……」

 アルマは成績を見て何かに気が付いた。それを伝えようと隣を見た時には、アリサは走り出していた。

「ちょっ、アリサ!? どこ行くの!? アリサ!!!」

 アルマの呼びかけに止まることなく、アリサは行ってしまった。

 

「ロマン!!!」

 訓練場で剣の特訓をしていたロマンは呼ばれて振り返ると、慌てたアリサの姿があった。

 大方予想していたロマンは苦笑いを浮かべる。

「……どうした?」

「どうしよう! まだ順位が退学圏のままみたい! もう前期終わりまであと少ししかないのに……」

 アリサはロマンにすがりつく。

「分かったから落ち着け……」

 ロマンは服を掴んだアリサの手を離しながら言う。

 アリサの成績は把握していた。

 ロマンとしては、調査が終わるまで退学して国に帰ってもらうわけにはいかない。

「お前、座学の中間試験の結果を言ってみろ」

「え?」

 アリサはどきりとする。

 帝都士官学校では、戦闘に関する訓練の他に、戦術学、魔法学、政治学、主に三科目にわけて教養を深めていく。そして半年の間に中間と期末の試験が設けられている。

 アリサはいずれの科目もほぼゼロに近い点を叩き出していた。

 点数を聞き、ロマンは苦々しい顔をする。

「どれだけ戦闘の成績が良くとも、三科目とも最低半分は点を取らないと退学圏を出ることは厳しいだろう」

「じゃあ、ロマンが教えてくれる?」

 アリサは期待するようにロマンに眼差しを送る。

「いや、悪いが勉学に関しては、俺には荷が重いと思う」

 とロマンは首を振った。

 ロマンは勉学に対する理解力や記憶力が良すぎるほどに良い。

 が、それ故に相手の分からない箇所を把握することが得意ではない。

 そして、点数からして基礎すら怪しそうなアリサに、一から効率良く丁寧に教えられる自信もなかった。

「えぇ!? じゃあ、どうしたら……」

「心配は要らない。お前のすぐ近くに頼れる人間が居るだろう? 彼女に教われば良い」

 ロマンは言った。

「え? 誰のこと……?」

 アリサは首を傾げた。

 

 アルマ・フォルバッハはヴァナヘイム共和国の生徒を代表する魔術のエキスパートであり、若年ながら既に論文を故国の魔術学会に提出するほど、並外れた明晰な頭脳を持っている。

 戦闘の実績を最も重視する帝都士官学校においては座学点数だけで上には上がれないのだが、アルマの成績は中間試験の成績では三科目満点で全生徒中トップである。

 座学に関しては彼女の右に出る者はいない。基礎も何もないアリサに試験で点を稼げる知識を与えることができるのは彼女を置いて他に考えられない。

「アルマっ!」

 早速アリサは、廊下でヒルデグントと共に居るアルマを見つけ、声を掛けた。

「あ、アリサ。やっと帰って来た」

「アルマ、お願いがあるの!」

「えっ、どうしたの? 急に……」

 ぐいぐいと迫ってくるアリサにアルマは困惑した顔をする。

「今度の期末試験の勉強を見て欲しいの!」

「えっと……ごめんなさい」

 アルマは気まずそうにぺこりと頭を下げた。

「え……? えぇっ……!? ど、どうして……!?」

 まさか断られると思っていなかったアリサの目には涙が浮かんでいる。

「ご、ごめん! 先に他の人に頼まれちゃったの……」

「誰に……?」

 アリサは聞く。

「皇太子様に……」

 アルマは俯きがちに言う。

 

 訓練場のロマンは戻って来たアリサから事情を聞いた。

「なん……だと!?」

 ロマンは珍しく動揺する。

 すぐにレオニートの元へと向かった。

 オレクと共に廊下を歩くレオニートを見つけ、ガシッと腕を捕まえると、戸惑うオレクを他所に人気の少ない場所へと引っぱって行く。

「レオニート! これは一体どういうことだ!?」

 ロマンは珍しく血相を変えて詰め寄った。

「何だ、何の話だ!?」

 と驚いた様子のレオニートにロマンは聞いたことを説明した。

「あのルフィナとかいう娘の勉強を見るように、お前が直々にアルマ・フォルバッハに頼んだそうだな」

 ロマンの怒りの訳が分かって来たレオニートは苦々しい顔で頭を掻く。

「ああ、その話か……」

「あの娘とは関わらないと言っていた筈だ! それが何故、お前が直々に動いて面倒を見ている!? 話が違うぞ! 校内では既にお前とあの娘のことが大きな話題になっている!」

「……本気なんだ。今までに一度も、あいつのような女に会ったことがない」

 レオニートはロマンの目を真っ直ぐ見て言った。

 ロマンは眉間に深い皺を寄せて頭を抱える。

「……レオニート、いい加減にしてくれ。お前のためにも今、あの娘と接点を持つべきではない! 諦めるんだ!」

「いや、諦めん」

 レオニートはゆっくりと首を横に振る。

 厄介なことに今まで共に過ごしてきた中で、最も明確な決意を感じた。

 結局、その後も「諦めろ!」「諦めん!」の問答が繰り返された。

 

 結果。


「えっとね、地点Aで観測される魔術の力量は発生源からの距離と収束した魔力の質量によって決まって、それから魔術の属性によって掛ける係数が異なるの。だから、この場合の公式は……」

 アルマは、机の上に開かれた魔術学教材の一文を指さしてルフィナに丁寧に解説している。

「おい、こちらも頼む」

 隣に立っているロマンが呼びかける。ロマンの前に座っているアリサの勉強が行き詰っているようだ。

「ロマン、こっちのキリがつくまで待てんのか?」

 レオニートが腕組みしながらルフィナの後ろに立ち、横目で睨んでいる。

 ロマンはレオニートと散々揉めた挙句、このようなちぐはぐな状況が出来上がった。

 

 アリサは、二人の視線が上空で火花を散らすのを背中に感じ、集中できずに顔を上げた。

 すると、隣で勉強しているルフィナと目が合った。呆れ顔でこちらに何か訴えるように視線を送って来る。お互い言葉を交わさずとも言わんとすることは理解できた。

 ため息を吐くとルフィナは立ち上がり、その場を離れようとする。

「あ、おい、どうしたんだ?」

 ロマンと睨み合っていたレオニートは、立ち上がったルフィナに気が付いて言った。

「こんなの集中できるわけないでしょ! 今日はもうアリサの番で良いわよ」

 ルフィナは振り返ると呆れた顔で言った。

「それより、その、話したいことがあるんだけど。ちょっと、良い……?」

 ルフィナは少し俯きがちに言うと、不思議な顔をするレオニートを連れて庭園へと出た。

 

 日没後、庭園内の暗い湖面には丸い月が映えている。

 ルフィナが先を歩き、少し距離を置いてレオニートがそれを追いかける。

 庭園の道の途中で不意にルフィナは足を止めた。

「どうした?」

 レオニートはルフィナの背中に向かって言う。

「……レオニートは、どうして私のこと、そんなに気にかけてくれるの?」

 ルフィナが振り返った。月の光を受けて輝く大きな瞳が、こちらを見つめた。

 レオニートは、はっと息を呑んで視線を逸らした。その時ほど、女性の視線が眩しいと思った時はなかった。

 言葉が出て来ないレオニートを見て、ルフィナは、ふと笑う。

 そして、傍にある湖に向く。

「……私の家、田舎なうえに片親だから、ほんと貧乏なの」

「何……?」

 レオニートは怪訝な顔でルフィナの背中を見る。しかし、ルフィナは気にせずに続けた。

「子供も私一人だから、私はちゃんと帝都士官学校を出て、良い仕事について、お金をたくさん稼いで、お母さんとまたいつか一緒に静かに暮らしたい。お母さんには私しか居ないから……。でも、」

 ルフィナは湖から振り返ると、レオニートの背後に見える皇帝の居城の高い塔を見上げる。

「……もし、アンタと一緒になったら、私、どうなっちゃうの?」

「……分からん。俺自身、皇位を継ぐかどうかも曖昧なままにしている。ただ、俺がどちらを選んでも容易ではない人生になるだろう」

「でしょ……?」

 ルフィナは俯く。

「だから、今は私、アンタの気持ちに応えられない」

 ルフィナは顔を伏せたまま、恐る恐るレオニートを上目遣いで見た。

 レオニートは、ふと表情を緩める。

「……いいんだ。何というか、俺は、お前と話している時間が楽しい。だから少しでもその時間が長く続けば良いと思っている。ただ、それだけなんだ」

 ルフィナがようやく顔を上げて口の端を広げて朗らかな笑顔を浮かべた。

「……ありがと!」

 二人はしばらくそこで夜の庭園の景色を眺めていた。

 ロマンは浮かない顔で、それを庭園の木陰に身を隠して聞いていた。

 

 その頃、帝都の街に一つの影があった。黒無地の長いローブに身を包み、頭はフードに覆い隠されている。しかし、その優雅な歩き方から、そのローブの中が気品のある女性であることがそれとなく感じられる。

 人通りのない、静まり返った夜の裏路地を満月が照らしている。その女は、やがて一つの建物の前で足を止めた。

 目の前には何の変哲もない小さなパン工房の裏口がある。営業は終了し、一階の店内は暗くなっている。

 上階に灯りが見えた。恐らく、このパン工房の主人が生活しているのであろう。

 その工房の側面には窯にくべるための薪が積みあがっていた。そのローブの女は手を腰のあたりに入れると、魔術師が使用するロッドを取り出した。

 そして、目の前の薪に小さな火を放つ。

 風通りの良いところだったので、薪に点いた小さな火はあっという間に大きくなっていった。

 燃え上がる炎が、フードの中の女の端正な顔を明らかにした。エメラルド色の透き通った瞳が、冷たい視線を揺らめく炎へ送っている。

 やがて、木造の壁面に火が燃え広がるのを見届けたヒルデグントは、ロッドをローブの中にしまうと、フードを深く被り直してその場を離れて行った。

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