第4話 瓦解と離別

 遠く聞こえる喧騒で、目が覚めた。


 ディアボリカは寝台から身体を起こして、あたりを見た。村長があてがってくれた寝室のなかはまだ暗く、まだ夜が明けていないことが分かる。

 窓掛けの向こうから、人々が騒ぐ声が聞こえた。


(何だろう……胸が、ざわめく)


 すぐに身支度を整え、外に出る。


 暗い広場には村人達が集まり、口々に何かをまくし立てていた。その顔は不安と戸惑いの色に染まっている。彼らの視線を追いかけると、まるで太陽が沈むときのように、北の空が真っ赤に染まっているのが見えた。


「ディアボリカ様」


 ターニャが駆け寄ってきた。天幕で休んでいたはずの彼女は、すでに鎧をまとっている。他の乙女騎士たちもモイラも、もう身拵みごしらえを済ませていた。

 ディアボリカはすぐにターニャに尋ねた。


「何があったんだ、あの赤い空は?」

「分かりません。私達が起きた時にはもう、空があの色に……。森が燃えているのでしょうか」

「いや、まさか……。密集した森はかげが多い。溶けきらない根雪もあるだろうし、樹木そのものの水分も、まだ多いはずだ。誰かが火をくべたとしても、あんな風に空が焼けるほど燃え広がるとは思えない」

「確かに……じゃあ、あれは──」


 ターニャの語尾が掻き消える。ディアボリカは彼女の顔を見た。凛々しい眉の下の瞳が、何かにおびえるように揺らいでいる。 


 瞬間、深い穴に落ちていくように、身体から血の気が引いた。

 北の空。燃えるはずのない森。では、燃えているのは……。


「すぐに出立する。ターニャ、準備を」


 短く言い切って、ディアボリカはブライアーのもとへ急いだ。心臓が早鐘を打っている。


 ルサールカの村長が、ノクイエまでの最短の道を教えてくれる。「どうか黒竜のご加護を」とつぶやく彼の顔は青ざめていた。


 角笛の音もなく出立する。ディアボリカは手綱をふるって馬を走らせた。ターニャとモイラ、乙女騎士達がその後に続く。


 冷たい風が頬を裂くようだ。黒い垂れ髪が乱れるのも構わず、ディアボリカは駆け続けた。あまりの強行にブライアーが苦し気にいななく。ディアボリカは、しがみつくように愛馬の首を抱いた。


「すまない……急いでくれ……!!」


 ディアボリカの不安を汲み取るように、ブライアーは息を乱しながらも、力強く跳躍ちょうやくする。


 赤い空から逃れるように、北から銀竜が下ってくる。唸るような竜の咆哮ほうこうが耳をつんざく。身をよじりながら飛ぶそのさまは、あきらかに平時とは異なっている。


 やがて首都ノクイエが見える。

 ──街が、黒城が、炎にさらされていた。


「……っ!」


 燃える街を前にして、胸がきしむ。呼吸すら満足にできなくなる。

 ディアボリカは、ぎり、と歯をくいしばり、震える手で手綱を握りしめた。


 旅立ちのときにマクアの花がかれた街路は見る影もなかった。あたりの建物は黒く焼け落ち、廃墟のようだ。誰かの名を叫ぶ声、すすり泣く声、嗚咽おえつ、悲鳴──ノクイエの街全体が、呪詛じゅそのような嘆きで満たされている。


 燃えるノクイエを抜けて黒城へ向かう。城門は破壊しつくされていた。残り火がぱちぱちと爆ぜる中庭には、血だまりをつくって絶命している騎士や兵士たちの亡骸が、あちこちに転がっている。


 ブライアーから降りて、剣をき、城に飛び込む。


「父上」


 まるで自分のものではないかのような、震える声が耳をかすめる。


「兄上」


 靴音だけが、高い天井に冷たくこだましていく。

 返事はない。あたりには死体が転がるばかりだ。


 ディアボリカはあえぐようにして、王の間の扉を押し開いた。

 ごう、と燃えさかる火がディアボリカを出迎える。


 突き崩された壁の向こうに夜空が見えた。崩れた箇所から風が吹きこみ、炎を躍らせている。ディアボリカは煙を吸わないように、鼻と口を袖口で覆いながら、玉座へと近づいた。


 玉座の手前で、ヴラドがうつ伏せに倒れていた。背に負った刀傷からおびただしい量の血が、黒く滔々とうとうと流れている。それなのに、彼は微動だにしない。


「あ……兄上、兄上っ……」


 ヴラドのもとに駆け寄り、身体を揺さぶる。けれど、粘土の山を揺らしているような、ぐにゃりとした手ごたえしか返ってこない。絶命しているのは明らかだった。彼の黒髪をすべって、銀の冠が音をたてて転げ落ちる。


「う……」


 玉座の方から聞こえた唸り声に、ディアボリカは弾かれるように顔を上げた。


「父上……?」


 よろめきながら、這うように玉座へ近づき、煙に巻かれた玉座へ目を凝らす。


 黒の天鵞絨びろうど張りの、銀と青瑠璃をふんだんにあしらった玉座に、ぼろきれのような男がもたれかかっている。彼の背や肩にはおびただしい数の矢が刺さり、立派だった毛織物の外套は、血に濡れて黒く地面に張りついていた。

 汚れた黒髪のあいだから、血まみれの顔が覗く。金の眼。王族の持つ虹彩の色──


「父上……っ!!」


 ディアボリカは父のもとへ駆け寄り、彼の頭を掻き抱いた。ぬるりと生ぬるい血が手のひらをつたう。王は身体を震わせながら、口蓋をこじあけるようにして声を発した。


「ディア……ボリカ。無事、だったか」

「父上、父上……っ! しっかりしてください! 何があったのですか、なぜ、誰が、このような……っ……」


 声を震わせるディアボリカに、王は眉をしかめた。


「逃げよ……エタンセルの……残兵が、まだ、近くに……いる、やもしれん」

「エタンセル……!?」


 王は苦悶の声を漏らし、渾身の力を振り絞るようにして、震える手をディアボリカに差し向けた。その血濡れの手を、急いで両手で取る。王はディアボリカの手を握りしめた。


「セシル王子の、謀略ぼうりゃくだ」

「……っ!?」

「夜襲とはな……随分と、汚い手を……っ」


 えずくような咳をして、王は喀血かっけつした。


「父上!? いけない、医師を呼ばなければ……!」


 身を乗り出すディアボリカを、王は手の力だけで押し留めた。

 思わず彼の顔を見る。こんな力が、どこに残っていたというのか。


「生きよ、ディアボリカ」


 王はかすかに笑った。


「お前の服を着たミリを、残った兵と共に北へ逃げさせた。セシル王子率いる軍は、彼女を追って北上している。お前は南に下れ」


 ディアボリカは目を見張った。

 へにゃりと笑う、心優しい侍女の顔が浮かぶ。


「それは、身代わりですか。ミリを、私に仕立てて……」

「彼女が望んだことだ」


 目の前が真っ暗になる。


 王はディアボリカの手を掴み「従者の忠誠心を無駄にするな」と言った。


「ディアボリカ。お前は、生きよ。逃げて、生き延びよ」


 聞き分けのない幼子おさなごに言い含めるように、繰り返す。


 ディアボリカの手を震えるほど固く握りしめていた王の手から、力が消えていく。

 ハッと息を飲む。両手で包んだ大きな手をぎゅっと握り、頬に寄せ、かぶりを振る。


「だめ……だめだ、父上。かないで。私を、ひとりにしないで」

「お前は一人ではない。お前を慕う従者がいる。それに、私と、ヴラドと、黒竜の魂は、ずっとお前と、ともに──」


 たくましい腕が落ちる。


 ディアボリカはおののく瞳で、王のかんばせを見下ろした。白いまぶたが下りている。さきほどまで会話を交わしていた唇は動きを止めている。彼の指が、ディアボリカの髪を梳いてくれることは、もう二度とない。


「あ……あぁ……!!」


 王の亡骸なきがらを抱き、喉を裂かんばかりに声を上げる。


 慟哭どうこくが、炎の煙とともに、空へ吸い込まれていく。

 瓦礫がれきから曙光が差した。夜明けだ。光り輝く太陽が、うずくまるディアボリカを、瓦解した黒城を、廃墟のようになったノクイエを、白く明るく、染め上げていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る