魔姫ディアボリカと勇者の裔

オノイチカ

一章

第1話 春の巡礼と昔話

 極北の国リヴレグランにも、春は来る。

 長く天空に居座り続けた冬の女王は、その雪の裳裾もすそを引きあげて退場した。地面はあたたかな太陽にさらされ、眠っていた種が新緑を芽吹かせる。


 リヴレグランの首都ノクイエ、そしてノクイエの最北にある黒城は、にわかに活気づいていた。なにしろ今年は、いつもは夏におこなわれる巡礼が、春に巡ってくる特別な年なのだ。

 ノクイエの民は冬のあいだに仕込んでいた葡萄酒や保存食を城に献上し、城勤めの者たちはそれらを荷にまとめて、巡礼の旅の準備を整える。


 そして名残雪が溶けきる頃、旅立ちの日がやってきた。


「ディアボリカ様ぁ」


 軽いノックの音とともに、どこか舌足らずな声が、扉の向こうから呼びかけてくる。

 その声に、黒城の一室で窓の外を眺めていたディアボリカは振り返った。

 漆黒の長い髪に、抜けるような白い肌。とがった耳と、青と金の色違いの瞳を持つ彼女は、今年でよわい十八になる。


 ディアボリカはうすく微笑んで「モイラ」と、扉の向こうにいる侍女の名を呼んだ。


「入ってくれ」


 許しを得たモイラは扉をうすく開き、顔をぴょこんと覗かせた。薄紅のおさげを左右で輪にしたまとめ髪と、頭頂からあごにかけて垂れた青い束髪が楽し気に揺れる。ディアボリカとそろいのとがった耳は、彼女の気分を表すように、ピンと上を向いている。


「階下で旅の準備が整いましたっ!」

「それで……そろそろディアボリカ様のお支度を、と思いまして……」


 八重歯を覗かせて笑うモイラの背後から、もう一人の侍女がおずおずと顔を覗かせる。すこし白けた黒灰色の髪をうなじでまとめた、こちらもとがった耳を持つ侍女だ。


「ミリ」


 もう一人の侍女の名を呼んで、ディアボリカは微笑んだ。


「二人ともよろしく頼む」

「はい」

「おまかせくださいっ!」


 ミリとモイラは歯切れのよい返事をした。

 のっぽのミリと小柄なモイラは、いずれもディアボリカのふたつ下だ。


 姿見の前に移動したディアボリカのまわりを、モイラはねうさぎのような足取りでぶ。


「楽しみですねえ、春の巡礼! あたし、ノクイエの外に出るのはこれが初めてです。しかもディアボリカ様とご一緒だなんて! 楽しみっ!」


 モイラは、衣装箱からディアボリカの旅装を出しているミリを振り返った。


「お土産買ってくるねっ、ミリ!」

「ええ、ありがとう……。でも、無理はしないでね。無事に帰ってきてくれれば、それだけで十分だから」


 ミリはふにゃりと眉を下げた。


 ディアボリカの黒いドレスが取り払われ、革の胸当てのついた旅装があてがわれる。繊細な銀のティアラが映えるように編みこんでいた黒髪もほどいて、風にあおられて邪魔にならないよう、モイラがすっきりとひとつにまとめ上げる。


 ふと、ディアボリカは鏡越しに、部屋の隅へ視線をやった。そこにはトルソーに着つけられた、漆黒のウエディングドレスが置かれている。ディアボリカの身体に合わせた裾上げと仮縫いは済んでおり、春の巡礼で留守にするあいだ、お針子たちが銀糸で刺繍を進める予定だ。


「仕上がりが楽しみですね」


 ディアボリカの視線を追ったミリがつぶやく。

 ディアボリカは微笑を浮かべたまま、うなずいた。


 婚姻の日は近い。リヴレグランの姫が隣国エタンセルの王子のもとに嫁ぐのは、ディアボリカが生まれるずっと前から繰り返されてきたしきたりだ。

 今から旅に出る春の巡礼も、かつてリヴレグランを守護していたと言われている黒竜の墓に、姫であるディアボリカが輿入れの報告をするためのものだ。


「そういえば、知っているか、二人とも。人間たちの花嫁衣装は純白らしい」


 鏡越しに侍女二人を見て話を振ると、モイラとミリはそろって口をぽかんと開けた。


「へぇ~、変わってますねぇ」

「知りませんでした……」

「私も先日、家庭教師から教わったんだ。なんでも純白の花嫁衣装には〝あなたの色に染まる〟という意味が込められているのだとか」

「なるほど~。でも、ううん……白も悪くないでしょうけれど、やっぱりディアボリカ様には黒いドレスがいっとうお似合いです。ね、ミリ!」

「ええ……なんたって魔族の姫ですもの」


 モイラとミリは顔を見合わせて笑った。

〝他の色には染まらない〟という意味の黒い花嫁衣装には、誇り高い意志が宿っている。


「さ、できました!」


 髪にサテンのリボンをきゅっと結って、モイラが明るい声を上げる。

 春といえど、リヴレグランの夜は冷える。最後に毛織物の外套をミリに羽織らせてもらって、ディアボリカの旅支度が整った。


 部屋を出て、弾む足取りで先を行くモイラと、モイラのうしろをしずしずと歩くミリ、二人のあとをディアボリカも追う。


 ふと、長く留守にする自室を振り返る。乳白色の硝子から差し込むほの明かりが、黒い花嫁衣裳を浮かび上がらせていた。


(結婚するのだな、私は。まだ実感が湧かないが……)


 期待と不安がないまぜになった気持ちが、ディアボリカの胸を騒がせる。




   · · • • • ✤ • • • · ·




 むかしむかしのお話です。

 人間の国エタンセルに、魔族の国リヴレグランの軍隊が攻めこんできました。

 リヴレグランの王は野心にあふれ、魔王と呼ばれる男だったのです。


 エタンセルの地は焼き払われ、森に住む動物や街の人間は、あわれに逃げまどいました。

 エタンセルの王は、国と民を護るために必死に戦いましたが、魔王軍の前では無力でした。

 王は、魔王に討ちとられてしまいます。


 人間も、動物も、エタンセルに住む生き物すべてが、深いかなしみと絶望に沈みました。

 しかし希望の光はついえてはいませんでした。

 小さな村に、小さな星が、人知れず産まれていたのです。


 小さな星であるところの人間の少年は、ある日、大いなる運命に出会います。

 誰も手にできなかった、湖畔こはんの水晶に刺さった聖剣を抜いたのです。

 湖の乙女と呼ばれる、聖剣の守護精霊に選ばれた少年は、聖剣とともに旅に出ました。


 さまざまな出会い。さまざまな別れ。

 少年は仲間とともに、極北の魔王城を目指します。


 長い旅のすえ、少年はリヴレグランを守護していた黒竜を討ち倒しました。

 そしてついに、魔王城に攻め込み、魔王であるリヴレグランの王を退しりぞけたのです。


 エタンセルの国は、ふたたび人間たちの手に戻りました。

 少年は勇者と讃えられ、今は亡き王の代わりに、頭上にかんむりを戴きます。


 勇者は、無駄な争いを好まない、心優しい人でした。

 彼は、魔王の命までは奪いませんでした。かわりに、彼にひとつの盟約を持ちかけます。


 ──あなたの国で産まれる魔姫まきを、代々めとらせて頂きたい。

 ──さすれば、未来永劫にわたり、ふたつの国の平和は保たれるでしょう。


 かくしてエタンセルの賢王の隣には、リヴレグランの魔姫が立つことに。

 いさかいは過去のものとなり、ふたつの国は互いを支えあう関係になりました。

 戦いを終えた聖剣は、再び湖畔の水晶の上で眠りにつきます。


 こうして、エタンセルの国に平和が訪れました。

 勇者の子孫たるエタンセル王がいるかぎり、安寧が揺らぐことはないでしょう。

 森で動物たちは草を食み、人間たちは村や街で、しあわせに暮らすのです。

 いつまでも、いつまでも。




   · · • • • ✤ • • • · ·




 ディアボリカとモイラとミリが中庭に出ると、そこではすっかり巡礼の旅の準備が整っていた。騎士たちはリヴレグランの紋章の入った鎧をまとい、黒毛の馬はいなないて、走り出せるときを今か今かと待ちわびている。


「ディアボリカ」


 父王から声がかかった。彼の背後には、ディアボリカの兄であるヴラドが控えている。

 ふたりともディアボリカと揃いの黒髪だ。三人が戴いた銀の冠が、春の陽光にまぶしく輝く。


「共に行けないのは残念だが、旅の無事を祈っている。道中気をつけてな」

「ありがとうございます、父上」


 ディアボリカは父が広げた腕のなかに身体を預けた。


「帰路で立ち寄るルサールカの村でゆっくりしておいで。みやげ話を期待しているよ」


 父との抱擁が済んだディアボリカに、そう言って片目をつぶってみせるヴラドを見て、ムッと唇をとがらせる。


「……ルサールカの村は今、雪解ゆきげの祭に湧いていると、家庭教師からうかがいました。やはり、巡礼のついでの視察など、方便ではないですか、兄上……」

「あ、聞いてしまったのか。まあいいじゃないか、冬のあいだは目が行き届かなかった僻地へきちの様子を、巡礼のついでに見てきてほしいのは本当なんだから。ね、父上」


 ヴラドが話を振ると、王はにこやかに肯定した。

 つまりこれは、めったに城を出ることのないディアボリカが、嫁入り前の最後の旅で、村の祭りを楽しめるよう、二人が計らったたくらみごとなのだ。


 どこかこそばゆいような気持ちになる。ディアボリカは熱くなった頬を直視されまいと、ふいと顔をそむけて「心遣い、感謝します」と、小さくつぶやいた。

 父も兄も、ディアボリカを産んですぐに亡くなった母の分まで、末娘である自分に、惜しみない愛情を注いでくれている。


「ディアボリカを頼むぞ、ターニャ」

「お任せください。この命に代えても、姫をお護りいたします」


 王に声をかけられたターニャは、胸に拳をあてて敬礼した。凛々しい眉を持つ彼女は、春の巡礼を旅する乙女騎士たちの団長だ。


 リヴレグランでは、短い春を乙女、刹那の夏を青年にたとえている。そのため姫が結婚の報告のために黒竜の墓を訪ねる巡礼は、春と定められていた。


 春の巡礼は、乙女たちの手によって成し遂げられる。つまり巡礼に参加できるのは、女だけ。例年の夏の巡礼ならば、王と王子がかなめとなるが、春の巡礼に男は参加できない。春の巡礼の要は、ディアボリカだ。


 ディアボリカは騎士から受け取った銀の剣を腰にき、黒馬に近づいて、立派に整えられたたてがみを撫でた。


「道中よろしく頼むぞ、ブライアー」


 ブライアーが満足げに鼻を鳴らすのを聞き、なめし革でできたくらまたがる。いつも矢のように駆けてくれるこの愛馬は、ディアボリカによくよく懐いている。


「ディアボリカ様、お供できず申し訳ありません……」


 まだかんが残る中庭の空気に鼻を赤くしたミリが、ブライアーに騎乗したディアボリカを見上げる。

 ディアボリカは目を細めて笑った。


「気にするな。お前の家は、母一人、子一人だろう? 侍女の仕事もしばらくないのだから、しっかり母親に孝行してやれ」

「ありがとうございます……あの、旅のご無事をお祈りしております」


 ミリはへにゃりと笑った。


 本来なら春の巡礼に参列するはずだったミリは、腰を痛めて身動きが取れなくなった母の看病のため、ノクイエに残る。母の面倒を見たいと、いつも遠慮がちな彼女がめずらしく口にした望みを、ディアボリカはこころよく受け入れた。


 ミリと別れてブライアーの足慣らしをしていると、ふとヴラドがこっそりとモイラを手招きしている様子が、ディアボリカの目に留まった。


 モイラが自分を指さして首をかしげる。ヴラドが頷く。自分が呼ばれているのが勘違いでないと悟るやいなや、モイラは急いで彼のもとへ駆け寄った。


 ヴラドは何やら小さな革袋をモイラに渡し、それから彼女にひそひそと耳打ちをした。モイラは目を白黒させながら、何度も首を縦に振った。その頬は熟れた林檎のように赤い。


「ディアボリカ」


 王に呼ばれて、ディアボリカは我に返った。


(何やら、盗み見のような真似をしてしまったな……)


 気まずさを押し殺し、急いで手綱を操って、王のもとへと歩み寄る。


「そろそろ出立だな。私たちの分まで、黒竜に祈りを捧げてきてくれ」

「はい。父上も息災で」


 唇をほころばせると、王は自らの外套を割って、ディアボリカに手を伸ばしてきた。

 年を重ねた分厚い手が、愛おしむように長い黒髪をく。


 微笑む王の金の双眸そうぼうに、ディアボリカの顔が映っている。白い肌、黒い髪、それから青と金の色違いの瞳。父も兄も、記憶のなかの母も持っていない、片方だけ青い瞳──


 幼い頃から寝物語のかわりに、繰り返し父から聞いたものだ。〝その片方の青い瞳は、我らと血の盟約を交わした黒竜とおなじ瞳だ。お前は竜の加護を受けているに違いない〟と。


 角笛の音が響き渡る。出立の合図だ。


 ターニャを筆頭に、乙女騎士たちが門の外へと馬を進めていく。ディアボリカは名残惜しくも王の手をそっとほどいて、隊列に加わった。ヴラドとの話が終わったのか、急いで馬で駆けてきたモイラも隊に加わる。


 門をくぐる直前、春らしからぬ凍えるような風が吹いた。

 悪寒おかんに似た震えがはしり、不安を覚えて、中庭を振り返る。


 中庭では父と兄が並び立ち、旅の一行を見守っていた。二人は振り返ったディアボリカを見つめ、寂しがり屋をとがめるような、いたずらめいた視線を送ってくる。

 ディアボリカは肩の力を抜いて二人に微笑み、再び前へと向きなおった。




 ……もし、あの冷たい風のしらせに気づいていたなら。

 春の巡礼に行かず、父と兄と黒城に残っていたなら。

 これから訪れる未来も、何かが違っていただろうか。

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