過去と現実
教室から出たおれは、そのまま階段を下りた。三階から二階にある、職員室の手前まで歩いた。やたら冷たい空気を吸い込んで、職員室の前に置いてある長机の前に立つ。パイプ椅子を引いて、座る。目の前の壁に貼り付けられた就職情報について書いてある壁紙を視界の端に収めながら、職員室の前の机でひたすら資格試験の過去問を解く。
答え合わせをすると、一問間違っていた。問いをもう一度読み、解きなおす。全問正解しても繰り返す。
一年生から受講し続けている試験。見慣れた問題。それでも公害総論には、二年連続で落ちた。それでも他の二科目は一年ずつ受かってきた。今年は一科目合格すればよい。いくら無能なおれでも、これ以上落ちるはずが無い――落ちたときのことなど考えたくも無い。そんなことはあり得ない。
進路指導室の扉が開いた。岸川先生――進学クラスの担任――がおれを認め、戸惑いと驚きが混じった表情を浮かべる。日焼けした濃い顔立ちに眼鏡が似合っている。
「おまえ、公害防止の資格受けるん?」
「はい」
ダイオキシン担当の化学科の吉井先生と二年まで担任だった河合先生から話は伝わっていた。おれを公害防止管理者資格のダイオキシン類を受けてみたらと勧めてくれたのは化学科の学科長だった吉井先生だった。
コツコツ勉強ができるやつが受かるから、藤沢が受けてみたらどうか――河合先生から吉井先生がそう言ってくれたことを伝えられた。不安もあったが、おれは受けることをすぐに決めた。
中学校でのおれは常に教室の隅にいて、笑われる存在だった。高校ではそうではなかった。いじめられることもなかった。
でも、友達は一人もいなかった。学校内で何となく喋るクラスメイトはいても、プライベートで遊ぶ人間は誰もいなかった。高校でも誰とも繋がれず、空っぽな自分――それを誰にも知られまいとひた隠しにしていた。
高校三年生の九月――受験と被さっているにもかかわらず、おれは試験を受け続けている。馬鹿なこととは分かっていた。それでも、一年一年、積み上げてきたのだ。一回受験するのに八千円かかる。落ちれば全てが無駄になる。それでも受かれば――家族を喜ばせられる。もともと先生に受けたらどうかと勧められて、受験したんだ。先生もおれが受かるだろうと信じてくれたのだ。
母に公害防止の教科書を買ってほしいと頼んである。六千円ぐらいする、高い本だ。本当にそれでいいの? 他のものの方が欲しいんじゃないの――母はそういった。
これがいい――おれは頑なだった。じゃあ受かったらね――母が笑顔を向ける。おれは頷いた。初年であと一問のところを落としたんだ。今年は総論だけ。行けるさ。
落ちても受かっても来年はない。再び過去問をやり直す。答え合わせをして、問題に該当している教科書の頁を読む。背中が冷えているのを感じながらも、また過去問を解き始める。
本当におまえに出来ると思ってるのか? 今まで何一つ自分でやり遂げられなかったおまえに?
おまえは昔から何も出来なかったじゃないか。
小学生のときから既に、おれはひとりぼっちだった。寂しかったが、それでも、誰からも気にされないだけましだった。中学校になるとおれのひとりぼっちをつまみ上げ、論う奴らが出てきた。直接的な暴力は無かったが、クラス中に疎まれているのは明らかだった。
中学校で行われた、抜き打ちの小テスト。いつものように、出来ない。皆のすらすらと走らせる筆記音によけいに萎縮する。何も考えられなくなる。そのまま試験時間が終わる。一人でため息をつく。それで終わりのはずだった。
「このテストで全員合格してたら、先生から素敵なお土産がありまーす。ほら」
数学教師の西山が唐突に提案した。おれは目を見開いた。身体の芯が痙攣していく。
西山が包装された箱を翳した。どこかの名産品の、おやつ。すげえ、高級な奴やん――背後でどよめきが沸いた。
「今から採点するんで、それまで自習しててください」
「マジかよ」「やった」「簡単だしいけてるやろ」
みなが口々に騒ぎ立て、希望を述べる中で、おれだけが緊張に指先を自由に動かせない。全身の強張りがより頑ななものになっていく。自分のものなのかわからなくなるほどに鼓動が暴れ出す。対照的に背筋は温度を失っていく。先生が教卓に向かい、採点をする。皆の浮き足だった騒ぎ越えと、先生が答案を捲る音が恐れとなっておれの肌に押し寄せ、鳥肌を作っていく。
「全員の採点が終わりました」
「まじか! どうでした先生!」
「お土産ください!」
「その予定でしたが、残念だけど、ご褒美はなくなりましたー」
「は?」「なんで?」「意味わかんない」
「たった一人、不合格がいたからでーす」
そう言って西山は大袈裟にこちらを見た。おれと目が合った。
誰も彼もが押し黙った。おれの背中に舌打ちが浴びせられた。振り返らなかった。後ろを見るのが怖かった。まただ。皆の期待を、おれ一人でぶち壊す。おれだけが役立たず。
西山に悪意があったのか、ただ無責任なだけだったのかなんてわからない。授業が終わり、先生が出ていった。クラスで一番目立つ桐島がおれに向かって言った。
「おまえマジ迷惑」
その一言が掃きつけられた。周りをみた。誰の顔も不満を含んでいた。おれは動けなくなった。
桐島はやんちゃな言動を繰り返す陽気な性格だった。おれとは違って何でもできた。おれを暗闇に叩き落とすことすら容易かった。
次の授業中に、斜め後ろの席で話し声が聞こえた。
「ぼっちって迷惑しかかけんよな」「あいつだけやろ」
寒気が身体の芯を凍り付かせた。背中が氷柱に変わったように感じられた。
その日のこと――家族に言えるわけがなかった。一人で帰った。帰り道、公園のトイレに寄り、個室の中で便器に座った。薄暗く、饐えた匂いのするトイレ――おれにはよく似合っていた。スマートフォンでLINEのスタンプ欄を開いた。
うさぎのLINEのスタンプ。母にもらったお気に入りの、かわいいうさぎ。タップし、スタンプ欄をただ、眺める。
オッケーだよ。うさぎが右手でグッドマークを作っている。うさぎを見ていると心臓が縮こまるような痛みを覚えた。うさぎを見つめることが後ろめたい。うさぎスタンプは使わず、メッセージだけを打ち込む。
小テストできてなくて悲しい。
おれは嘘をついた。辛かったのは小テストができなかったからじゃない――おれがクラスの誰よりも劣っていたからだ。自分の能力のなさをいやというほど痛感させられた。それを全員の前で論われたからだ。みんなに責められたからだ。どこまでも一人ぼっちであることを突き付けられたからだ。おれのすべてを否定されたからだ。悲しみを伝えたかった――自分の惨めさを知られたくなかった。だから、真実をぼかして、弱音を吐いた。
頑張ったなら仕方ない。
すぐに母からの返信が来た。間を置かずハートを抱えたうさぎのスタンプが出た。大丈夫です――うさぎに添えられた、柔らかいフォントの文字。堰を切ったように感情が溢れ出した。個室の中で蹲った。何にも出来ない自分が辛くて一人で泣いた。
また嫌なことを思い出した――気分が落ちてゆく。もう四年以上前のことなのに、今でもこの出来事に自分の中で折り合いが付けられなかった。おれの歩んできた人生にはいつだって嫌な記憶が張り付いていた。人から馬鹿にされてばかりの自分にうんざりした。唐突に倦怠感が全身にのしかかってきた。おれは首を振り、また公害総論のテキストを開き、十分程度目を通した。ペンを走らせ、また過去問を最初から解きなおしていく。職員室から先生が退出する、七時ぎりぎりまで頑張るつもりだ。
今日もおれは一人だった。進学クラスの七人――おれだけが蚊帳の外。皆が遊びの予定やゲームや動画で盛り上がる中で、おれに対して向けられるのはあまりにも素っ気ない日常会話ばかり。
それも仕方が無かった。おれが返せるコミュニケーションもまた、ひどく淡泊でつまらない物しか無かったからだ。おれには人に話して聞かせられるような趣味なんて無かった。
今までずっと、誰かに馬鹿にされないように、間違わないように、軋轢を起こさないように生きてきただけ。
そんなおれにまともな趣味など出来るはずが無かった。あえて言うなら絵を描くことだが、それを誰かに話して聞かせることも、絵を通じて誰かと関わることもできない。
趣味だけで無く、友達も、将来やりたいことも何一つとしてない。もしクラスメイトがおれに対しても親しみを込めたコミュニケーションをしてくれたとしても、おれは彼らが期待するような返事をすることは出来ないだろう。
それでも――わかっていても辛い。
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